消された方も、まだそこにいる
翌日、M-32は「声がする」と言った。
ベッドの横には飲みかけの水が置かれ、昨日Sが持っていった枕は、まだ柵へ立てかけられている。僕が椅子へ座ると、男は自分のこめかみに触れた。
「遠いんだ。聞こうとすると、分からなくなる」
「何か、言葉になってますか」
「まだ。ただ、うるさい」
言い終わったあと、男の顔が強張った。
「違う。俺は一人だ」
三枝先輩が僕へ視線で合図する。問い詰めるな、という意味だと分かった。
「今すぐ答えを出さなくていいです」
「一人じゃなきゃ駄目なんだ」
男は布団を握りしめた。
「二つの意思は、判断を遅らせる。迷いは弱さだ。強い方だけ残ればいい」
自分の意見というより、何度も言わされた文を確かめているようだった。
――誰の言葉だよ。
Sの声が低くなる。
隣で検査記録を見ていた白峰主任が、画面を伏せた。
「その文言は、支配試験の資料にもあった。だが、ここでは従う必要はない」
男が主任を見る。何かを答えようとして、顔を歪めた。
「……うるさい」
僕たちへの言葉ではなかった。
「消えたんだろ。お前は、もう――」
呼吸が速くなり、心拍計の音が変わる。男が腕を引くより先に、三枝先輩が枕を抱かせた。
「今日はここまで。先生を呼んで」
主任が医療スタッフへ連絡する。僕は立ち上がりかけたが、男の視線がこちらを探していることに気づいて、椅子へ戻った。
「ここにいます。話さなくてもいいです」
男は枕を抱えたまま、俯いていた。
◇
部屋の明かりを落とし、痛みや呼吸の状態を診てもらった。検査は中断され、僕たちもいったん廊下へ出た。
少しして、看護師がSと話せるかと聞きに来た。
「ご本人が希望しています。疲れているようなら、すぐ終わりにします」
(S、どうする?)
――話す。
三枝先輩に僕たちの状態を確認してもらってから、主導権を渡した。交代したSはすぐには病室へ入らず、目を閉じて呼吸を整える。
「焦らなくていい」
先輩の声に、Sは「分かってる」と答えた。
男は枕を膝に置き、さっきよりゆっくり息をしていた。
Sが座ると、顔を上げる。
「お前は、怖くないのか」
「何が」
「もう一人に消されるのが」
Sが黙った。
僕も、すぐに否定しなかった。僕たちは、お互いに怖くないと言えるところから始まったわけではない。
「昔は、こいつが邪魔だと思ったこともある」
Sの声は静かだった。
「俺が全部やった方がマシだって。傷つくくらいなら、出てこなきゃいいって」
(知ってるよ)
――今は聞いてろ。
「でも、それじゃこいつが生きてねぇ。俺が代わりに飯食って、学校行って、勝手に終わらせるだけだ」
久世さんのSが陥った、守るための支配。それを、Sは自分だけには関係ないとは思っていない。
男が枕を握った。
「俺は、勝った方だって言われた。なのにまた声がしたら、今度は俺が負けるかもしれない」
「勝ち負けにすんなよ」
「それしか知らないんだよ!」
怒鳴り声のあと、男は怯えたように入口を見た。誰かが罰しに来ると思ったのかもしれない。
三枝先輩は動かなかった。Sも、席を立たない。
しばらくして、Sが言った。
「ここじゃ、喋っただけで負けにはなんねぇ」
男は俯いたままだった。
「その声が怖けりゃ、今日は聞かなくてもいい。ただ、黙らせなきゃ殺される場所には戻さねぇ」
僕は身体の奥で、Sの言葉を聞いた。
昨日までなら、自分で決めろと言って終わらせたかもしれない。今日は、決められない間のことも話している。
男がゆっくり目を閉じた。
誰も急かさなかった。時計の針が動き、廊下からカートの音が聞こえた。
やがて、男の口元が震えた。
「……痛かった」
Sが顔を上げる。
「そう言ってるのか」
男は頷いた。涙が枕へ落ちる。
「ずっと、痛かったって」
Sは視線を落とし、自分の手を見た。僕も、殴られていた頃のことを思い出す。
あの時、痛かったのは僕だけではなかった。
「じゃあ、聞こえたって言ってやれ」
Sが言った。
「今すぐ仲良くしろとか、身体渡せとか、そういう話じゃねぇ。聞こえたって、それだけでいい」
男は何度か唇を動かした。
「……聞こえた」
誰に向けた声なのか、外からは分からない。
でも、そのあと、枕を握っていた指が少し緩んだ。
◇
面会のあとに行われた検査では、強制的な交代も、刺激を加えて反応を引き出すこともしなかった。男が同意できる範囲で、今の状態を記録するだけだった。
白峰主任は、復元資料と記録を別々の画面に並べた。
「波形だけで『二人いる』と決めるわけではない。ただ、ご本人の申告と、過去の記録はつながる」
古い試験名簿のM-32。その隣に、削除されていた項目が戻っていた。
【S-32】
Sは画面へ身を寄せた。
「同じ身体の、もう一人か」
「そう記載されている。固有能力名はまだ読めない。新しく生まれたというより、抑え込まれていた反応が戻り始めた可能性がある」
男が自分を一人だと言い続けていた理由が、少し分かった気がした。
一人になったのではなく、もう一人がいると認めてはいけなかったのかもしれない。
資料の判定欄には、こうあった。
【DOMINANCE:FAILED】
「失敗、だってよ」
Sの声が冷たくなる。
さっきの男は、初めて自分の中の声へ返事をした。それを失敗と呼ぶ人間が、この記録を作った。
主任が関連する記録を開く。同じ判定が何件も並び、一つだけ違う文字があった。
【DOMINANCE:COMPLETE】
【S/M DUAL ABILITY】
【MASTER直属管理】
被験者の名前も番号も、その箇所は読めなかった。
「一人で二つ、使えるってことか」
「資料はそう主張している。ただし、どんな状態を完成と呼んだのかは、まだ分からない」
三枝先輩が画面を見たまま言う。
「少なくとも、完成させるまでに、あの人たちを使った」
Sは答えず、病室へ続く廊下を見た。
僕たちが少しずつ覚えてきたのは、身体を任せることと返すことだった。向こうが完成させたというものは、その反対側にある。
――会ったら、絶対に気に入らねぇ。
Sが言う。
(僕も、何をされた人なのか知りたい)
――……そうだな。
その返事は、予想より静かだった。
廊下の向こうで、看護師が水を足していいか尋ねている。小さく、男の返事が聞こえた。
完成と書かれた画面よりも、そちらの声の方が、僕には確かなものに思えた。




