名前のない奴が、番号を捨てるまで
「速人」
「却下」
「Speedだから」
「理由まで聞いてねぇ」
翌日の管理局の休憩室で、小日向紗月さんは紙コップを持ったまま首を傾げた。
「じゃあ速太郎」
「悪化してんじゃねぇか」
「真白S太郎」
倉田が便乗すると、Sは無言で睨んだ。
「俺のだけ返事もねぇの!?」
今日は休息と検査を済ませてからSへ交代していた。名前の話を聞いた二人が候補を出し始めたせいで、Sはさっきから不機嫌だ。
(人気者だね)
――どこが。
「そもそも、何でお前らが決めようとしてんだよ」
「候補を出してるだけ。採用しなくていいよ」
紗月さんは平然と言った。無理やり能力者にされてから、自分で選べるものに敏感になった人だ。口出しをしないことと、何も提案しないことは違うらしい。
「自分では考えた?」
「……まだだ」
「なら、お茶飲んでから考えたら」
Sの前へ、余っていた紙コップが置かれた。
昨日、名前が欲しいと言ったからといって、今日までに決めなければならないわけじゃない。Sもそれは分かっているらしく、文句を言いながらコップを取った。
扉が開いたのは、その時だった。
三枝先輩が、後ろの白峰主任より先に口を開く。
「昨日のMirror能力者が目を覚ました。Sと話したいと言っている」
Sがコップを置いた。水面が一度だけ揺れた。
◇
医療区画の男は、昨日より少しだけ顔色がよかった。治療された両腕を布団の上へ置き、窓のない病室の天井を見ている。
腕の古い傷の間に、薄く【M-32】という文字が残っていた。
身元の確認は続いている。記録に名前が見つからないことと、この人に名前がなかったことは同じではない、と主任は面会の前に説明した。
「何て呼べばいい」
椅子へ座ったSに、男は視線を向けた。
「M-32」
「ほかには」
「思い出せない。それ以外で呼ばれると、今は誰のことか分からない」
Sは少し黙ってから頷いた。
「じゃあ、今はそれで」
男が僕たちの顔を見つめる。
「……昨日と、同じだ」
「俺を知ってんのか」
「お前が誰かは知らない。でも、その顔を見たことがある」
Sの背筋が伸びた。僕も、身体の奥で息を詰める。
「どこで」
「研究所の映像。小さい子供が眠っていた。似た顔だった」
三枝先輩が質問を継いだ。
「直接会ったわけではないのね。いつの映像か分かる?」
男は首を振る。
「見せられただけだ。何年前なのかも、その子の名前も知らない」
似ている、と言っただけ。それでも僕の手が冷たくなった。
生まれて間もない頃、僕はすでにSM-01の候補として登録されていた。それが何を意味するかは、今も分からない。
「隣で、研究者が話していた」
男の声が掠れた。
「二つも意思はいらない。強い方が弱い方を従わせればいい、って」
Sの椅子が鳴る。
「誰が言った」
「MASTERだと聞かされた」
「本人を見たのか」
「声だけだ。俺は、そう説明された」
Sが口を閉じる。知りたいことを急いで聞きすぎれば、この人が覚えていることまで僕たちの想像で埋めてしまう。
(三枝先輩に任せよう)
――分かってる。
Sは座り直した。男の両腕が、まだ震えていることに気づいたらしい。
◇
話が途切れた時、男が肘を動かした。視線を落としたまま、傷ついた腕をベッドの柵へ近づけていく。
Sは立ち上がらず、手元の枕を柵との間へ置いた。
「今は、何も使わなくていい」
男の手が止まる。
「MPが必要だ」
「何に」
「能力を……」
そこから先の言葉が出なかった。
先輩が看護師を呼ぶ。男はその姿を見て肩を固くしたが、腕を押さえつけられることはなかった。痛む場所を聞かれ、小さく答える。
処置が終わるまで、Sは枕から手を離さなかった。
「使わないと、何をすればいいか分からない」
男がぽつりと言う。
「言われたことをやって、番号を呼ばれるのを待っていた。それで一日が終わってた」
「なら、今日は水でも飲めばいい」
Sが看護師を見て、飲んでよいか確認した。許可が出ると、紙コップを男へ渡す。
僕は休憩室の紗月さんを思い出した。Sも、同じことを思い出しているのかもしれない。
男はコップを持ったまま、自分の腕の番号を見る。
「これを捨てろって、思うか」
「嫌なら捨てりゃいい」
「簡単に言うなよ。三十二じゃなかったら、俺は何なんだ」
Sはすぐには答えなかった。
それから、自分の仮登録証を出した。
「俺も、決めてる途中だ」
「Sが名前じゃないのか」
「湊が勝手に呼び始めた。性格が最悪だからSだとよ」
(そこまで説明しなくてもいいでしょ!)
男の口元が、わずかに動いた。
「変な理由だな」
「だろ」
――おい。反省しろよ。
(名前は変でも、呼んだら返事してくれたじゃん)
Sは鼻を鳴らした。男は、僕たちが黙っている間を不思議そうに見ている。
「話してるのか」
「ああ」
「そうか」
その声に、羨ましさのようなものが混じった。
Sは登録証をしまう。
「すぐ番号を捨てろとは言わねぇよ。次に何て呼ばれたいか、決まってからでいい」
「……それまで、三十二でも?」
「俺が決めることじゃねぇだろ」
男はコップへ口をつけた。ひと口飲んでから、もう一度だけ腕を見た。
「でも、いつかはやめたい」
Sは頷いた。
「じゃあ、その時は呼び直す」
◇
面会を終えると、白峰主任が待っていた。
復元した古い資料に、M-32と一致する番号があったという。
【INTEGRATION TEST】
その下に、方式を示す文字。
【DOMINANCE】
「支配による統合試験。久世君の受けた人格固定と、目的はつながっている。今回は二つの能力の使用を、一方の意思に従わせようとした実施記録だ」
「知ってたのか」
「考え方の断片は知っていた。この番号の人間に何がされたかは、今、初めて分かった」
主任は画面を隠さなかった。公開できる記録と、まだ読めない領域を分けて示す。
そこには「弱い人格」という言葉が何度も出てきた。何をもって弱いとするのかは、研究者側が決めている。
Sがその文字を睨んだ。
――なあ。
(何?)
――俺が強い方だったら、お前を消せんのか。
質問なのか、恐れているのか、分からなかった。
(分からない。でも、君はやらないでしょ)
――何で言い切れんだよ。
(僕が勝手に死のうとすると、毎回怒るじゃん)
返事がない。
僕は続けた。
(君を、僕を消すための人にしたいんだと思う。あの人たちは)
Sが登録証の入ったポケットを押さえた。
――……気に入らねぇな。
(うん)
「その資料、続きを調べろ」
Sが主任へ言う。
「今度は、あいつが何をやられたかも分かるように」
「調べる。ただし、思い出すことを無理に求めない」
「分かってる」
Sは一度、閉じた病室の扉を振り返った。
自分で決めろと言うだけでは、足りないこともある。僕たちが戻ってくるまで、あの人がコップを持っていられる場所も必要だった。




