俺の名前を、お前が決めるな
Sは通知を閉じなかった。
【自分の名前が欲しいなら、MASTERに聞けばいい。】
たった一行を見たまま、道の端へ寄る。通り過ぎる自転車のベルに、肩が小さく跳ねた。
(歩くの、やめよう。先輩に連絡する)
――俺がやる。
Sはそう答えた。身体を返せとも、一人にしてくれとも言わず、自分で三枝先輩の番号を押した。
「変な連絡が来た。今から見せる」
その声が、普段より低かった。
◇
管理局では通知アプリを通信から切り離し、複製した受信記録だけを調べた。
「二人として登録したことが悪いんじゃない」
最初にそう言ったのは白峰主任だった。
「旧式の照会経路が残っていた。廃止したはずのSM計画用の識別形式が、今回の仮登録に反応している」
モニターに【SM人格管理領域】という文字が出る。
三枝先輩の目が冷たくなった。
「また古い権限を使われたの」
「久世君への偽装命令と、同じ系統かもしれない。外部から通知を差し込める箇所は閉じる」
Sは端末を睨んだ。
「俺の欄を作ったら、昔の檻につながってましたってか」
「こちらの不備だ。君が登録を望んだ責任ではない」
主任は、そこだけは言い切った。
通信を切る直前の受信記録には、続きがあった。
【聞きたいことがあるなら来い。】
添えられた座標を、三枝先輩が地図へ落とす。東京郊外の閉鎖施設だった。
呼ばれてきた早乙女さんが、画面を見て息を吐いた。
「旧SM研究所の関連施設。あの第一分室とは別の区画ね」
「俺がいた証拠は?」
Sの問いに、彼女は首を振る。
「ここで何が行われていたか、私も全部は知らない」
僕の中で、Sがまた黙った。
◇
「確認は班を出す。あなたたちが現地へ行く必要はない」
三枝先輩の判断に、Sはすぐ返した。
「行く」
「誘っているのは向こう」
「分かってる」
「相手の望む返事をしないためにも、今ここで決めなくていい」
Sは反論しかけて、唇を閉じた。
しばらくして、頭の中へ声が来る。
――湊。
(僕も知りたい。ただ、あの人から名前をもらいに行くわけじゃない)
――当たり前だ。
(下見が終わってから。先輩と一緒に。帰れって言われたら帰る)
Sは机の縁を指で叩いた。
「……条件付きでいい」
その日の夕方、先行班から報告が来た。入口の罠は解除され、調査可能な区画は限定されている。一方、地下の一室だけは独立した電源で動いていた。
Sは検査を受け、休んでから参加を決めた。三枝先輩は僕の返事も確認し、ようやく頷いた。
怖い場所へ行くことより、怖いと言いながら条件を相談する方が、Sには難しそうだった。
◇
旧施設の廊下には、消毒液とは違う古い埃の匂いが残っていた。
前を歩く三枝先輩のほかに、調査員が二人。白峰主任は外部から通信でつながっている。僕たちはSのまま、指定された端末室へ入った。
壁際の端末には、すでに【人格識別:S】と表示されていた。
「俺、何もしてねぇぞ」
『認証と書いてあっても、本当に本人を認識しているとは限らない。表示は演出できる』
主任が言う。僕はその言葉を覚えておこうと思った。
スピーカーから加工された声が流れた。
『名前が欲しいか』
「てめぇがMASTERか」
『私は伝言を預かっただけだ』
画面が切り替わる。
【お前に名前はない。】
【必要なかったからだ。】
Sの指が曲がった。
【道具に名前は要らない。】
拳が表示器へめり込んだ。
乾いた破裂音と一緒に画面が割れる。敵の設備へ与えた損害がSPになり、身体の奥へ少しだけ熱が入った。
「S!」
三枝先輩の声にも、Sは振り向かなかった。拳を引き、もう一度叩きつけようとする。
(S。もう画面は消えてる)
――分かってる!
(なら、次は何のために壊すの)
拳が空中で止まった。
僕は主導権を奪おうとはしなかった。怒りを引っ込めろとも言いたくなかった。
(怒っていい。でも、あいつの言葉を聞くために、ここまで来たんじゃない)
Sが荒く息を吐く。
「……クソ」
拳が下がった時、端末の奥で赤いランプが点いた。床下の搬送台がせり上がり、薄い拘束帯を外された男が姿を現す。
首を垂れ、腕にはいくつもの傷があった。
「生存者!」
調査員の一人が声を上げる。男はその声に反応して顔を上げた。
「侵入者……排除」
三枝先輩の端末が鳴る。
「M型。登録波形はMirror。攻撃しないで」
男の拳が飛んだ。
Sはさっき得たSPの一部を使い、半歩だけ横へ抜ける。反撃の拳は出さない。男はつんのめり、背後の壁へぶつかりかけた。
「そっちも駄目だ!」
Sが脇の厚い保護マットを倒し、男と壁の間を塞ぐ。救助へ備えて先行班が運び込んでいたものだった。
男はマットの前で止まり、こちらを睨む。
「攻撃しろ」
「嫌だね」
「攻撃しろ!」
「MPをやる気はねぇ」
三枝先輩が男の側面へ回った。僕たちへ合図し、調査員に出口の確保を指示する。
男は拳を握り直した。その指が震えている。
「攻撃されないと……俺は、何もできない」
「今は何もしなくていい」
「違う。使わないと、価値がない」
Sが動きを止めた。
さっきの画面は砕けている。それなのに、同じ言葉が目の前の人間の中から出てきた。
「能力が使えねぇ時のてめぇは、人間じゃねぇのかよ」
男は答えなかった。代わりに、Sの顔をじっと見た。
「……お前は」
続きは出なかった。
膝から力が抜け、男が崩れる。Sが支え、先輩が腕の傷を確認した。救護員が担架を運び込む間も、男は誰も殴ろうとしなかった。
◇
回収したデータと生存者を乗せ、車は施設を離れた。
表示器を壊す前の映像は記録されている。残った端末からの解析は、調査班に任せることになった。僕らが無理に居残る理由はない。
Sは窓に映る自分の顔を見ていた。
――湊。
(何?)
――名前、欲しいわ。
僕は笑わなかった。
(うん)
――あいつに聞くためじゃねぇぞ。
(分かってる)
Sがポケットから仮登録証を出す。親指で、【S】の文字をなぞった。
――名前なんか要らねぇって言う奴に、なくていい理由まで決めさせてたまるか。
(それで、候補は?)
――まだねぇ。
(そこはまだなんだ)
――お前には相談しねぇからな。絶対ダセぇの出す。
(決めないって、何回言えばいいの!?)
いつもの言い合いが戻る。
窓に映った顔は、まだ少し青かった。それでもSは、登録証を隠すようにはしまわなかった。




