一人で二つ使えるから、強いとは限らない
英語の小テストの三番を、僕は解けなかった。
――B。
(教えないで)
――昨日、一緒に見た単語だろ。
(自分で思い出すから)
「真白。独り言は終わった?」
「すみません!」
教室から笑い声が起きた。朝倉まで肩を震わせている。隠れて口を動かしたつもりでも、考える時間が長いほど顔に出るらしい。
世界のどこかには、二つの能力を一人で使えると記録された人間がいる。もう一人を従わせてまで、完成品と呼ばれた人が。
僕たちは単語一つで揉めている。
――ほら、時間切れ。
(次の問題やる)
採点後の正解はBだった。
――相棒への信頼が足りねぇな。
(答案にまで共存を持ち込まないで)
悔しいけれど、こういうことで言い合えるのは悪くなかった。
◇
放課後、管理局へ行くと、M-32は病室の椅子に座っていた。膝には、食事の希望を記入する紙がある。
「声は、どうですか」
「いる。少しだけ話せる」
「何か言ってます?」
男は気まずそうに紙を見た。
「俺がうるさいって」
僕は思わず笑った。
――気が合いそうだな。
(どっちと?)
――黙って聞かされてる方。
いつもの理不尽だった。
男は今朝、夢を見たという。白い部屋にいて、誰かと戦わされていた。中の声は、ずっと逃げろと言っていたらしい。
「信用できるか、まだ分からない」
「今、全部信じなくてもいいと思います。僕たちも、いまだに意見は合わないし」
――三番の答えは合ってただろ。
(それ、まだ言う?)
男が僕の顔を見て、小さく笑った。
直後、廊下の表示灯が赤に変わった。
『医療区画、退避開始。搬入口から侵入者』
三枝先輩が扉を開けた。
「真白君、その人と奥へ。追いかけないで」
僕は立ち上がり、男へ手を差し出す。男は自分で立って、その手を支えに歩き出した。
避難路の先で、重い金属音がした。
防火扉が内側へ折れ曲がる。その向こうから、黒い服と白い仮面の人物が現れた。
仮面の男は、まっすぐM-32を見た。
「回収する」
◇
三枝先輩が二人の間に立った。
「両手を見せて。そこから動かないで」
男は手ぶらだった。それでも先輩は槍を構えたまま、僕らに下がるよう合図する。
「M-32。失敗個体」
仮面の男の声に、隣の人の肩が跳ねた。
「戻れ」
「嫌だ」
返事は、意外なほどはっきりしていた。
「俺たちは、戻らない」
俺たち。
その言葉を聞いた瞬間、僕の中でSが短く笑った。
――いいじゃねぇか。
仮面の男は反応しなかった。
「失敗個体に意思は不要」
踏み込みが見えたのは、最初の一歩だけだった。
S型の反応が跳ね上がる。三枝先輩の槍をすり抜け、男はM-32へ迫った。
すでにSPを持ってきているのか。それとも別の能力なのか。僕が判断する前に、M-32が身を捻った。
拳は壁へ突き刺さり、コンクリートが欠ける。
M-32が反射的に相手の腹を殴った。
「やめ――」
三枝先輩の声に、端末の警告音が重なる。
【M系反応上昇】
男の身体がわずかに折れた。次の瞬間、床へついたその手を中心に衝撃が広がり、M-32が後方へ投げ出された。
僕はその身体を受け止めきれず、一緒に壁際へ倒れた。肩に鈍い痛みが走り、少量のMPが溜まる。
「二つ……!」
『Mirrorとは波形が違う。能力名を決めつけるな!』
通信の向こうで白峰主任が叫んだ。
Sのように高速で動き、Mとして被弾を力へ変えたらしい。その間、人格が替わったようには見えなかった。
――完成って書いてあった奴か。
(まだ分からない。でも、危ない)
仮面の男が僕へ顔を向ける。
「SM-01も来い」
「行きません」
反射的に答えた。床へついた手は震えていたけれど、返事を変える気はなかった。
「それと、僕たちを番号で呼ばないでください」
「識別に問題はない」
「こっちにはあります」
男が一歩進む。
三枝先輩が横から牽制し、その進路を狭めた。
「後退。次の扉まで」
僕はM-32を支えながら動く。相手を殴れば、相手のMPを増やす。殴られれば、相手のSPを増やす。
殴り合いを続けるほど、向こうの選べる手が増える。
――だから、付き合うな。
Sの声に頷き、僕は溜まったMPを床へ流した。男を吹き飛ばすためではなく、倒れた資材棚を押してずらし、追跡路を細くするために。
「M-32さん、歩けますか」
「……歩く」
答えと同時に、僕の肩へかかる重さが減る。
仮面の男は棚を蹴り割ろうとした。そこへ三枝先輩のMeasureが重なり、能力による加速が一瞬鈍る。
資材が砕ける前に、僕たちは次の区画へ入った。
「閉めて!」
警備員が隔壁を下ろす。三枝先輩も潜り抜け、反対側へ槍を向けた。
これで勝ったわけじゃない。扉を壊せば、向こうはまたSPを得る。今の抑制も、いつまでも続けられない。
けれど、負傷者と人の多い病室からは遠ざけられた。
僕はM-32を救護員へ渡した。自分の肩から手を離すのが怖かったが、ここは任せた方がいい。
「奥へお願いします」
仮面の男は細い観察窓の向こうで立っていた。首元の小さなランプが点滅し、指が一度だけそこへ触れる。
「……帰還指示」
「誰の指示?」
三枝先輩が問う。返事の代わりに、男は床へ小型の発煙筒を落とした。
白い煙が向こう側を覆う。
「追わないで!」
先輩が警備員を止めた。敵を追うより、救護区画の入口を守る方が先だった。
非常通路で金属の破断音が響く。監視映像に男の姿が映った時には、すでに外壁側へ抜けられていた。
◇
搬入口を開けたのは、偽装された古い保守命令だった。調査班が旧権限を切り離し終える前に、その隙を使われたらしい。
以後、医療区画の扉は外部命令を受けない運用へ切り替えられた。Sは「最初からやれ」と怒ったけれど、僕も同じ気持ちだった。
男が通った廊下には、細い金属札が落ちていた。裂けた服の留め具が残っている。
【D-01】
僕が近づくと、Sが止めた。
――触んな。何仕込まれてるか分かんねぇだろ。
(分かった)
調査員が札を回収する。その間も、Sは妙に静かだった。
(あの人、知ってる?)
――知らねぇ。
返事は速い。けれど、それで終わらなかった。
――ただ、あいつの踏み込み。
僕は、最初に姿が消えた瞬間を思い返した。
――俺と同じだった。
僕たちの足元に残った白い粉塵へ、Sの視線が落ちる。
能力が二つあることより、その一歩を知っていることの方が、今はずっと気味が悪かった。




