同じ身体でも、同じ答えじゃない
管理局の特例審査室は、窓のない普通の会議室だった。机の上には水の入ったコップが一つと、記録用のマイクが一つ。僕たちの正面で、眼鏡をかけた女性が書類を揃えている。
「審査担当の牧野です。今日は、お二人それぞれの希望を伺います」
「真白湊です。それと、S」
――紹介が雑。
(自分でやる?)
その前に、気になる人がいた。
「どうして白峰主任がいるんですか」
「能力と人格交代の安全確認をする立会人だからね」
「帰ってください」
「自己紹介より先に追い出されるとは」
隣の三枝先輩が淡々と言った。
「検査はしないでください」
「今日はしないよ」
「今日は、ではなく、同意なしには」
主任が小さく両手を上げる。牧野さんは、そのやり取りも記録していた。
「最初に。これは戸籍を二つに分ける審査ではありません。医療や能力管理、事情聴取で、片方の意思だけをお二人の総意として扱わないための手続きです」
僕は頷いた。昨日より少しだけ、今日ここへ来た意味が分かった。
◇
最初の質問は、好きな食べ物だった。
「カレーです」
――ガキ。
「嫌いなものは?」
「ピーマン」
――やっぱガキ。
牧野さんが顔を上げる。
「いま、Sさんの意見も聞こえていますか」
「悪口なら」
ペンが動いた。何が記録されたのか、少し気になる。
いくつか質問を受けたあと、三枝先輩が体調を確認した。
「頭痛は?」
「ありません」
「では、交代。今日は短時間で戻さない」
(S、お願い)
――おう。
息を吐き、主導権を渡す。指先の感覚が遠のいたあと、Sが椅子へ深く座り直した。見える景色は同じなのに、背もたれへの体重のかけ方が違う。
「好きな食べ物は?」
「肉」
(範囲が広いね)
「嫌いなものは?」
「ピーマン」
一瞬、二人とも黙った。
「……同じだからって、一緒くたにすんなよ」
牧野さんは平然と頷いた。
「好みが一致するかどうかで、意思の有無を決めるわけではありません。ご本人に聞けば答えが返る。その確認です」
Sはわずかに肩の力を抜いた。
「三枝玲奈さんについては、どう思いますか」
「命令が多い」
(頼れる先輩でしょう)
「こいつは『頼れる先輩』だとよ」
(そこは言わなくていい!)
先輩の口元が、ほんの少し緩んだ。
「違う評価を、それぞれ記録できますね」
牧野さんがそう言って、次の紙を出した。
「では。この身体について決める権利は、誰にあると思いますか」
Sの表情が止まった。
僕の名前で生まれ、僕の名前で学校へ通っている身体。けれど、この椅子の冷たさも、昨日から残る筋肉痛も、Sは同じように感じている。
「……こいつだけじゃねぇ」
Sが自分の手を開いた。
「俺も腹減るし、眠くなる。殴られりゃ痛ぇ。俺の知らねぇところで全部決められんのは嫌だ」
「では、半分ずつですか」
「右半分が俺、左半分がこいつとかじゃねぇだろ」
(右腕は欲しがってたよね)
――今それ掘り返すな。
「意見が分かれた場合はどうしますか。例えば、真白さんが誰かを助けるため、命に関わる危険を冒そうとしたら」
「止める」
返事は速かった。
「ご本人が望んでいても?」
「一人で死ぬつもりになるなって言う」
牧野さんのペンが止まる。
(僕も、君が危ない戦いを続けようとしたら止めるよ)
――しねぇよ。
(例えばだよ。SPを稼ぐために、逃げられるのに殴り続けたら)
Sが不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「こいつも俺を止めるって」
「相手を止めることと、相手から決定権を奪うことは、どう違いますか」
すぐには答えられなかった。
久世さんのSは、守るためにもう一人を表へ出さなくなったことがある。その話を、僕たちは聞いている。
Sが机の上のコップを見た。
「話す。必要なら他の奴も呼ぶ」
少し間を置き、続ける。
「こいつが折れるまで身体を返さねぇ、ってのはやらねぇ」
僕は身体の奥で頷いた。
(僕も)
◇
質問は、食事よりずっと厄介な方へ進んだ。
契約。お金。治療。能力による損害。Sが壊した物を、僕だけが壊したことにしてよいのか。どちらかの治療拒否を、もう一方の同意で押し切ってよいのか。
「緊急時の救命を止める仕組みにはできません。そのうえで、時間がある時には説明と意思確認を別々に残す。できることから整える必要があります」
牧野さんの答えは、綺麗に割り切れたものばかりではなかった。
「じゃあ、俺が犯罪やらかしたら」
「行為者が誰かを調べる必要があります。ただ、危険を防ぐために身体を拘束すれば、真白さんも一緒に動けなくなります」
「俺だけ捕まえろ、とはできねぇか」
「独立した意思があることと、身体を分けられることは別です」
二人として認めてもらえば、何でも二人分に分けられると思っていた。
けれど、教室の椅子は一つしか要らない。食事は一人前でも、嫌いなものを勝手に食べれば二人とも嫌な顔をする。閉じ込められたら、どちらも外へ出られない。
「面倒くせぇな」
(うん)
Sの言葉に、今度は素直に同意した。
◇
審査の最後に、牧野さんは一枚の書類を置いた。
「個別に意思確認を行う対象として、仮登録を進めます。まだ制度の届かない部分はありますが、Sさんの返事を省略しないところから始めます」
僕の胸が少し軽くなった。Sは「仮かよ」と言いながら、紙から目を離さなかった。
牧野さんが、一番下の欄を示す。
【人格名】
「Sという呼び方を、ご自分の名前として登録する希望はありますか」
「今もそう呼ばれてんだろ」
「そう呼ばれていることと、ご自分でその呼び方を選ぶことは別です」
Sが止まった。
最初にSと呼び始めたのは僕だ。性格が最悪だから、なんて雑な理由で。彼がその名をどう思っているか、きちんと聞いた記憶がない。
(S。君は、それでいいの?)
長い沈黙のあと、Sは首を振った。
「分かんねぇ。ほかに何て呼ばれたいか、考えたことねぇし」
「では、識別名Sのまま仮登録しましょう。決まった時に教えてください」
「今じゃなくていいのか」
「手続きを終わらせるために、こちらが名前を決めるわけにはいきませんから」
Sは空欄を見たまま、「そうか」とだけ答えた。
審査室を出ても身体はSのままだった。次の交代まで十分に休むよう、先輩から念を押されている。
(名前、考える?)
――今はSでいい。
僕は頷きかけた。続く声が、少しだけ低くなる。
――でも、いつか俺が決める。
(うん)
――お前は決めんなよ。
(決めないよ)
――絶対だぞ。
(信用なさすぎない?)
Sは笑って、まだ何も書かれていない申請書を二つに折った。空欄があることを、僕は初めて悪くないと思った。




