怖いまま、行く
――行く。
Sが答えを出したのは、数分後だった。
(止めてほしい?)
――その聞き方やめろ。
(じゃあ止めない)
僕が三枝先輩へ伝えると、先輩は短く「そう」と答えた。
「ただし条件」
Sが言う。
「人格交代を強制しない。拘束もしない。俺かこいつが帰るって言ったら帰る」
白峰主任が何か言う前に、三枝先輩が頷いた。
「分かった。それと、私も行く」
「監視?」
「護衛」
――ストーカーから護衛に昇格したな。
(本人に言わないで)
◇
出発前、早乙女静さんへ連絡を取った。
画面越しの早乙女さんは、「第一分室」という名を聞いた瞬間だけ笑顔を消した。
『私がSM計画を離れる前に使われていた施設よ』
画面の向こうで、早乙女さんが珍しく目を細めた。
『私は第一分室の所属じゃなかった。でも、嫌な噂は聞いてる』
「噂?」
『能力者を救うための心理評価と、能力者を従わせるための心理操作。その境界が、だんだん曖昧になったって』
白峰主任が口を挟む。
『当時は、能力暴走の原因を精神状態へ求める研究が多かった。感情へ介入してでも安定させるべきだ、という考え方は強かった』
『必要と、やっていいことは別だけどね』
早乙女さんが柔らかく返す。
二人の間に、過去から続く意見の違いが見えた。
「何をしていた場所なんですか」
『表向きは、覚醒条件と心理状態の観察。もっと深い区画は、参加研究員にも全部開示されていなかった』
「MASTERなら?」
『知っていたでしょうね』
それだけで十分だった。
◇
夕方、第一分室。
都心から外れた山沿いに、古いコンクリートの建物が残っていた。
錆びた門。雑草に埋もれた道路。窓の多くは割れている。
「帰るか?」
Sが冗談っぽく言う。
半分くらい本気だと思う。
(僕も怖い)
――知ってる。
(帰りたくなったら言う。君も言って)
――ダセぇ。
(うん)
――……分かった。
三枝先輩を先頭に建物へ入る。
本来なら電気など通っていないはずなのに、一歩踏み込むと廊下の照明が奥へ向かって順番に点いた。
古い蛍光灯が一本ずつ目を覚ますたび、壁の汚れや剥がれた案内板が浮かび上がる。
【心理観察室】
【適応評価室】
【隔離区画】
最後の文字だけ、誰かが黒い塗料で消そうとした跡があった。
朝倉は来ていない。
学校へ残ってもらった。
ここから先は、まだ一般人を連れて来る場所じゃない。
――あいつなら来るって言いそうだけどな。
(だから言わなかったんじゃなくて、危険度だけはちゃんと説明したよ)
――成長したじゃん。
(褒め方が腹立つ)
三枝先輩が振り向く。
「私語?」
「内輪揉めです」
「いつも通りね」
その一言で、少しだけ呼吸が楽になった。
『自動電源じゃない』
通信の向こうで白峰主任が言う。
『この施設は十八年前に送電系統を切断されている』
――歓迎されてんな。
Sの声は全然嬉しそうじゃない。
座標が示していた部屋には、古い端末が一台だけ残されていた。
触れていないのに画面が点く。
【PERSONALITY SIGNAL DETECTED】
続いて。
【M:UNREGISTERED】
【S:PATTERN PARTIAL MATCH】
「一致……じゃない?」
『“同一人物”の照合ではない』
白峰主任がすぐ補足する。
『人格活動パターンの一部が、旧SM計画のS分類に近いという意味だろう』
少しだけ息ができた。
画面が切り替わる。
【RECORD PLAYBACK】
ノイズ。
男の声。
低く、穏やかだった。
『――聞こえているか』
胸の奥でSが震える。
(この声?)
――分かんねぇ。けど……嫌だ。
『怖がる必要はない』
Sの呼吸が浅くなる。
三枝先輩が端末へ槍を向けた。
「停止する?」
僕はSへ聞く。
(どうする?)
長い沈黙。
――聞く。
「続けてください」
再生。
『君が私を覚えていなくても問題はない。記憶は処理できる』
そこで音声が一度乱れた。
『だが――』
またノイズ。
『恐怖反応だけは、どうしても残るらしい』
その瞬間、Sの気配が一気に遠くなった。
(S)
返事がない。
僕は焦って呼び続けそうになって、やめた。
さっき決めたばかりだ。
怖い時にどうするかも、Sが選ぶ。
数秒後。
――いる。
(うん)
――逃げてねぇ。
(うん)
たったそれだけの会話だった。
でも、第一分室へ来た意味はもう一つあったのだと思う。
Sは今まで、恐怖を怒りに変えることが多かった。
今は怖いまま、そこにいられる。
画面にファイル名が表示された。
【SUBJECT S-TYPE/MEMORY ERASE TEST】
Sは震えていた。
それでも、目を逸らさなかった。




