怖いなら、見なくてもいい
――怖ぇ。
その言葉を、僕は昨日から何度も思い出していた。
Sは痛くても怒る。負けそうでも怒る。死にそうでも、たぶん最初に出てくるのは「ぶっ殺す」だ。
そんなSが、写真を見ただけで言った。
――なんか、怖ぇ。
「真白君」
「はい」
「聞いてる?」
「……ごめん」
朝倉が僕の机の前で頬を膨らませていた。
「三回呼んだ」
――四回だ。
(増やさないで)
朝倉がスマホを僕へ向ける。政府が能力者の存在を公表してから、S型とM型という言葉は急速に一般社会へ広まっていた。
画面には、朝から見たくない見出しが並んでいる。
【危険性が高いS型】
【被害を受けるほど危険になるM型】
【あなたはS? M? 性格診断】
「これ、本当なの?」
「最後のは絶対違うと思う」
「そこじゃなくて」
朝倉が画面をスクロールする。
「S型だから攻撃的とか、M型だから我慢強いとか」
教室の後ろでも同じような話が聞こえる。
「俺、絶対Sだわ」
「お前Mじゃね?」
「殴られたら強くなるとかドM最強じゃん」
笑い声。
――殺す。
(早いよ)
――最後の奴だけ一発。
(S型への偏見を自分で補強しないで)
僕は小さく息を吐いた。
「そんな単純じゃないよ」
朝倉が僕を見る。
「詳しいね?」
「ニュースで……」
「ふーん」
全然信じていない顔だった。でも朝倉は、それ以上聞かなかった。
「まあ、SでもMでもさ」
スマホをしまいながら言う。
「嫌な人は嫌な人だし、いい人はいい人じゃない?」
「……うん」
――当たり前だろ。
昨日までなら、その当たり前を知っている人はほとんどいなかった。
「真白」
横から小さな声がした。
倉田だった。
第一巻の頃、僕をいじめていた一人。今は人工覚醒でM型になり、管理局の監視下にいる。
倉田は僕ではなく、教室の後ろを見ていた。
さっき「ドM最強」と笑っていた男子たちだ。
「……ああいうの、やっぱムカつくな」
「うん」
「俺が言うのも変だけど」
少しだけ間。
「殴られる側が、痛くねぇみたいに言われんの」
僕はすぐには返事をしなかった。
昔の倉田なら、たぶんそんなことは言わなかった。
でも、過去が消えたわけでもない。
「変じゃないよ」
それだけ言った。
許したわけじゃない。
でも、今の言葉まで否定する必要もない。
朝倉が僕と倉田を見比べて、何も聞かずに小さく笑った。
能力者の存在が公表されたからといって、世界が急に分かりやすくなったわけじゃない。
むしろ逆だ。
Sだから危険。Mだから弱い。能力者だから普通じゃない。
今まで秘密だったものに名前が付いた瞬間、人はそこへ簡単な意味を貼り始める。
僕たちは、その真ん中にいた。
◇
放課後、管理局東京第三支部。
白峰主任の机には、例の古い写真が置かれていた。
白衣の男。顔の一部が焼け、表情は分からない。
SM計画初代責任者。
MASTER。
部屋へ入っただけで、胸の奥がきゅっと縮む。
僕じゃない。
Sだ。
(見なくてもいいよ)
――ガキ扱いすんな。
(してない。僕も怖い時は君に代わってもらってたから)
返事はなかった。
白峰主任が写真を指先で回す。
「Sの反応は?」
「怖いそうです」
「具体的には?」
「分からないって」
「記憶は?」
「ない」
「なら人格交代して脳波を――」
「やりません」
自分でも驚くくらい、すぐに言えた。
主任が止まる。
「真白君」
「Sが嫌だって言ってます」
「君の身体でもある」
「Sの身体でもあります」
部屋が静かになった。
三枝先輩が壁際からこちらを見る。何も言わない。でも、止めもしなかった。
昔の僕なら、自分が我慢すればいいと思ったかもしれない。
でも、これは僕だけの話じゃない。
(これでいい?)
少し間があって。
――……おう。
白峰主任は写真を伏せた。
「分かった。今日は強制しない」
三枝先輩がじっと主任を見る。
「今日は、じゃなくて」
「……本人たちの同意なしにはやらない」
「最初からそう言って」
――勝ったな。
(何が?)
――あの研究馬鹿に。
白峰主任が聞こえるはずもないのに、なぜか嫌そうな顔をした。
「私は研究者として知りたいだけだよ」
「それが一番怖いって言われてるんです」
僕が言うと、主任は少し黙った。
第二巻で、能力者が社会へ公表された。
管理局も今までと同じではいられない。
本人の同意。登録制度。研究倫理。
ニュースでは毎日のように議論されている。
でも制度が変わるより先に、僕たち自身が「嫌だ」と言えるかどうかの方が大事なのだと思った。
――今日は、って付けんな。
「ただ、一つ共有がある」
主任が端末へ古い記録を表示する。
「MASTERは十八年前、SM計画終了時に死亡確認されている。ただし、死亡記録を作成した研究員の多くがその後数年以内に死亡または消息不明になった」
三枝先輩の眉がわずかに動く。
「遺体の確認者は?」
「現在、生存している者はいない」
「じゃあ、生きてる可能性がある?」
僕が聞くと、主任はいつもの逃げ道を残した言い方で答えた。
「可能性だけなら、ある」
胸の奥で、またSが震えた。
その時だった。
白峰主任の端末が短い警告音を鳴らした。
【外部通信受信】
送信元は不明。
宛先は、管理局ではない。
【SM-01】
僕たちだ。
表示された文章は、一行だけだった。
【Sは、まだ私を怖がるか。】
僕の中で、Sが完全に黙った。




