22・所詮は過去
キアラは、朝の靄の中を歩いていた。どうしてだか、今日に限って靄が多い。
「…」
けれど、近寄れば昨夜、使用人が教えてくれた通りに花が沢山植わっていた。きっと晴れたらもっと綺麗なのだろう。靄がかった朝であるのに、花弁の一枚一枚が艶めいている。朝露を健気に身に溜めた姿は確かに一見の価値があった。
「これを、わたくしが寝ている間に」
急ごしらえだったのだろう、土にまだ柔らかい場所がある。昨日の昼間にでも見せて貰っておけばよかった。そうであれば、言い訳の一つが消せたのに。
そう、キアラは結局言い訳に言い訳を重ねて、レオナルドの家から出て行かなかった。いや、館と称した方が合っている。全体の把握はできていないが、ここは本当に広い。庭園だけでもギルドの建物と同じくらいはある。
出て行こうと思えば、今だって出て行ける。的場に練習用として置かれている弓だって十分実践で使えるものだ。追手が来たとて、それで迎え撃てる。そのまま教会に駆け込んで、監禁されていたと訴えれば一時しのぎにはなる。そして全てが有耶無耶な内にエルドラド王国から出て行けばいい。どうにでもなる、どうにでもできる。それだけの実力が、キアラにはある。
けれどキアラはしなかった。できなかった。今にも泣き出しそうなくらいに不安で、辛くて苦しいのに、逃げ出してしまいたいのに、どうしてもできなかった。
「キアラ様、どちらにいらっしゃいますか?」
「まあ大変、今日は本当に靄が多いわ」
「朝食のご用意ができました、キアラ様?」
「…ここに、ここにいます。今、戻りますね」
キアラは一瞬だけ迷って、そして返事をした。もう今更であった。昨夜出て行けなかったのだ。もう出て行くことはできない。できるのに、できない。不思議なことであるが、しかし事実だった。キアラは出て行かないことを選んだのだ。
「ああ、そちらにいらっしゃいましたの」
「その一画は特に綺麗でしょう。庭師もとても張り切っておりましたのよ」
「レオナルド様もですわ。ああでもない、こうでもないと」
「ですが冷えてしまってはいけません。中で温かい紅茶を召し上がって下さい」
「ええ、ありがとうございます」
決意さえしてしまえば、それまでだった。ドレスを見せてもらった後、どうするかまでは決めていない。それでもキアラはレオナルドが持ってくるドレスを見るまでは、出て行かないと決めた。
朝食を食べ、少しだけ的場に行き、勧められるままに書庫で読書もした。昼食も済ませて、では散策しながらレオナルドの帰りを待とうともう一度庭に出た時、キアラは信じられない声を聞いた。頭痛がするくらい懐かしくて、吐き気をもよおす程には知った声だ。
「――から! ―――は!」
「だ―――――け!」
「―――な! ―――からな!」
一瞬だけ幻聴だと思いたかった希望は打ち砕かれた。騒ぎ声は門の方から聞こえている。弓を取ってこよう、そうしよう。これは正当な防衛である。
「キアラ様、すぐに館へお入りください!」
「変な男が、しかしご安心ください。この館の警備は優秀ですから」
「ええ、弓を取ってすぐに」
ギルドで鍛えた足で一気に的場まで走り弓を取って、今度は門まで走る。使用人たちが慌てているのが可哀想であったが、やらねばならないことであるのだ。
「え、キアラ様!?」
「お、お待ち下さい、キアラ様!」
「警備の者にお任せ下さい、何の問題もございません!」
「ええ、はい。存じ上げております、ですが、この声の主はわたくしが手ずからやらねば」
キアラは止める使用人たちの間をくぐり抜けて、門まで駆け抜けた。まずどこを射よう、腕か足か。心臓と頭と太い血管がある所はいけない、殺してはややこしい。正当防衛はどこまで認められるだろう、ああ、でもその後に奴の返送をやらねばならないのだろうか。いや、それは子爵家にやらせよう。実家との連絡を切っていなくて良かった。報告すればやってくれるだろう、多分。
しかしどうやってここにたどり着いたのか、気持ちが悪い。どうしてその行動力やら何やらを他で活かせなかったのか、“彼女”の件だってそうだ。好きな人ができたとて、上手く隠しつつ結婚した後にでも愛妾として雇うことだって可能だった。別段、我々はどうしても子どもを作らねばならない位置にもいなかったから、白い結婚でも問題は一切なかったのだ。
何が「諦めてくれ」だ、何が「愛に生きる」だ全て妄想ではないか、気持ちが悪い! 今にしたって、何をしに来たかはしらないが、人が人生においての岐路に立たされているというのに、なんて呑気な! ああ、腹立たしい!
キアラは苛立ちを隠さず、矢をつがえながら最後の曲がり角を曲がった。
「…」
「…」
「…何で! 先にやっちゃうんですか!」
つがえた矢は打たれなかった。発散できない衝動が、キアラの中を駆け巡る。
「いや、自分の家に不法侵入されそうになったら、誰だってやるでしょう」
「私の! 分は!?」
「あるかな…?」
「ないでしょ!」
「落ち着いて」
レオナルドは不法侵入者を足で踏みつけながら、うろたえた。おろおろという表現がよく合うような、意味のない手の動きだった。
「もういいです、それどうするんですか」
「憲兵に渡すけど」
「その人、多分国渡りの書類とか持ってないと思うんで密入国も追加で」
最後に聞いた彼の行き先は子爵領のすみの農園だったはずだ。そこで農業をさせながら更正させると、キアラは聞いていた。更正といっても名ばかりで、教育係が付くはずもなくほぼほぼ見捨てられていた。そんな彼が国渡りの書類を手に入れられる筈がない。
「へえ、よく知ってるね」
静かにレオナルドが足に力を込めたが、キアラは気付かないふりをした。どうでもいいことだった。
「知っておきたくはなかったのですけど、耳に入るもので」
「これってどうなってもいいの?」
「どうなってもいいですが、気持ちが悪いので一生 私の目の付かない所で過酷労働とかに従事していて欲しいですね」
「ああ、その方向で良いの。…こう、爪を一枚ずつ剥いでいくとかじゃなくて」
「生産性が下がるじゃないですか。その治療を受けさせるのも嫌ですが、死んでほしい訳でもないんですよ。ですが、そうですね。単純に精神と体を酷使しながら生きていて欲しいなって。せめて十年くらいは」
拷問なんてしたら労働させることができなくなる。それにキアラは彼に様々な不利益を受けたが、正直な所、彼自体に思うことはない。それくらいにはどうでもいい人間だった。けれどそれとは別で、彼に付き合わされた十年程の年月は罰と呼べるものを受けて欲しいとも思う。自分自身の若干の矛盾を感じつつ、けれどもそれが本心なのだとキアラは開き直った。
「たったその程度でいいの」
「それ以上、その人に興味はありません。近寄って来られたら次こそ私が撃ちますが、そうでないなら本当は今でさえどうでもいい存在です」
「ふうん、そんなものかあ…」
「その程度の人ですね。…。…いえ、すごく、私見が入りましたが、エルドラド王国の法律に則って処理して頂ければそれで」
「大丈夫、キアラの意見ができるだけ通るようにしておくよ」
そんな権限が高々、狩猟ギルドのギルドマスターに与えられるだろうか。しかしレオナルドはやると言ったらやりそうである。
「ぐ、う…? …な、何が、起こって…」
「ああ、起きたの。密入国及び不法侵入者くん」
「き、貴様! 離せ、僕が用があるのはお前じゃない!」
「大丈夫? 言葉は通じている? 密入国及び不法侵入者である君を離す筈がないよね、犯罪者って自覚ある?」
「目的の為にはやむを得ないことだったんだ!」
「目的があれば犯罪を犯して良いなんてことは、どこの国の法律にもないよ? 頭がおかしいんだね」
「あだだだだだ…!」
起きてしまった彼をレオナルドが更に踏み込む。起きてしまったのなら仕方がないと、キアラは嫌々口を開いた。
「レオナルド様、いけません。その人、ひょろひょろのお坊ちゃまなのでその程度で骨が折れます」
「二、三本位いいじゃないか」
「いけません、医療という福祉を受けさせたくないのです。医療に従事されている方のお手を煩わせたくありません」
「徹底しているなあ」
キアラとて、別に彼を庇いたくはない。しかし医療もただではない。強制送還の前に怪我をされてしまってはその治療費は誰が払うのだ。彼のぼろぼろな身なりからして路銀が豊かなようには見えない、つまり料金が発生すればそれはエルドラド王国の税金で賄われるのだ。後から子爵家へ請求したとして一時的でもこの国の税金を無駄に使わせたくはない。強制送還にかかる金額もそうではあるが、そこは密入国させてしまった国境警備に問題があったということで不問にして欲しい。
「キ、キアラ様…! 僕は貴女に会いに、だっ痛った!」
「煩いなあ…」
「もう最後でしょうから、一応聞きますね。何の御用です?」
「ぼ、僕が、間違ってい、っだ!」
「レオナルド様」
「…」
レオナルドの眼光が一瞬とんでもなく光ったので、キアラは念を押した。今にも仕留めてしまいそうな勢いであったけれど、仕留められては困る。それに気をよくしたのか、彼は踏まれながら演技がかった声色でキアラに訴えかけた。
「僕は、後悔したんだ。愚かなことをしたと…。あの時、僕は自分の気持ちに嘘が吐けなかった。だけど、決して貴女のことを傷つけるつもりはなかったんだ!」
「あ、それ、長いです? 手短に」
最後であるから一応は聞こうと思ったが、別につまらない演劇ごっこが見たい訳ではない。キアラがきっぱりとそう言うと、彼は目を白黒させた。
彼が知るキアラは多少変な趣味を持ってはいたが、侯爵令嬢として完璧なおしとやかな人だった。彼の話を遮るような真似はせずに、静かにうんうんと聞いているような人だった。話を聞くのが面倒でただ聞き流していただけであったが、それを彼は知らない。
「…え、っと、ご、ご家族の方が心配なさっている! 一緒に帰ろう!」
「わたくしは自分の家族とは自分で交渉をしました。確かに心配をかけている自覚はありますが、貴方にどうこう言われる筋合いはございませんし、貴方は今から一人で牢屋に行きます」
「え? …え? いや、僕と一緒に帰れば、そんな野蛮な道具なんて使わなくても生きていけるんだよ!?」
彼は自分の正義を信じてエルドラド王国までやってきた。自分のせいでショックを受けてこの国にまできてしまったキアラを慰め、彼女の家に送り届けるつもりだった。キアラは確かに弓が好きだったらしいが、それは所詮趣味の範囲だ。
きっと本来のそれが野蛮な道具であることを知って、悲しみに暮れながら過ごしているに違いない。そして出てきてしまった手前、実家の侯爵家にも帰れないでいるのだろう。そうであるのならば、自分は責任をとってキアラを家に連れ帰ってやらねばならない! そういう使命感の下、彼はこのエルドラド王国にやってきたのだ。その筈だったのだ。
だのに、キアラは何を言っているのだろう。彼は理解ができなかった。今まで一度も理解しようとしたことなどなかった。
「野蛮な道具で申し訳ございませんでした。わたくしの商売道具ですわ。それからずっと申し上げていたでしょう? 言葉には気を付けなさいと。この国には貴方が言う野蛮な道具を作っている方も多くいらっしゃいます。それから貴方が昔食べていた肉料理に使われていた肉たちは、その野蛮な道具が無ければ手に入らないものです。…学校の勉強はそこそこできたのに、本当に頭の悪いこと。まあ、もう二度と会うこともないでしょうが、貴方は貴方なりに生きていって下さい。貴族というか…人の上に立つのは向いていませんよ。頭が悪いって自覚を持つべきですね」
キアラはそこまで言い切って、胸のつかえが消えていくのを感じた。そうだ、これは本当なら三年前に言ってやるべきだった。もうどうでもいいと思っていたから「お好きにどうぞ」なんて言ってしまったけれど恨みつらみは確かにあったのだ。アリーチェと話した時、キアラはそれに気付いた。
「あ、後、わたくし貴方の言動で傷ついてなんていません。すごく面倒をかけられましたし、それなりに嫌な思いはしましたが。その程度の人間ですよ、貴方って。それにわたくし今好きな人がいるので、幸せですわ。貴方程度のつまらない人に捕まらなくって本当に良かった」
キアラは満面の笑みでもって、そう言い切った。彼の知る少し変わった趣味を持つが、静かで物分かりは良い優しいご令嬢はどこにもいなかった。今のキアラは生気と自信に満ちている。彼はやっと本来の意味で自身が間違っていたことに気付いたが、それが遅すぎたことにも気付くことができた。
「キアラ、もういいかい?」
「ええ、結構ですわ」
「連れて行ってくれ」
呆然とする彼を館の警備員が連れて行った。きっと本当にこれで二度と会うことはないだろう。彼がまた拘留先から脱走する可能性もあるが、キアラは何故かそれを確信した。
「レオナルド様」
「うん」
「どこまでご存知で?」
「今聞く?」
「…止めておきます」
レオナルドはきっともう、キアラの出自や背景を知っているのだろう。ここまでくれば法律がどうのと言うのは、それこそ野暮なのだ。キアラは息を吐いたが、それに悲壮感はなかった。
「そうだね、その方が良い」
「お花とお手紙、ありがとうございました。とても嬉しかったです」
「…」
「どうかされました?」
「いや、その、怒らないでね。本当にあんなのが嬉しいんだなって…。いや、キアラが良いならそれで良いんだけど。私としてはその、君にはもう少しお金をかけたいというか」
目をぱちくりとさせながら、あんまりにもしどろもどろにそう言うものだから、キアラは笑いだしてしまった。屈強なギルドメンバーを的確に使役する頭の良いギルドマスターなのに、どうしてこんな簡単なことが分からないのだろう。
「贈り物って、金額じゃないんですよ。貴方が、私の為にあんなにしてくれたのが、嬉しかったんです。…お手間でしたでしょう?」
「キアラの為なら、あのぐらいは全く」
「…どうして?」
「ん?」
「どうして、そんな。私は貴方には応えないって、こんなに自分勝手なのに」
「ううん…。惚れた弱みかな?」
「…ふふ、何です、それ」
「キアラだって、私が頼んだことをあんまり断らないだろう?」
「それは、まあ」
「好きな人には笑っていて欲しい、幸福であって欲しい、それが自分の手柄ならば言うことないね。キアラに喜んで欲しいんだよ。君だって覚えがあるだろう」
「そうですね」
とても穏やかな気持ちで、キアラは頷いた。
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