天花乱墜 7
ご覧いただきありがとうございます。今回新規の投稿は、乱墜7~10までの計4話です。
声に導かれて守が食堂を覗き込むと、そこには円卓に両手を伸ばして突っ伏している元生の姿があった。
「は?」
(五十にもなろうとしてる、おっさんが、何してんだよ)
ところが、呆れたような顔をしながらも育はちょっとだけ微笑んでいた。それはまるで、いたずらっ子を見守る母親のような表情だった。悩みなど感じさせない、幸せそうな微笑み。守はそんな顔をする育を見たことがない。
「目玉焼きでもいい?」
「食えれば、何でもいい。早く頼むぞ」
育がキッチンに消えた後、だれてる父の右隣にある椅子を引いて守はそこに腰を下ろした。
「あのさ、さっき昼メシ、食ったばっかだろ。それに、あと一時間もすればお茶の時間だし。んで――何で親父が玄明のことアゴで使ってんだよ」
「はぁ? 俺はおまえのために朝飯も食わず、大切な会議もすっぽかして、こんなとこまで来てやったんだぞ」
元生は恩着せがましく答えたが、それはまったくと言っていいほど質問の答えになっていなかった。守は呆れ顔で「今は盆休みだろ」と指摘したが、守の抗議などどこ吹く風で気に留めるつもりはないようだ。
「大体、アイツは百科事典のように便利な奴だが、アイツの話は勿体ぶってる分、妙に長いんだ。だから聞いてるだけでも腹が減る。それに可愛い息子の、可愛い嫁に飯を作って貰って何が悪い」
「親父は、反対してたんじゃないのかよ?」
「別に。おまえがいいなら、俺はいいんだ。育は料理が上手いから、老後の面倒はおまえたちに見て貰うことに決めたからな」
ひとしきり親子で無意味な小競り合いをしていると、食事が載ったトレーを手に育が戻ってきた。その上には中国ハムを添えた両面焼き(ターンオーバー)の目玉焼きに、夏の定番のトマトとキュウリの卵とじスープ、そして大量の花巻とスイカが乗せてあった。
「お~っ、多謝、多謝。守、おまえも食え。美味いぞ」
添えてあった箸一膳と取り皿を守に差し出し、元生はさっそく自分の器に料理を装い始めた。育がキッチンへ戻るのを横目に見届け、守は「あのさ」と口を開く。
「どうしても、聞いておきたいことがあんだけど」
「何だ?」
口をモゴモゴさせながらおっくうそうに元生が応じた。家にいる時と同じようなリラックスしたその姿に一瞬通常モードに戻りそうになったが、それを強い気持ちで押し留め自分の父をじっと見る。今、ここではっきりさせておかないと、この先二度と聞く機会はないかもしれない。
意を決し、守は「なあ」と話し出す。
「維名の父親って、親父なのか?」
「あ?」
忙しなく口に運んでいた箸を止め、元生が守に目を向けた。キッチンからは育が洗い物をしているのか、水の流れる音が聞こえてくる。
「馬鹿か、おまえは。蒼の話の何処を聞いてた」
軽く言い、元生は再び箸を動かし始めた。
「だってさ、龍煙さんじゃないんだろ」
「だからって、俺のわけないだろ」
「じゃあ、誰なんだよ?」
再び箸を止めた元生は右の眉を上げ、しばらく横目で自分の息子を見ていたが、やがてため息を一つ零すと「それを聞いてどうする気だ?」と問い返してきた。
「『どうする』って……」
「おまえは『誰なのか』を知りたいんじゃなくて、『俺かどうか』を知りたいだけなんだろ。だったら本人が『違う』って言ってんだから、もういいじゃないか」
その態度に何かをごまかそうとしているのを感じ取り、「じゃあ、言うけどさ」と守はその口調に険を込める。
「親父が『違う』って言ってるだけで、もしかしたら、ウソついてるかもしんないじゃんか。第一あん時、詰まってたぞ」
指摘した途端、元生が嫌そうに顔をしかめた。
「あれには、理由がある」
「どんな理由だよ」
元生がチラリとキッチンへ視線を走らせる。すでに水音は止んでいて、辺りには誰の気配も感じられない。いつの間にか片付けを終えた育は、自分の部屋に戻ったらしい。
「さっき話せなかったことなんだが――」
元生は周囲を見回してから箸を置き、「もっと寄れ」と守のTシャツの後ろ襟を取って引き寄せて、
「これから話すことは、死んでも育だけには言うな」
と、強い態度で念を押す。
「解ったよ。だから親父こそ、さっさと話せよ」
元生は自分の息子に陰険な視線を走らせる。だが、怯まないのを見て取ると唐突に真顔に戻って話し始めた。
「櫻子が育児ノイローゼだったことは、朝にも話したろ。育の手前言えなかったんだが、病状は最悪だった。あの日は特に錯乱していて酷いもんだった」
元生は、さらに自ら守に近づいて声を潜めた。
「俺が行った時、櫻子が枕を持って育に押しつけていた」
「え?」
「俺は急いで奪い取ったが、育は呼吸をしていなかった」
「え……」
絶句し目を瞠る守に、元生は真剣な顔で黙ったまま頷いた。
「人工呼吸をして何とか蘇生させてから、俺は近くの町医者に駆け込んだ。そこで応急処置をして貰い、念のために蒼の勤めている大学の附属病院に搬送することになった。救急車を待つ間に俺は蒼に電話した。櫻子のことは気になったが、まあ、蒼に任せるしかない。で、蒼が家へ戻ったのは、俺があの家を出てから一時間ほど経った後だった」
「だ、だいじょぶだったのか?」
「ああ。育は大したことはなかった。櫻子も何処にも行かずに、驚くほど安らかな顔で眠っていたらしい。目覚めてからも普通でな。で、自分のしたことについては全然憶えていなかった」
「お、憶えてなかった……」
「だが、育のことはしきりに気にしていたみたいだ」
元生はここで箸を取り、ハムを一切れ口に中に放り込んだ。
(『してはならないこと』って、このことだったんだ……)
守は凶行を行う櫻子の姿を思い浮かべることはできなかったが、育のことを心配している姿なら思い起こすことはできた。
(なら、親父が護りたかったのは――)
玄明育。
(そういうことだったんだ――)
守は目の前にいる自分の父を見た。こんな話をしてる時でさえ、元生の箸を持つ手は動き続けている。
(にしても、よく食うな)
守がその無神経さに呆れていると、その端整な横顔が、齧って残った一かけの、最後の花巻を口に放り込みながら「何だ?」と訊く。
「使ったエネルギーを補給して、何が悪い」
「……別に。それよか、その後どうなったんだよ」
守に先を促され、口の中の物を呑み込んだ元生は渋渋ながらも口を開く。
「蒼はそんな櫻子を見て、『まるで憑き物が落ちたようだ』と言っていた」
「はっ『憑き物』? つか……ま、まさか……」
「狐とか言うなよな。――って、憑くもんは狐しか思い浮かばんのか?」
呆れた元生は箸を置き、スープの器を手に取ってレンゲでスープごとキュウリを掬って口に運んだ。少し味わい「やっぱり、育のは美味いな」としみじみ言う。
いつ育の手料理を食べたのだろう。守は疑問に思ったが、それを問う間もなく、「おまえも食え。夏はこれに限るぞ」と元生は新しい器にスープを装ってレンゲを滑り込ませて差し出した。
「これは火加減が難しいんだ。煮過ぎたら到底食えたもんじゃない。守、おまえ、何でだか判るか?」
塩味のスープを一口口に含みながら、守が「さあ」と首を傾げる。
「トマトやキュウリの夏野菜には『火』を下げる効果がある。『温』と『冷』では『冷』に属す。つまり『陰』だな。夏は陽気が盛んで暑いからこそ、こういう物を食って陰陽のバランスを整えるんだ。なのに『冷』に属するものに火を加えたら、どうなる? せっかくの効果が半減するだろ」
「だったら、生で食えばいいじゃんか」
「は? おまえは、蒼や含明から何を教わったんだ」
呆れた元生が嫌そうに守を詰る。
「冷たい物を直接食えば胃や腸が冷えるだろ。ただでさえ胃腸が弱るこの時期に、わざわざそういうことをするから夏バテすんだろうが」
「ふ~ん」
守はつまらなそうに答えたが、元生は相変わらずそんな態度を気にも止めない。
「まっ、そういったわけでこれは火加減が難しい。火に掛けて熱を加えながらも、『涼』の部分を残さなければならないからな。因みに同じ理由で、龍井は蓋をして蒸らしたりはしないんだ」
「あ~あ、それなら含明さんから――」
「含明?」
ついさっき自ら名前を出しておきながら、元生は端整なその顔を思い切りしかめた。眉間に刻まれた皺は深く、拒否感が半端ではない。
何故こんなに交戦的なのだろう。たとえ好き嫌いがあったとしても、いつもの父ならここまであからさまに態度に出したりしないのだが――
不思議に思って訊こうとしたが、それを「で、だ」と言う声が遮った。今は含明のことよりも、スープの例えが何を話したいらしい。
「櫻子の場合、これが形を留めないくらい煮詰まったような状態だった」
強引に話を引き戻した元生は、唐突にスープをレンゲで撹拌した。
「俺たちは言わばその道のプロだ。だからこそはっきり言うが、櫻子に何かが憑いてたってことは、絶対ない。あれは『偏差』だ。陰陽と五気のバランスを崩して、自分で自分の首を絞めてただけだ。つまり、あれだな。牛の角に潜り込んじまったような感じだな」
「『牛の角』?」
「ん? 何だ、おまえ、そんなことも知らんのか」
大仰に呆れて見せる元生に、守が「誰が悪いんだよ?」と噛み付き返す。
「誰かさんが何にも教えてくれなかったから、俺がどれだけ苦労してるのか知ってんのか?」
ところが「知らん」とまず無責任な声が返ってきた。その後に「だがな」と反論が続く。
「『何にも教えてない』ってことはないだろ。第一、おまえの基礎を作ったのは、この俺だぞ」
「はぁ?」
「小さい頃、マッサージとか、してやってたろ」
「マッサージ?」
「そうだ。上手く気を導引しながら整えていくんだ」
「は?」
乳児や幼児などの幼い子は、自ら練功は行えない。場合によっては行ってはいけないものもあった。そんな時は大人がマッサージをして、気血の循環を促したり、気の充足を計ったりするという。
「そりゃあもう、気持ちよさそうに直ぐに寝てたぞ。夜泣きがないから楽だって、宮子にもすっごく感謝されたんだ。そんなわけでだからこそ、おまえは今でも俺のことが大好きなんだろうが」
「はぁあ?」
元生は嬉しそうにニタリと笑い、守の抗議をものともせず、まるで何もなかったかのように「で」と言って話を戻す。
「牛の角ってのはな、中が空洞で、先がこう窄まってるだろ」
元生は、右手の五指で何かを摘まむように、空中に牛の角の形を描く。
「で、この先の細い所へ向かって進んでいくと、窄まっているから最後には出られなくなる。これは偏差を言い表す言葉としてよく使われている喩えだ」
守を見て「解るか?」と元生は真剣な顔で訊く。
「後天の『識神』に囚われれば囚われるほど、人は狭い了見に陥りやすい。つまり狭い了見がこの角の先だな。後ろを振り返れば抜け出すこともできるんだが、前にだけ進もうとするから出られなくなる。それに進めば進むほど後戻りするのは至難の業だ。せっかく苦労してここまで来た、という思いがあるし、初めからその方向に進みたくて進んでいる場合は、戻ろうとさえ思わん」
確かに、自分の努力が無駄だったと認めるのは空しいかもしれない。
「つか、それって、さっきの山の話と一緒だよな」
「違うだろ。これは視野がどんどん狭くなって、小さいことに固執して行き詰まる話だ。山は、どんどん視野が広くなって進む先が判らなくなる話だ」
「でも、どっちも動けなくなるんだよな」
「確かに。だが、シチュエーションは真逆だぞ」
そして、専門家には怒られるかもしれない、と前置きして続ける。
「強いて言うなら、『牛の角』がパラノイア的で、『山』がウツ状態って感じじゃないのか」
前者は執着が過多で、後者は情報が過多だという。
「情報?」
「もっと詳しく言うなら、多様な価値観だな。自分の中に確固たる『もの』がないのに、いろんな価値観をぶち込み過ぎたら、どれに従ったらいいのか判らなくならないか? それに――」
真面目で素直な者ほど情報を鵜呑みにし、できる限りそれらに従おうと疲れ果て二進も三進もいかなくなるのではないか、と元生は言う。
「それが、ウツなんだ」
「ウツ状態だ。病気のほうは詳しくは知らん。それに、これはあくまでも俺個人の意見と感想だ。正しいかどうかは判らんぞ」
それでも父の考えに従うなら、牛の角は『一つの価値観』に、山は『より多くの価値観』に執着してるということになるのだろう。
「で、玄明のお母さんは、牛の角に潜り込んでどうなったんだよ?」
「ああ、それが、な」
櫻子の場合は戻ってきたという。抜け出すことこそできなかったが、かなり入り口近くまで。
「俺はそれが凄く不思議だった。あんな酷い状態から、一気にそこまで回復できるものなのか、ってな」
蒼は念のために、櫻子を入院させて様子を見た。櫻子は一週間程で退院し、退院した後も容態は安定していたという。
「だがな、暫くしてもっと不思議なことが起こった」
「『不思議なこと』?」
「ああ。櫻子はな――」
「うん」
「武志を、身籠もっていたんだ」




