天花乱墜 3
ご注意ください。
*個人研究、独自解釈、妄想補完などが含まれています。
*世間一般で事実や通説といわれているものと違う場合があります。
*特に膽神のくだりは、完全に作者の創作です。本作だけの独自設定で、こういった事実はいっさいありません。
「とにかく――」
元生に促され、閑話休題とばかりに蒼は話し出した。
「古来より、中国では日常茶飯事的に文字の置き換えが行われてきた。それは故意的なものから、間違えまで様様だ。大抵はものはただの間違いで、特に多いのは、秦の始皇帝が焚書を行った後だという」
抗儒とセットで語られることが多い焚書だが、実際に焼かれた書物は儒家だけでなく、諸子百家の物もあったという。壁に埋め隠しおおせた事例もあるが、多くは記憶を頼りに後世に復元されていた。
「復元は口述筆記で行われ、その際に、筆記者の技量で置き換わることがあった。具体的には、単純な勘違いや筆記者が字を知らずに、咄嗟に同音の別字に置き換えてしまったりだ。また、口述者が憶え間違えていたこともあっただろう。さらに、秦代には書体の統一も行われたが――」
新しく作られた小篆体に統一されたのは公文書だけということ。篆書を簡略化した隷書体は、秦代作とされているが、それ以前から存在していたとの説もあり、考える必要はないかもしれない、と蒼は言った。
「そして故意の場合でも、一番簡単な隠蔽方法は、やはり同音の別字に置き換えることだ」
中国は漢族以外の民族に支配されていた時代もあり、重要事項の隠蔽は、時代を経るに従って、創意工夫、さらに趣向を凝らすことになっていったという。
「我等のように練功を志す者が、文字の置き換えで最も頻繁に遭遇するのは、その本質を隠すためのものだ。喩えば凝った物になると、これはある武術の、技の奥義を記した拳譜なのだが、普通の中国語で読んだ時はただの詞だが、それを特定の地域の、方言の音にし、さらにその音をその方言で発音する別の漢字に置き換えないと判らない、という、手の込んだものまであるらしい」
『その本質を隠す』
武術の奥義なら、簡単に人に知られてはならないのは当然だった。
だとしても――
たとえそこまでしたとしても、解読方法が判れば、あまり意味がないような気もする。それとも、そこには何かそれ以外の、別の工夫がされているのだろうか。
(一見して詩なら、隠喩が多くて行間読むタイプとか、か?)
だが、それ以外なら――
考えてみたが守には想像が遠く及ばない。その様子を見ていた父が、不機嫌そうな声で横から口を挟んできた。
「漢字の元の甲骨文は象形文字だ。つまり、絵だろ。その絵は、一つ一つが物語になっている。それが順番に並んでるんだ」
「ん?」
そのあまりにも大まかな説明に、さらに守は首を傾げる。
「何か思いつかないか? 同じ大きさの絵が、順次流れていくんだぞ」
「は?」
すると「前にも話したが――」と蒼。
「漢字には、日本人が思っている以上に多くの情報が含まれている。実は、漢字で書かれた文章は、今でいう映画や8ミリフィルムと同じような『記録媒体』だったのではないか、という説がある」
「『記録媒体』?」
その説によると、昔の中国人は絵に準ずる文字を目から入力することで、それを経験で脳内に蓄積された様様な情報で補完し、写実性の高い映像に変換し、脳内のスクリーンに映し出す能力があったのではないか、と仮定していた。
「入力する文字が増えて文章になれば、次次連続して映像を映し出す状態になり、一本の動画として再生することも可能だったのではないか、と推察している」
「そ、そんなことが――」
できたのか、と問うように守は父に目を向けた。
確かに、漢字はただの表意文字ではなく、一つ一つが物語になっている表語文字と言われている。順番に並んでいる文字を読んでいく課程は、同じ大きさの絵が、次から次に順次流れて進んでいくフイルム映像の投映方法によく似ている。
そして、もし連続する絵のところどころが、違う絵に差し替えられていたら――
(ノイズになって、上手く再生されない、ってことだよな……)
「マジで?」
「らしいぞ」
父との短い会話が終わった後、守は自分の左側から、皓華の強い眼神を感じた。
「ん? ……あ!」
長春から吉林に来る途中。あの黄金色の光が溢れるトウモロコシ畑で、皓華は、優れた書画は作者の心境と同期することで、その『境地』に至ることができる、と言っていた。
(え? それって――)
もしかしたら、ただ映画を見るだけでなく、もっとリアルな体験ができたということなのかもしれない。
「つか、それ、『仮想現実』ってことじゃんか」
守がぽつりと呟くと、「だ、な」と父の声が返ってきた。
「去年公開されたあの映画は、満更作り話じゃなかったってことだ。だがな、守。そんなこと、努努簡単にできると思うなよ」
何故か最後に凄まれて父の話は終了した。
それを受け、蒼がその薄い唇を開く。
「そこまでリアルなものでないにしても、喩えば技の名を見ただけでも、中国人であれば目の前に情景が浮かぶという。達人ならば、どんな時に使うどんな技なのか、ということすら理解できる」
ここまでの説明を聞いていれば、さすがに疑うことはできなかった。
「技というものは、相手の予想を覆すことができればできるほど、その効果は高くなる。予測できるということは、それだけ、防げる可能性が出てくるということに他ならない。だから、どうしても知られたくないものは、一般向けのありきたりな別の名前をつけるか、同音異字に置き換え、その本質を隠す作業を行う」
ちなみに門派によっては、套路も、実際の練習用の他に、表演用ものを用意しているところもあるという。
「文字の置き換えでよく見るのは、『鴛鴦』だ。これは『陰陽』代字として使われることが多い。そして――」
もう一度、蒼はその場を見渡して、全員がちゃんと聴いていることを確認した。
「我等の場合は、『膽』がそれだ」
つまらなそうな元生の顔が、一瞬で驚きのものに変わった。
「お、おい、まさか……」
振り向き身を乗り出して迫る元生に、「おまえの考えている通りだ」と蒼は少し引き気味に答えると、まだその言葉の中に潜む、本当の意味を見つけられない他の者のほうへ向き直った。
「『膽』という字は、『丹』に通じる。四声は違うが発音は同じだ」
そうはっきり言われても、守は意味が解らなかった。「どーゆうこと?」と朱い『神』が宿る眼で蒼をじっと見つめている、父のYシャツの袖を引く。面倒そうに振り返った父は「他んとこはどうか知らんが――」と前置きした。
「俺たちの場合、膽神そのものが地球の『丹』になる。だな?」
確認する元生に、蒼は「そうだ」と頷いた。
「敢えて腎神が『玄武』ではなく『玄鹿』とされ、膽神の姿が亀と蛇の混合形なのには、そういったわけがある」
「だから、膽神は掌門人には、なれないんですね……」
思わず言葉を漏らした夏芽に、「同じ理由で、その存在も隠されていた」と蒼は追加の説明を加えた。
「これは、掌門人と膽神を継ぐ者にしか伝わらない話だ。謂わば秘中の秘。膽神の息子だった僕でさえ、君たちがここに来るまでは知らされていなかった。無論、柳青師姐もこのことについてはご存じなかったはず。そして含明も、また――」
武志が台風と共にこの地に戻って来た時、黄師父は自分の命運を悟ったようだ、と蒼は言った。だからこそ『帯行』を行うため、五臓神をここに呼び寄せることにしたのだという。
(だから、あんなに喜んでくれたんだ……)
遠く離れ、死に目にも会えなかった妹の曾孫に、最期に会えたから――
さらに常在は、蒼にすべてを託すため、鉢の水を一滴もこぼさずに移し換えるように、慎重に慎重を重ね、掌門人としての知識を移譲したという。
「それなら何故、さっきそれを含明さんに教えてあげなかったんですか?」
守の素朴な疑問に、「馬鹿か、おまえは」と元生が冷たい目を向けた。
「含明は、もう『五臓神』じゃないだろうが」
「そんなら、親父だってそうだろ」
元生が周りを見回した。
蒼に、守に、夏芽に、皓華に、育に、辰矢。武志は別としても、確かに『前』がつくのは元生だけだった。
すると――
「地球の状態では、『丹』を育てることができず、膽神はただ疲弊していくだけ、ということですか?」
真剣な表情で辰矢が確認する。
「そうだな――」
しばらく間を置いてから、蒼は躊躇いがちに口を開いた。
「膽神というのは重要な役割だ。その時代の状況に因って、それ相当の覚悟も必要になってくる。母の前の代の膽神――僕の伯父は、戦争の爪痕が残る日本を復興させるために、力を遣い果たし亡くなった。膽神を継いだ母は、既に嫁いで娘がいたが、その子を残して婚家を去り、維名の家に戻った」
「ドウシテ?」
皓華から発せられた言葉の中に、寂しさが感じられる。幼い頃に母と別れなくてはならなかった女の子に、自分の姿を重ね合わせているのだろうか。
蒼は、そんな皓華を気遣うように声のトーンを和らげた。
「それは、膽神としての役割を全うするために必要だった。本来『陽』であるべき膽神を、『陰』である女の母が担わなければならなくなったのだ。それは並大抵のことではない。さらに母には、維名の家を再興するという役目も与えられていた」
そういえば含明は、維名の男たちで出征したほとんどが、度重なる戦争で、死没していると話していた。
「だが、維名の家など潰してしまってもよかったのだと僕は思う。膽神は、肝神や他の家から出ても構わなかった。だのに、母は敢えて維名の家を残すために、再婚し、跡取りをと考えた。喩え、それが膽神の勤めに背くことになったとしてもだ。酷く矛盾した行為のようにも思えるが、婚家を去ったのと同じ理由からだった」
「何故?」
と、育が訊く。
「女としての業だ」
「『業』……」
「おまえの祖母は、女の自分が膽神の任を担うにあたり、特別な修法を行わなければならないと考えていた。女であることは宿命だ。だから変えようもない。だが、その性質を変化させることは、できなくはない。『陰』である女の体をより『陽』に近いものへ。それは『坤道』とか『女丹功』と呼ばれる類いのものだ」
「あの……」
守が遠慮がちに声をかけると、蒼は守を見て頷いた。
「実は、今まで時間を掛けて説明してきた煉丹法は、男が行うものなのだ。それを『乾道』といって、女性が行う『坤道』とは区別する」
「どう違うんですか?」
「どの丹田を使うのかと煉る順番だな。『陽』に属する男は下丹田を用い、先ず、気を煉ってから形を煉る。だが『陰』に属する女は中丹田を使い、同じ属性である形から煉らなければならない。具体的には太陰煉形を行い、『斬赤龍』へ至る」
「『ざんせきりゅう』?」
初めて聞いた言葉だった。
「『斬赤龍』は『赤龍自斬』ともいい、意念を用いて女性の月経を止めることだ」
「え……」
守は言葉を失った。それだけでなく、急激に恥ずかしい思いも込み上げて聞かなければよかったと後悔する。
「人が老いていく大きな原因は、第二次成長期を迎えて漏れ始める『精』と言われている。この場合の『精』は、男は主に精液、女は主に経血のことを指しており、それぞれに、白虎、赤龍と呼び表されている。では、『精』が漏れないようにするにはどうすればいいか――」
蒼は「男は『降白虎』を、女は『斬赤龍』を行えばいい」と続けた。
「見た目が若返るのはもちろんだが、男女共『精』が漏れる前の体に戻っていく。道家の気功法を紹介した本には、『白虎降則茎縮如童体』『赤龍斬則乳縮如男体』という説明があった」
守が恐る恐る隣の父に目を向ける。
と――
「『男の局部は子供のように縮み』、『女の胸は男のように萎む』だ」
女性陣にも配慮した、ざっくりとした訳が返って来た。
「『坤道』を行い赤龍を斬てば、もう普通の女の幸せは望めない。母は死ぬ間際、どう多く見積もっても十一、二の少女にしか見えなかった」
「え……」
守がハッとして育を見る。正面にいる育も、驚いて守を見ていた。
中学時代の蒼の写真に写っていた少女――
それは他でもない、蒼の母の紫、その人だったのだ。
それは――
属性の異なる女性が膽神を務めるのなら、そこまでの覚悟が必要ということでもあった。
紫は蒼を産んだ後、蒼の父の辰彦と離婚するつもりでいたという。
膽神の務めを全うするためには、夫などは邪魔なだけだった。だが辰彦はそれを望まず、子供には父親が必要だと主張した。蒼の両親は形だけの夫婦となり、辰彦は台湾で角春花と出会い、辰矢が誕生した。
蒼は淡淡と事実だけを話していった。
「母が急な事故で死なず、日中の国交回復がもっと早ければ、それを師姐や含明に伝えることができただろう。彼等が膽神の重要性を解っていれば、もしかしたら、様様な悲劇は起こらなかったのかもしれない。だが今となっては――」
もう遅い、と目を伏せる。
ところが――
「だからって、教えなかったわけじゃないよな」
元生が非難がましく口を挟んだ。
「ごまかそうとしたって、俺は騙されんぞ」
顔を上げ、元生を見た蒼は、「おまえには、敵わんな」と苦笑した。
今回の内容が、『膽神』を『胆神』と表記できなかった理由になっています。
『丹』は[dan]の第一声のみ。
『膽』は[dan]の第三声のみ。
『胆』は[dan]の第三声以外にも、[tan]の第二声、[tan]第三声、[da]第二声 の音がある。




