天花乱墜 1
昨日、黄海を北上していた雨台風は、昨夜のうちに朝鮮半島に上陸し、熱帯低気圧に変わっていた。南の海で大量の水蒸気を蓄えた雲は、勢力が衰えたとはいえ、無数の雨の筋となって長白山に降り注ぎ、窓の外に広がる、鉛色の湖の水位を今現在も上げ続けている。
含明が立ち去った居間は、今日の空のように暗く重く湿っていた。
まだ十時だったが、蒼は辰矢に昼食の支度をするよう言いつけた。武志と皓華は辰矢の手伝いに、夏芽は亡き祖父が祀られた祭壇へと、各各居間を後にした。
蒼は、長椅子に守を寝かせて安静な状態にし、強さを変えながら、取った手首を三回押した。最初は触れるだけ、次は少し力を入れ、さらにもう少し力を入れ、と各脈の強さを診てから、目を覗き込んで守の『神』の状態を確認する。その間中、父の元生は腕を組んだまま傍に立ち、作業を逐一見守っていた。その姿は、決して間違いは起こさせない、と監督している者の、威厳に満ち溢れていた。
蒼の斜め後ろには、元生とは対照的な育の姿があった。銀のトレイを手に所在なげに佇んでいる。守が『神』のある眼でしばらく振りに見る育は、ここに来た時と比べるとずっとやつれているように見える。
蒼は、育からカップを受け取って、起き上がった守に手渡した。
マグカップに八分目ほど注がれたお湯の中には、緑の小さな粒状の、人参の花が無数に浮かんでいた。守がそれを一口口に含むと、仄かな甘みを伴ったさわやかな苦みが口内いっぱいに広がった。薬用人参の花は、薬効成分の強い根の部分やその赤い実よりも、ずっと作用が穏やかで、火が上がりやすい守の体質にも合っているという。
「少し胃脈が弱い気もするが、大丈夫だろう」
「すみません。ご心配をおかけしました」
詫びる守に、「本当だ」と頭の上から元生の声が降ってきた。
「親父には、言ってないだろ」
「馬鹿を言うな、俺に内緒で留学なんか決めるからこんなことになるんだろうが。事後承諾とか、訳、解らん」
いつになく陰険な元生に、「何言ってんだよ」と守も対抗する。
「あん時、親父が勝手に維名を連れてったからだろ!」
「馬鹿言え、あのままだったら、おまえが危なかったんだぞ!」
「えっ?」
予想外な答えに守は言葉を詰まらせた。
元生は、守を見捨てたわけではなかったのか――
すると、憤慨する元生に代わって蒼が話し出した。
「あの時、君はまだ『守霊』ではなかったが、生まれながらに両親から受け継いだ君の『元気』は大きかった。何しろ君は心神だけでなく、脾神の血筋にも当たるわけだ。本来なら、君のお母さんは黄珪沙師姐に代わり、『魂庭』になる力も有していた」
「ウ、ウソでしょう」
守は、蒼の言葉を俄に信じることができなかった。
「だってうちのお袋は、どうひいき目に見たって、ちょっと若作っている、今時の普通のオバ――いてっ!」
守が後頭部を押さえながら上を見る。そこには、右手に中高一本拳、通称鬼拳を握った父の姿があった。
「な、何、すんだよ」
「宮子の悪口は、俺が許さん」
「普通の女性に、君のお父さんの相手は務まらんだろう」
苦笑する蒼に、「それも、そうっすね」と守も素直に頷いた。
「どういう意味だ」
元生が怒りも露わに凄んだが、蒼は外野を無視して守に話し掛けた。
「とにかく、君の力は子供の頃から元生が意念を使って押さえていたのだ。だが、君が大きくなるにつれ、それもなかなか難しくなった。君の力は、いつ発現してもおかしくない状態で、そうなったら最後、それを押さえられるのは『育嬰』である育しかいない」
育の力は守のものとは正反対に位置するものだ。経験上、それは守にもよく判っている。しかしあの時は、守と育はまだ出会ってさえいなかった。
「育がいない状態で、君の力を発現させるのは、とても危険なことだった」
「でも、武志なら……」
遠慮がちな育の掠れ声に、「いや」と蒼。
「確かに、武志の性質はおまえと同じ『水』。『火』を押さえるには一見いいように見える。だが『陰』が極まれば『陽』となる。一陽初生で最初に生まれる『陽』は、少量だが最も純粋且つ強力な『陽』だ。武志の場合はそうなのだ。これでは、火に油を注ぐのと同じことになってしまう」
「おまけに土用に入ってはいたが、まだ夏だったしな」
元生はそう言って、「あのままじゃ、火が走って、おまえは『ボン』だ」と守の目の前で、五本の指を上に向かって弾いて見せた。
「全く、年寄り共はとんでもないことばかり考えやがる。だいたい俺を何だと思ってるんだ。親父も親父だし、それに乗る宮子も宮子だ」
「まあ、そう怒るな。言うことは言ったんだろう」
宥める蒼に、元生は「当然だ」と胸を張った。
「親父には、思い切り文句を言ってやった。『守をダメにするつもりか』ってな。『俺のガキに何するんだ』って。そしたらこともあろうに親父のヤツ、笑いやがったんだ。どう思う? 涼しい顔して『そうは、ならなかったじゃないか』だとさ。馬鹿にしてやがる!」
「最初から、おまえの動きも計算に入れてのことだ。『おまえは行く必要はない、と煽っておいた』と言っていた。あの人らしい」
「ふん。全く何て根性だ。あんな性根が腐ってるヤツ、俺は見たことがないぞ!」
「それを言うなら、『老獪』と言うべきだな」
蒼の、あまりにも冷静で場違いな感想に、元生は鼻に皺を寄せて、不満な視線を走らせた。蒼はそれを軽く受け流し、「それで、槌岡には何と言ったのだ」と訊ね直す。途端に、元生はこれ以上ないというくらい嫌そうな顔で、質問した男を睨みつけた。
「何だ、何も言えなかったのか」
呆れる蒼に、「うるさい!」と元生。
「なるほど。それで、そんなに不機嫌なのか――」
ため息混じりの蒼を睨みつけるその眼には、朱い『神』が宿っていた。
(にしたって――)
いったい父は母にどんな弱みを握られてるのだろう。
父の言葉を信じるのなら、育の母と会っていたのは、蒼に頼まれたからだった。
『水は滞ると氾濫する』
父はそう言っていた。それは『偏差』と呼ばれる、精神面での不調のことを表しているのだろう。鬱ぎがちな櫻子の話を聞いて、宥め、安定させる。そうすることで、父は櫻子が『偏差』の状態にならないように努めていたのだ。
そんな立派な理由があるのなら、あの父なら、それなりに堂堂としていてもいいはずだ。たとえ、要らぬ心配させたとしても――
(あ、オレか……)
確かに、鬼仙が観せた情景の、母の怒りのポイントもそこだった。
子供との約束を守らなかったこと。
いくら蒼に頼まれていたとはいえ、自分の子供より、よその家の事情を優先するのを、母は認めるわけにはいかなかったのだろう。自分のことなら我慢すればいいが、子供まで我慢させるな、と。そしてそれなら父の罪悪感を呼び起こし、反省を促すことも不可能ではない。おそらく、母の中ではそういう計算も働いていた。
(で、反省して、頭が上がらなくなったんだ)
「ふ~ん」
守がニヤついていると、睨まれた。それでも分が悪いと思ったようで、父は少し離れた場所に移動し、引き続きやり場のない怒りを壁にぶつけている。
そんな元生を、育は心配そうに見つめていた。この状況を上手く収集するには、どうすればいいのか考えあぐねているような視線だった。
さすがに、宥めるわけにはいかないだろう。いい加減にしろ、と叱るのはもっとまずい。何しろ相手は自分の父と同じ歳の、いい歳をした大人なのだ。そういった意味では、元生は鬼仙などよりもずっと扱い難い存在なのかもしれない。
「放っておけばいい」
見兼ねた蒼が育に助言した。
「でも……」
「そのうち、飽きる」
きっぱりした蒼の口調に、
(確かに)
守は心の中で感心した。
父の場合、気紛れな部分と天の邪鬼な部分の両方があるから、どんな状況の時にどんな反応をするかの予測がつけづらい。どちらが強く出るのかは、その時の気分次第だ。それに当の本人は、自分の言動によって巻き起こる回りの反応を楽しんでいる節もある。そんな時は蒼が言うように、下手にいじらないことが一番だった。
そして――
(本当に親友だったんだ……)
と、守は妙な感慨を持った。
冷静沈着な蒼と直情的な元生。一見合わなさそうに見える二人だが、その関係は見事なまでの均衡が保たれている。それはきっと、蒼の鷹揚さによるところが大きいのだろう。同じ一族といっても、含明や辰矢は、父とは絶対に合わなさそうだ。
その時――
「近くに居過ぎて判らないだろうが、君のお父さんは大した男だ」
蒼が唐突に守に話し掛けてきた。
「感情的で気紛れに見えるかもしれないが、それはあくまでも、表面的な、思考の癖のようなものだ。その根底にある精神は、驚くほど冷静で振幅がなく、一本筋が通っている」
「そ、そうなんですか?」
「ああ。三十年の研究の成果だから、間違いない」
守は「褒め過ぎですよ」と思わず微笑んだ。
自分の父だったとしても、褒められるのは嬉しいものだ。そして改めて、二人の間にある絶妙な力関係に感心する。
それは陰と陽のように、その時時で互いに立場を変えながらも、保たれているのだろう。
(二人の間には、互いに認め合った者同士だけが持つ、敬愛の情が……)
守がそこまで考えた時――
「そんな気持ち悪いものは、ない!」
元生は振り向きざまに言い捨てて、守の所に戻って来た。守をソファの端に追い遣ってその隣に自分が座る。
そして――
「で、何があった?」
「え?」
「鬼仙に遭って、何を話した」
守のほうへ、グッと体を乗り出した。
「え、えっと、それは――」
守が戸惑うさまを見て、蒼は育に辰矢の手伝いをするよう言いつけ下がらせる。そして元生には、「無理はさせるな」と注意してから自分はいつもの席に座った。
大人二人に挟まれて――
『観えるようになったのだから、観せてやろう』
守は、そう鬼仙に言われて観せられた、情景のことを大まかに話した。
「宮子……」
母の件を聞いて父は額に手をやった。自分のせいで巻き起こった女の争いを、反省しているのだろうか。
蒼はといえば、櫻子の最期の情景に酷く興味を引かれたようだった。
それは自分の妻ということだけでなく――
「誰の視点だったのだろうな」
「はい?」
守が首を傾げると、すぐさま元生が補足する。
「おまえが観た情景は、大概が俺。そして宮子の目を通してだ。だが、あの事件の時、宮子はあそこにいなかった。おまえと優と三人で家にいた」
電話をし確認したから確実だ、と父は言う。
「どんなに頑張っても、奈良から東京まで、普通は一時間じゃ帰り着けない」
「つーことは――」
「あそこには、誰かがもう一人居た、ってことだ」
もう一人の存在――
そんなことは、いっさい考えていなった。
ならば、その人物が櫻子を死に追いやったというのだろうか。
「その誰かは、何も話さなかったのか?」
「何でもいい、思い出せ」
蒼と父に両方から立て続けに訊かれ、守は素早く左右に視線を送った。そして、俯いてよく考えてみる。
その誰かは一人でいるらしく、特に何にも話していなかった。
一言の言葉も漏らしていない。そう告げると、父はあからさまにがっかりとした顔になった。ふと不安になり、守はもう一度真剣に考える。
そういえば――
「でも、腕を上げた」
「腕?」
「そうだよ。腕を上げたら、雷がピカッて――」
大人二人は顔を見合わせた。
そして守も誰かが判った。
雷を扱える者など、守は他に知らなかった。
「柳青がいたってことだよな」
「だが、実体ではないだろう」
「ん? ってことは――『出神』してたって、ことか?」
「おそらく。師姐なら、中国から日本まで飛ばすことぐらいは――」
「然もないこと、か」
守の目の前で、大人二人の会話は続いていく。
「けど、何時からいたんだ?」
「そうだな。雨が降って雷が鳴り出したのは何時だった?」
「俺が育に遇った時には、雷は鳴り始めてたぞ。そして割と直ぐに、ザーっと雨が降り出した」
「育は、心配で給食を食べずに帰って来たと言っていたな」
「そうだ。だから俺が飯を食わせて、片づけてたら、急に苦しみ出して――」
父はそこで言葉を止めて守を見た。それを機に、身を乗り出すようにして話していた二人が姿勢を正す。
「とにかく、あそこには柳青がいたってことだ」
「そして、雷を呼び、僕たちに知らせたのだ」
「でも、それって――」
(助けようとしてた、ってことだよな)
あの鬼仙の態度からは考えられないことだった。
だのに大人二人は、その事実をすんなりと受け入れている。
(って、ことは――)
まだ、守の知らない事実があるということなのだろう。
(それは、何だ?)
守がそれを訊こうとした時、先を制するように「で?」と元生。
「鬼仙が消えた後に、何があった?」




