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そらつかい『虚』  作者: カルヰアオ
第九章 三花聚頂(三つの花が天宮に集まる)
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三花聚頂 13

「育児……ノイローゼ?」

「そうだ。あの頃はかなり酷くってな。でも、あの後わりと直ぐ、憑き物が落ちたように回復した」

「どうして……」

「どうして? 何故回復したのかは、俺も判らん。だが、どうしてそうなったのかなら、話せるぞ」


 元生のその申し出に対し、含明は何も言わなかった。何かをしきりに考えているようで、その『(しん)』は内に秘められている。

 元生はしばらく様子を見ていたが、いい加減待つのも飽きたらしい。

「櫻子が蒼のことが好きだったのは紛れもない事実だ」

 と、返事がないまま話し始めた。


「だが育が生まれ、現実は櫻子の描いていたものとは違うものになってしまった。だからといって、蒼が悪いわけじゃない」

 庇うように、最後にさりげなく付け加える。


「櫻子には、昔から夢見がちで現実感の乏しいところがあった。もともとそんなに欲もなかったし、実際、欲しいものは皆持っていた。誰かが必ず側にいて何かしらやってくれる。だから困ったことも起こらない。浮き世離れしたそれが、人に朧気で儚い印象を与える要因にもなっていた。けれど、あの時だけは違っていた」

 目線を上げた含明は、「どう、違っていたんですか?」と挑戦的に訊いた。


「櫻子は、蒼をとても愛していた。もちろん蒼だってそうだ。だから失うはずはなかった。誰も二人の仲を裂くことはできない。初め櫻子は、その状況に十分に満足していた。やがて愛の結晶ともいえる子供が宿り、結婚も許されて、幸せはピークに達した。だが育が生まれて身二つになって、突然状況が変わったんだ。すべてが育中心の生活になった」

 生まれたばかりの子供に手が掛かるのは、当然のことだった。


「けどな、櫻子はそれが許せなかった。自分と蒼の間に割って入ってくるものは、たとえ自分の分身といえる娘でさえ、許せなかった。櫻子は、それほど蒼のことが好きだったんだ」


 守が、自分の真正面にいる育に視線を向けると、育はいたたまれない風情で俯いていた。隣の武志が、気遣わしげに育の様子を窺っている。だがそれは武志だけでなく、この場にいる皆が皆同じ気持ちのようだった。

 守が自分の父に目を戻す。育を心配そうに見ていた父が、守の視線を感じ、少し慌てたように話し始めた。


「櫻子の様子がおかしいと俺が気づいたのは、何かの用事で、蒼がどうしても出掛けなければならなくなった時だった。おまえが俺を見たという前の年の、五月ぐらい、だな」

「蒼さんがいないのに、ですか?」

「いないから、だ」

「僕が頼んだ」

 蒼が元生の答えに補足する。

「櫻子は、あまり育のことを気に掛けなかった。それはずっと気になっていたが、訊いてもただ泣いて謝るだけだけで、埒が明かなかった。だから僕が頼んだのだ。僕に話せないことでも、元生になら話せるかもしれない。何しろ、兄妹みたいなものだったからな」

 そう言われ、元生も大きく頷いた。


「俺が行った時には、育が弱弱しい声で泣いていた。櫻子はそれをじっと見ているだけで抱き上げもしなかった。俺は育をあやして寝かしつけ、櫻子の話を聞いた。そうすると少し気が晴れるのか、状態がよくなった」

 けれど――

 それも一時的なものだった。


「櫻子は自分で自分を追い詰めていたんだ。子供が親の気を引くように、そうすることで蒼に振り向いて欲しかった。育よりも自分を大切にして欲しかった。だが、そうもいくまい。相手は一つになったばかりの幼気(いたいけ)な子供だ。誰かが面倒を見なければ、一人では生きてはいけない。それに櫻子にも、まだ母親としての理性も愛も残っていた」


 秋から冬に掛けては、まだ微妙にバランスが取れている状態だった。冬至を過ぎて持ち直したが、元生はなるべく行って話を聞くように努めていたという。


「だが心配していた通り、年が明け、立春を迎えてから一気に悪くなった。含明、おまえが来たのはそんな時だ」

「では、櫻子さんの言っていた『してはならないことをしてしまった』というのはどういう意味なのですか? 『許して』とも言っていましたが――」

「なるほどな」

 元生はすぐには答えず、何かを見透かすような朱い光を孕む眼で含明を見つめていた。


 やがて――

「あの頃は最悪の状態だったんだ。わけの解らないことを口走ることもある」

 かなりもったいをつけたわりには、その答えはありきたりだった。そしてやけにあっさりと先に進める。

「だが、それも入院してから落ち着いた。それでも念のため、年末に武志が生まれる時に、育をしばらくうちで預かることにした。それからは何年もの間、それほど酷いことは起こらずに済んだ」


「では、何故自殺など?」

「『偏差(へんさ)』だ」

「『偏差』……ですか?」

「ああ。それについてはおまえのほうが、俺よりよっぽど詳しいはずだ」

「確かに――」

 そう言いつつも訝る含明に、元生はさらに付け加えた。


「初めの時に、気づければよかったんだ。だが、俺たちはあまりにも西洋的な物の考え方に毒されてしまっていた。いや、あの頃は俺たちだけでなく、世の中全体がそうだった。科学を絶対視して、旧弊なものに対しての蔑視があった。それが世の風潮だったとはいえ、俺も、蒼も、自分たちが習い覚え、学んできたものをあまりにも軽視し過ぎていた。だから医者が言うような、西洋医学的な対症療法しかしなかった。というか、当時の西洋医学は局所的な対症療法しか行わなかった」


 七十年代末から八十年代初期には、ジャパネスクという日本ブームが起こって、世界的にも東洋的なものに注目が集まっていた。海外で高く評価されたことから、日本でも、古くさいとタンスの隅に追いやられていた日本独自の文化が見直され、回帰の機運も高まっていた。だが、それはまだ一過性のブームにすぎず、定着するまでには至っていない。

 医療関係では、健康法としての太極拳が一般的になりつつあったという。


「とにかく、症状があればそれを抑える薬を飲ます。悪い場所があれば切り取って捨てる。あの頃の医療はそんな感じだ。東洋医学的な体質改善からの根本治療は、行われていなかった。今思えば、老人たちの意見にも耳を貸せばよかったと思う」

 その発言は珍しく弱気なものだった。だが実際はそう見えただけで、すぐさま、「そんな」と漏らす含明に、畳みかけるように元生は続けた。


「俺が言うまでもないが、人は陰陽と五気のバランスを上手く取って生きている。そのバランスが崩れ易いのが季節の変わり目だ。気をつけなければいけないのは、黄色い花が咲く頃。特に要注意なのは、()の芽時と呼ばれる――つまり、春だ」

 春は、急激な肝火(かんか)の上昇に普通の者でさえ苛ついたり、怒りっぽくなったりするという。その感覚は今年の春、守もすでに経験していた。

 あの時、どうしても育を許せなかったのには、そんな理由もあったらしい。


「櫻子の場合、西洋医学の見地からすれば、どこも悪くないように見えた。けれどあいつ中のバランスは崩れ、既に均衡を取ることが困難になっていた」

 そして――

 櫻子が育った玄明の家は、小さな龍脈の出口になっていて、それに加え庭の池には、多くの先達が練り上げ、活性化された丹が溜め込まれていたという。

「この上もなく極上の環境で櫻子は育った。()わばあいつは五臓神の純粋培養みたいなもんだ。だが、純粋過ぎて抵抗力がほとんどなかった。()してや櫻子の性質は『水』ときている。『水』と『火』は、思った以上に上手く扱わないと破綻をきたす。特に『水』は、滞ると氾濫する。そうだよな? それは、昔からよく言われていることだ。結局――櫻子は玄明の家でしか生きられなかったんだ」


「馬鹿な!」


 納得しようとしない含明を、元生は哀れむような目で見つめていた。

「確かに、死を選んだのには、何かの切っ掛けはあったかもしれない。だが大きな原因はなかった」

「それじゃあ。まるで答えになどなっていないじゃないですか!」

「人が死を選ぶ時、必ずしも理由があるわけじゃない」

 激昂する含明に、元生は言葉を投げつけた。

 そこには、有無を言わせぬ強さがあった。

「膨大な借金を返し終わった後で、突然何の理由もなくビルの屋上から飛び降りた奴を俺は知っている」

「ですが――」

「理屈では割り切れない。世の中には、そういうこともある」


 最後に静かだが強く言って、元生は口を閉じた。

 その眼には、朱い光が爛爛と輝いている。

 辺りは静寂に包まれ、誰も、何も、話そうとしなかった。

 いや、話すことができなかったのだ。

 この静寂を『意念(いねん)』を以て支配しているのは元生だった。

 元生が許さない限り、誰もそれに背くことはできない。


(しん)は君主の官にして、五臓六腑の大主(だいしゅ)』。


 ところが――


「でもさ、何で維名を連れて行こうとしたんだよ?」


 スーツの左袖の肘の辺りを引っ張って、守が小さな、けれどこの場にそぐわないような、緊張感のない声で父に訊いた。

 守を振り返った肩越しに、元生の唇が「馬鹿」と声にならない言葉を紡ぐ。

 含明はそれを見逃さなかった。


「なるほど、元生さん。あなたが何を護りたかったかがよく判りましたよ」


 元生が含明を睨みつける。

 だが、元生の発する『眼神(がんしん)』に、含明は怯むことはなかった。

「櫻子さんの死の原因は――」

 身構えた元生の顔が、さらに険しくなった。


「武志の父親にある、ということですね」


「はぁ?」

 元生が素っ頓狂な声を上げる。

 それを、真実を当てられた驚きと取ったのか、含明が構わずに続けた。

「では、武志の父親は誰なのです?」

「え……」

 今度は、驚いたままで言葉を詰まらせた。

「含明、お、おまえ、知らないのか……?」

 元生は、呆然としたまま絞り出すように言って、右隣の蒼を見た。


「僕だ」


 蒼は、いたって冷静に宣言する。

「馬鹿な。そんなことは――」


「血の繋がりがあろうとなかろうと、武志の父親は僕だ」


 ありえない、と抗議する含明の言葉を遮るように、蒼がはっきりと言った。

 その眼には、青い炎が宿っていた。


 蒼の強い口調に――


「これ以上は、無理ということですか」


 含明は、そう言い残して立ち去った。



次話から、新しい章になります。最後に、お詫びと説明を少し。


「三花」とは『精』『気』『神』という三つの「気」のことですが、一説に『花』=『(かがやき)』=『陽』の意で、「三花」=「三陽」となるそうです。そしてこの「三つの陽」は、

『精(水)』の陽の「(みずのえ)

『気(金)』の陽の「(かのえ)

『神(火)』の陽の「(ひのえ)

のことだそうです。

資料の中からこの説明を見つけたのが今年になってからで、本文に反映させることができず申し訳ございませんでした。

この章では『(おとこ)』が三人登場しています。誰がどれに相当するのかは、ネタバレになってしまうのでまだ説明できません。ですが、「丙」がパパなのだけは、確かです。


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