三花聚頂 12
「何を言い出すのかと思えば、止してください」
含明は、薄い唇の端を歪めて苦笑していた。
「育が心配しているではないですか」
けれど、もし蒼が櫻子を手に掛けていたのなら――
今まで蒼が隠れていたわけも、育に父親だと名乗り出なかった理由にもなる。
(でも――)
守は鬼仙が観せた、事故の情景を思い出していた。
降りしきる雨の中、必死に泥を掻き分けて櫻子の下に辿り着いた蒼は、そのまま戻って来なかった。しっかりと櫻子を抱きしめていたが、決して殺そうとしているようには見えなかった。実際に首を絞めるとか、自分の胸に押さえつけ、窒息させるようなことはしていない。
雨脚が見えるほどの雨だったが、守には櫻子の顔が見えていた。
それはとても満足そうで。
泥の中へと沈んで行く、最期の時まで美しかった。
それに――
『あの人は、子供よりも自分の女を取った男だ』
武志は前にそう言っていた。
それは子供というよりも――
(育より、って意味だよな)
現場にいた武志がそう感じたのなら、あの時の蒼は、櫻子と一緒に死のうとしていたということなのだろう。どうして助かったのかは判らないが、蒼にとってそれは不本意なことだったのではないのだろうか。
ならば――
殺したというのは直接的なことではなく、助けずに見殺しにしたという意味なのだ。それは、結果的に助けられるのに助けなかったようになってしまっただけで、本当に見殺しにしたわけではない。
「蒼さん、あなたが櫻子さんを手に掛けていないのは、紛れもない事実です。そうですよね、元生さん」
含明の言葉に、育は縋るような目を守の父の元生へ向けた。その手はTシャツの裾をしっかりと握り締め、血色が失われている。
「ああ。あの日、俺は蒼と一緒にあそこにいた。だから蒼じゃない」
元生はしっかりと育を見つめ、「俺が保証する」ときっぱり言い切った。
「確かに、僕が直接手を下したわけではない。かといって、責任がないわけではない。僕が櫻子を死へ追いやったのは事実だし、そんな状況に陥った櫻子を、救えなかったのもまた事実。助けようと思えば助けられた。だが、僕は助けなかった」
そして、一緒に死ぬことを選んだ。
「お言葉ですが、今は誰が犯人かの話しをているのです。あなたは今さっき仰ったばかりではないですか。『罪を肩代わりすることはできない』と――」
「犯人はいないんです」
口を開いたのは夏芽だった。蒼は低い声で夏芽の名を呼ぶと、珍しく厳しい視線を投げかけた。
「蒼さん、本当のことを話してあげてください。この子たちはもう大人です。ちゃんと自分で判断できると思います」
躊躇う蒼に、夏芽は厳しい口調で問い掛けた。
「子供たちの前で、母親のことを悪く言いたくないと言うことですか?」
「夏芽、蒼を責めるな」
元生が口を挟む。
「俺が話そう」
元生が「いいな」と念を押す。蒼は渋渋ながらも頷いた。
元生はまず立ち上がると、自分の席に夏芽を呼んだ。どうやらそこに座らせて、自分の代わりに皓華の通訳にするらしい。そして夏芽がいた武志の隣に育を移し、さらに蒼を空いた隣に押しやって、守の右、居間の南東に自分の席を確保した。
「おう、やっぱ、定位置はいいな」
守が部屋を見渡した。方位とそれぞれの五行の属性が、大まかに揃っていた。
スーツの裾を払って浅く腰掛け直すと、元生はやにわに話し出した。
「俺はうだうだ長引かせるのは嫌いだ。だから、結論から先に言う。櫻子は自分で死を選んだ。あれは――自殺だ」
夏芽の発言からもだいたい予測していたのだろう。その場にいる誰もが皆、元生の言葉を冷静に受け止めていた。
だが、含明だけは、それを納得していない気配を漂わせている。
不満そうな含明を元生は睨み返した。その眼にはこれでもかと言わんばかりに、朱い『神』が輝いていた。
「櫻子は、とても親思いの娘だった。父親を早くに亡くしたせいか、母親の志穂の言うことには逆らわずに、よく従った。優しい娘だ。だがな、別の面から見れば、自から特に何かしようとは思わない、主体性のない人形のようだったとも言えなくはない」
「だからあなたと婚約し、結婚もするつもりでいた。そう仰りたいのですか?」
「そうだ」
「それなら、何故、蒼さんと一緒に家を出てしまったのです?」
「そうだな、それなら昔の話をしないとならん。蒼が玄明の家に来たのは、俺が高校に入った年の春だった」
元生と蒼が、櫻子の伯父が理事長をしている鴛鴦学園の高等部に入学し、櫻子は同じ学校の、中等部の二年に進級する、ほんの一月前だったという。
「小さい頃から櫻子には、いろいろなものを惹きつけるという変わった才能があった。それは寄ってくるものの善悪を問わない。犬や猫だけならまだいいが、今でいうストーカーまがいのヤツらもいたし、営利目的で誘拐しようという族もいた。だが、何より面倒だったのは、生命のないヤツらだ。志穂がうちの親父に泣きついて、幼稚園から大学院までの一貫教育の学校を造ったのはそのためだ。専任の警護もついてはいたが、基本、俺が護っていた。というよりも、俺が傍にいればそんなヤツらは寄ってこなかった」
「どういうことですか?」
訊く夏芽に、元生は素っ気なく「さあな」と答えた。
「どういう作用でそうなるのかは、興味がないから知らないんだ。だから俺に訊くな。まあ参考までに、うちの親父が言うには、櫻子の持っているものと俺の持っているものがぶつかり合って相殺されるということらしい。酸性の物にアルカリ性の物をぶち込むと中和するのと一緒だな」
「それを言うなら――」
蒼が横から口を出す。
「同じ大きさの波と波が反対の位相でぴたりと重り合った時に、干渉によって波が消えてしまうのと同じ原理、というほうが近いな」
「だとさ」
元生は、投げやりな調子で言うと先を続けた。
「とにかく、俺は小さい頃から櫻子のお守りをさせられていて、些かうんざりしていた。だから蒼のことは正直、大歓迎だった」
維名の家も同門の徒だ。蒼の場合、元生のように相殺するほどではなかったが、ある程度効果を弱める力があったらしい。
「それに維名の家には特別な技が伝わっている。自分を護る技であり、後に皇帝の護衛にも使われていた技だ。正にボディガードには打ってつけなわけだ。俺は蒼に櫻子を押しつけて、これ幸いと逃げだした」
元生は欧米人のように大仰に肩を竦めて見せた。
そんな父の姿を見て、日本人のくせに、それなりに板について見えるから不思議なものだ、と守は場違いな感想を持つ。
「それから一年後ぐらいだったよな、蒼。櫻子を庇ったおまえの、『魂』の一つが抜け出して意識不明になったのは?」
「ああ」
「あの日はうちのお袋の誕生日で、俺は櫻子の側にいなかった。ふとした拍子にできる僅かな間隙を突かれたんだ。そういうことは、長い人生を生きていれば間間あることだ。だが、あん時はまだガキだったから、正直かなりビビったぞ。それでも大事に至らなかったのは、蒼が身を挺して櫻子を護ってくれたからだ。さすがに、鈍いあいつもそれは解ったようで、その時から櫻子は変わったんだ。最初はただの罪悪感だったのかもしれない。学校に行くのも嫌がって、寝ずに付き添おうとしていた。そして蒼が生還し、また別の感情があることに気がついた。けれど、それの意味するところまでは、解らなかった。自分の気持ちに戸惑っていたんだと思う。今まで自主性なんかからっきしなかったからな。ところが、自分の中にあるものが何なのかを認識した時、櫻子は大きく変化した。それをはっきり自覚するまでに、二年ぐらい掛かったがな」
「今までの話を伺っていると、あなたは最初から櫻子さんと結婚するつもりなどなかった、というように聞こえますが?」
「当然だ」
何の迷いもなく元生は答えた。
「小さい頃から傍にいた。だから櫻子は妹みたいなもんだ。それに放っておいても生きていけないような面倒な女は、俺の性に合わない。その点、蒼は面倒見がいいから安心して任せることができた」
「ですが、志穂さんは許さなかったんですね」
「うちの親父もだ。だから、蒼と櫻子はあの家を出たんだ」
やがて育が生まれることになって、二人は結婚を許された。そして生まれた育と三人で、慎ましいながらも幸せな暮らしを送っていた。
だが、平穏な日日はそう長くは続かなかった。
「櫻子さんは、腎神としての、自分の務めを果たすようになったんですね」
「そうだな」
元生の答えには、今までのような歯切れのよさは感じられなかった。
「それだけなら、蒼さんも許せたかもしれません。ですが、傷を負った地球の要求は強く、櫻子さんはそれを押さえることができなかった。あなた方は、頻繁に会うようになった」
「それは、違う」
元生は、今度はきっぱり言い切った。
「どこが違うんですか。私は見たんです」
含明の言葉に、元生の右眉が跳ね上がった。
「蒼さんの家から、あなたが慌てて出ていくのを」
それは四月の最初の日、桜の美しい季節だったという。
含明親子が最初に来日してからすでに八年の歳月が過ぎていた。その八年の間、含明の母の柳青は、中国と日本の間を往き来していた。含明は一度中国に帰ったものの、文革の後遺症が残る中国では安全が確保できないと、日本に留学することになり、中高と日本の学校に通っていた。
「鴛鴦の高等部を卒業した私は、帰国の挨拶をするために、独り明日香の地に向かいました。そして先に櫻子さんに挨拶をし、それから蒼さんの職場へ向かうつもりだったのです。つまり――」
「俺を見たのは、その時か」
「ええ。蒼さんが留守なのは確かでした」
父を見つめる含明の目には、不思議な光が宿っていた。
「玄関は開けっ放しで、中から不穏な気配が漂っていました。私は何度か声を掛けたのですが、誰の返事もありません。意を決して玄関を上がった時、一番奥の部屋から櫻子さんが現れました。櫻子さんは春に相応しい桜色の着物を着ていたのですが――それがいつになく乱れていて、その――酷く……」
「酷く?」
言い止めた含明に、目を細めて元生が問い質す。朱い『神』の光がひときわ強く輝いていた。
「――と、とにかく、櫻子さんの姿は、私が知っているものとは、まったく違っていたのです」
元生は、含明を睨めつけている視線を緩めると、「まあ、そうだろうな」と軽く言った。
「違っていて当たり前だ」
「何故?」
問い返す含明の語気は鋭かった。
「あの頃の櫻子は、育児ノイローゼだったんだ」




