三花聚頂 10
すべてを認めたのか、含明は諦めたように深く溜め息をついた。
「親が子に、自分の跡を継がせたいと思うのは当然のことではないでしょうか?」
そう問いかける、含明の口調はとても静かだった。
「蒼さん、あなたは、肝神も膽神も表裏があるだけで同じだ、と仰いましたが、そうではありません。臓器の中でも膽は特別な存在です。腑に分類されていますが腑ではなく、臓に近い機能を持っています。ですが、もちろん臓ではありません。多くの書物の中には、陽腑でありながらも陰器の機能を持つとあり、脳、髄、骨、脈、女子胞と並び奇恒の腑に入れているものもあります。それは膽が特別な存在であることを示しているのです」
含明は、以前、育が守にしたのと同じような説明を繰り返した。
「そして膽神もまた同じなのです。私たち五臓神の中にあって、やはり特別な存在でした。膽神は色こそ『木』を表す青ですが、その本質は『金の精、水の気』。他の五臓神は、皆五行と八卦の組み合わせなのに、です」
去年の暮れに守が図書館で見た本の中にも、心神は『火の精、離の気』、腎神は『水の精、坎の気』、肝神は『木の精、震の気』、肺神は『金の精、兌の気』、脾神は『土の精、坤の気』とされていた。
「それは、あなたが一番ご存じなはずですよね、蒼さん」
問われて、「確かに」と蒼は頷いた。
「我が門派において、膽神だけは特別な存在だった。知っているのは本人と掌門人のみ。たとえ五臓神であっても、それが誰なのかを知らされることはない。門人の中には、未だその存在すら知らぬ者もいる。ただ性質上、肝神や他の五臓神でも、特に力のある者なら気づくこともできただろう。それでも、それは決して口外してはならない決まりだった。だが――」
それは昔のことだ、と蒼は続けた。
「我等が二つに分かれてからは、そこまで秘密にされてはいなかった。回りの状況が大きく変化し、科学が発展することによって、我等が重要と考えていたものが、それほど重要視されなくなってしまったからだ。喩えば、今の世に神仙の存在を心の底から信じている者が、果たしてどれほどいるのだろうか。練功を行っている者ですら不老不死などを目指してはいまい。況してや、一般人であればなおのこと。適当な医療さえ受けられれば、ある程度の延命も可能な昨今、我等が後生大事に抱えているものなど、人は見向きもしないだろう」
すると「世間のことなど、ここでは関係ないはずです」と含明が異議を唱えた。
「今でも、私たちの間で膽神が特別な存在なのには変わりありません。それとも、論点をわざとずらすのは、何か意図があってのことですか?」
「いや」
蒼は否定し「済まない。そういうつもりは毛頭なかった」と悪怯れずに詫びた。
「君の言う通り、我等にとって膽神は未だ特別な存在だ。膽神が誰なのか、を語ることはできないし、また、どんな役割を担っているのかも秘されたままだ。それは認めよう。だが、柳青師姐にとって一番問題だったのは、そんなことではなかったはずだ」
「じゃあ、何だ?」
父が横から口を挟む。
守が無言でスーツの袖を引っ張って抗議した。
「膽神だけは、掌門人になれないのです」
答えたのは含明だった。
第十三代掌門人に、含明でなく蒼が選出されたのは至極当然のことだった。
この事実を知らなかったのか、父は少し驚いているようだった。だが、それ以上何も言及することなく口を噤む。
「膽神は掌門人になれない。母はこの事実を受け入れることができませんでした。それが双子の妹に対する競争心から起こったものか、自分を苛み続ける罪悪感から起こったものかは、私には判りません。ただ私が知っているのは、母がこの宿命を受け入れることができず、ずっと悩み続けていたということです。たまにですが、私も子供ながらにそんな母の心が零れてくるのを感じていました。そして、それを見ているのは辛かった……」
含明は俯いて言葉を切った。
守の心に、急に『気の毒だ』という思いが込み上げてきた。
同時に、耳元で「騙されるな」と父の声が囁く。
「膽神が掌門人になれないのには、確乎たる事由がある」
蒼の言葉に、含明が顔を上げた。
「だが、ここでそれを口にすることは憚られる。秘されているものには、『秘されている』ということにも意味がある」
含明は露骨に顔をしかめたが、蒼は構わずに話を元に戻した。
「師姐は君を掌門人にしたかった。だが、我等の本来の目的である、最終的な成就の形は、掌門人になることではないはずだ。寧ろ、個人的な鍛錬はそういったものから掛け離れたところにある」
「ですが、後進の者を導くことによって積まれる『徳』は大きいはず」
「いや、それは違う。『師父領進門』。掌門人の役目は、その入り口に連れていくことにある。小さな船の船頭のようなものだ。ただ、黙黙と運んでいく。『世間』から『出世』するための手伝いをするだけ。そして『修行在自己』。あくまでも、その主体は個人にある。門は進む本人が自分で開け、潜らなければならない。故に掌門人とは――」
蒼は「己が真の『人』となる、『出世』のための方便ではない」と窘めた。
「ところが、師姐は目的を見誤ってしまったのだ。苦労して手に入れたせいなのか、掌門人であることに固執してしまった。それは、実に残念なことだ」
蒼はそこで言葉を切った。
すると――
「師兄、あなたはどう思ってらしたんですか?」
育が右隣に目を向ける。質問したのは夏芽だった。
「あなたは、掌門人になりたかったんですか?」
「私は、特に掌門人になりたいとは思いませんでしたよ。ただ――」
「ただ?」
と、夏芽が聞き返した。
「母のようになりたかったのは確かです。子供心にも慈しみを与え、大悲を行い、人に慕われ、人の尊敬を得る、そんな母のようになりたかった」
含明は「ただ、それだけです」と言って口を閉じる。
「君がそう思い込みたいのも無理はない」
蒼は同情的な目を向けた。
「師姐は我等にとっても偉大な先達だった。過ちを犯したことを認めたくない君の気持ちもよく解る。だが、真実は隠しようがない。師姐は最後の最後に囚われてしまったのだ。『肉親の情』という名の魔物に、な――」
「あれは、母ではありません」
反駁する含明に、皆の視線が集中する。
「皓華の母親を死に至らしめたのは――私です」
「だから、黄老師は『威明』って……」
驚きの声を上げたのは育だった。
「どうしてそんなことに?」
夏芽が訊く。
「確かに、母は私に自分の跡を継がせたいと考えていました。だからこそ私のことは誰にも黙っていたのです。ですが皓華の母の淑月は、それを知って母のことを非難しました」
「それだけで、殺すのか?」
元生の問いに「誰にも知られるわけにはいかなかったのです」と含明。
すると――
「原因は、それだけではないでしょう」
今までずっと黙っていた辰矢が口を挟んだ。その隣の武志が、何かあったらすぐに対応しようと身構える。
「あなたが皓華の母親を殺したのは、伯母がご主人に離婚されたのと同じ理由ですよね。そしてそれを知った僕の母も……」
いつも愚直なくらい温厚な辰矢だったが、含明に向けられた口調は厳しかった。
「伯母は母のことを『どうしようもないあばずれだ』と言いました。伯母の婚約者を奪い、先代の『威明』の夫を盗んだ、と。でも、僕に言わせれば、伯母も似たり寄ったりです」
「止めなさい、辰矢。それ以上は……」
「構いませんよ、蒼さん。いつかは皓華にも話さなければならなかったことです」
含明の言葉に、辰矢はハッとして皓華のほうへ視線を向けた。
皓華は俯きながらも、含明の次の言葉を待っている。
含明の薄い唇が開いた。
「秋成虎が私の父です。だからこそ、私は膽神になったのです」
「そんな……」
育が両手で口を覆う。
「この事実を知った時、母はとても悲しみました。そして自分を酷く責めたものです。私はそんな母の姿をずっと見てきました。ですが、皓華の母の淑月は自分の夫には責任を求めず、母だけを責めたのです」
「それで、殺ったのか?」
元生の問いに、含明は素直に「はい」と答えた。
「どうしても、許せませんでした」
誰も何も言わなかった。
含明は、蒼に向き直った。
「あなたは、十三代として、私を裁きますか?」
「いや、僕には、君を裁く権利はない」
蒼の口調は柔らかだった。
「それに、君は皓華の母親に怪我を負わせたかもしれないが、それは、やむを得ずだったのではないのか? そして最後は――」
含明が、蒼に抗議するように息を漏らした。
「いいえ、私です」
「含明。確かに孝徳を積むことは人として正しいことだ。だが過ぎてはならない。君も師姐もそして義母も、愛するあまりにその対象に執着し過ぎた」
「『義母』?」
含明は問い直してから、「ああ」と合点がいったように声を上げた。
「春花叔母のことですね。日本名は、春子でしたか。あなたも叔母を恨んでいた」
「いや、恨んでいたわけではない」
「そんなはずはないでしょう。あなたの本当の母親を苦しめた叔母が、憎くなかったはずがない」
蒼は、深く溜め息をつく。
「含明。皆が皆同じだと思ってはいけない」
「がっかりですよ、蒼さん。あなたは、親不孝な方なんですね。そんな人が掌門人になるなんて――」
含明の面に強い嫌悪の情が表れた。「そら見ろ」と元生が守に耳打ちする。
蒼は、それでも静かに先を続けた。
「僕は彼等が嫌いではなかった。辰矢は体は弱かったが心の優しい子供だったし、義母は子を思う良い母親だった」
「では、何故、維名の家を出たのです?」
「義母の心が維名の家に執着するのは、見ていて辛かった。義母は息子を思うあまり、辰矢の気持ちを無視してまで、辰矢を膽神にしようした。残念なことに義母には姉である、君のお母さんに対する、強い対抗心があったからだ」
守は以前辰矢とした会話を思い出した。
確かに辰矢は『姉の息子が肝神なら、自分の息子が膽神であるべきだ』と自分の母親が考えていたと言っていた。
「譲れるものなら、譲ってやりたかった。だが、僕は膽神ではない」
蒼の言葉には、やるせない悲しみが滲んでいた。
「僕が家を出ることで、少しでも義母の気持ちが落ち着けばと思った。人の心とは忘れるものだ。目の前にいなければ、僕に対する様様な感情は薄れていくだろう。そのことで、義母が執着から離れられるのならそのほうがいい。苦しみとは対象に執着することから生まれる。憎しみでも、譬え愛でさえ、執着するということは、実は苦しいことなのだ」
守は『愛』という字の成り立ちを思い起こす。
『愛』とは会意で、『思わず振り返るほど気になること』。
そして――
古字の『心』の下に『夊』の字は、『足を引きずるほどに、心が重いこと』を表しているという。
「君の母親を思う気持ちはよく解る。だが、やはり過ぎてはならない。対象が何であれ、愛し過ぎるのは執着に繋がる」
「何を仰りたいのですか?」
「罪を肩代わりすることはできないということだ。君は、していないことの責任を取る必要はない」
「馬鹿なことを。私が『した』と言っているではないですか!」
吐き出すような含明に――
「ハンカチは?」
と、冷静な声で蒼が訊く。
「はい?」
含明は、怪訝な顔で聞き返した。
「君はハンカチで――一体何を拭ったのだ?」
領進=案内する
修行在自己:『自己』は『個人』となっている場合が多いです。
『出世』=この世を出る。本作では『得道成仙』の意味です。




