三花聚頂 8
新年早早暗い話で申し訳ありません。
時代考証、出産事情に関しては、ふんわりとした感じでお送りしています。
松花湖に来て九日目。
朝の寂しい食事の後に、蒼は誰の例外もなく皆を居間に集めた。
居間はいつもとは様子が違い、北側に応接セットの三人掛けのイスが、東西と南側には一人掛けのイスが二脚ずつ、計六脚が並べられていた。
育が食事の後片づけを終え居間に入った時、守は新たに置かれた南東側のイスに座っていた。守の様子は相変わらずで、多少ものを食べられるようになった以外、大した変化はなかった。そんな守とは対照的に、皓華は何もなかったようにすっきりした顔で現れた。この時まで何も知らされていなかった皓華は、守の様子に驚いて蒼にその理由を訊ねた。
蒼がチラリと含明を見る。
「たぶん。母の仕業でしょう」
皓華に続いて部屋に入って来ていた含明が口を開いた。
「母は鬼仙となり、魂魄が天にも地にも帰らず留まっているのです。たぶん、守はすべてを知ってしまったのでしょう」
「『すべて』って?」
育の問いに、「それは……」と含明は、蒼を見て口籠もる。
「君の話を聞かせてくれ。だが、それよりもまず座ろうか」
蒼はいつも自分が座っている北東の席に育を座らせた。育の隣の、北の三人掛けのイスに、お茶の支度を済ませた武志と辰矢。辰矢の隣、西の席には含明と皓華が並んで座り、まだ戻って来ていない夏芽の席を一つ置いて守。そして、いつも守が座っている場所に蒼が腰を下ろした。
「君は柳青師姐から、どう聞いているのだ」
蒼に促され、含明は逡巡しながらも、静かに話し始めた。
「私が日本にいた七十年代は、高度成長期の真っ直中でした」
話し出した含明の顔は、いつになく無表情だった。いつもの柔和さは影を潜め、薄い白蝋で覆い固められてしまったかのように、まったくといっていいほど感情が表れていなかった。
「多くの作業がオートメーション化され、人が機械に使われている、いわゆる人間疎外の状態です。そしてさらなる利潤を追求するための人間性の喪失。急激な経済成長の裏で、多くの問題が山積されている。そんな時代だったのです。中でも最も深刻だったのは、公害でした」
人は地球を食い物にし、貴重な資源を浪費し、さらには化学物質を垂れ流しては環境を汚染していった。その結果様様な公害病が発生して、人は自分で自分の首を絞めるという最悪の状態に陥っていた。
「人は病み、地球はそれ以上に病んでいました。私たちは、そういう時にこそ集い手を打ちます。私たちが五臓神の名を頂いているのは、単に人数が合っていたからだけではありません。私たちは名を頂くに当たり、『あるもの』と取り引きをしたのです。大いなる力を得る代わりに、地球の臓器という宿命を引き受けました」
自然を護り、地球を護る。それこそが人の世を護ることに繋がっている。だが、人はそのことを理解しようとはせず、七十年代は、空も大地も海も大いに病んでいたという。
「私たちの先師はそれを憂い、最後の手段を講ずることにしたのです。それには、一組の男女が必要でした。心神の男と腎神の女――」
含明はここまで話して言葉を切った。
確認するように蒼を見る。
「先を続けてくれ」
蒼が促すと、含明は再び抑揚なく話し始めた。
「もともと、私たち五臓神には、きちんとした決まりがありました。肝、心、膽は『陽』で男性が、肺、腎、脾は『陰』で女性が、それぞれなることが、好ましいとされていたのです。そして陽中の陽である心神と、陰中の陰である腎神は、互いの気を交換することによって、心腎相交、つまり坎離交媾の状態を作り出し、地球の陰陽のバランスを整え、活性化する役目を担っていました。また、陽中の陰である肝神と陰中の陽である肺神には、心神と腎神の補佐という役割が与えられていたのです」
けれど、「すべては、無常です」と含明は続ける。
「長い歳月を経て、私たちの陰陽のバランスは崩れていきました。それでも出来るだけ調整するように努めてはいましたが、予想外の出来事で、すぐにそれは壊れてしまいます。何もない時はいいのですが、何かあった時には、それが大きな問題となることもあるのです」
明代末期に五臓神が日本と中国に別れてから、大きな戦争をいくつかと、多くの騒乱を経験していた。だが、彼らはそれでもまだ繋がっていた。やがて、二つ目の世界規模の大戦で日中間には国交断絶という大きな溝ができた。自由に行き来できなくなったが、幸いなことに心神と腎神は共に日本にいて多くの力を有していた。
「私たちの先師は、事あるごとに地球の再生のために尽力し、乱れそうになる五気のバランスを整えていきました。原爆が使用された時などは、大変な苦労と困難を伴ったと聞いています」
だが、それも彼らの弛まぬ努力により改善され、一時的に良い方向へ向かうかに見えたという。
「蒼さんのお母さんの、紫さんが膽神を継いだのは、中華人民共和国が成立した翌翌年の、昭和二十六年でした」
当時膽神だった紫の兄は、まだ二十代の半ばという若さだったが、戦前から病を得て療養中で結婚もしておらず、跡を継ぐ子供もいなかった。
「紫さんはご自分が膽神を継いだことを発表しました。その突然の交代劇に、皆はたいそう驚いたそうです。それは、膽神の存在が秘密裏にされていただけでなく、私たちの長い歴史の中で、女性が膽神に成ったのは初めてのことだったからです。そうですよね、蒼さん」
「その通りだ」
肝神と肺神の性別が入れ替わることはよくあった。心神と腎神はごく稀だったがないことはなく、脾神と膽神に限っては、一度も替わったことがなかったという。
「膽神となった紫さんは、何年も前に嫁いで子供もいましたが、実家に戻って維名の家を継いだのです。女性であるにもかかわらず、期待以上の働きをされたと聞いています」
その結果、まだ戦乱は起こっていたものの、世界は少しずつ回復していった。
「ですが何かが変だったのです。何かがおかしかった。なのに、誰もそれには気づきませんでした。大きな歪みが生まれようとしている、そのことに――」
世界規模の戦争は起こらなくなったが、世界の各地で争いは続いていた。そして人は、表立った力の争いだけでなく、新たな火種も熾そうとしていた。異常なほどの日本の復興の早さに、その片鱗が表れていたという。
「紫さんが突然の事故で亡くなるまで、その異常さは誰にも認識されることはありませんでした」
大量消費時代に突入していた一部の国では、人はすでに自分のことしか考えていなかった。己の欲求を満たすためだけに環境を破壊し、人口の増加やエネルギーの浪費などの、新たな問題を次次と生み出していく。
その頃、文化大革命が起きていた中国では、情勢は混乱を極めていた。
「そんな折、中日間の国交が回復したのです」
先師たちは、早急に集まって今後のことを協議したという。
「歪みが広がり、地球は死に向かって邁進していました。五気を整えるだけでは、この状態は正せないと判断した彼らは、地球を救うための唯一の手段を講ずることにしたのです。そのためには、心神の男と腎神の女――」
と、含明は繰り返した。
「私たちの先師は、まだ十代後半で若く力のある二人を結婚させようとしました。ところが――」
含明は、再びここで言葉を切って蒼を見た。
「先を続けなさい」
蒼が促すと、含明は頷き、三度話し出した。
「ところが、当の本人たちには問題がありました。それは実に個人的な感情の問題だったのです」
表情のない含明の顔に、僅かな変化が現れた。
少しだけ内に秘めていた感情が、その面に現れていた。
だが、その表情はやはりいつもの柔和なそれとはほど遠かった。
「心神の男は、他人に決められたことに従うのを嫌いました。腎神の女は、決められた相手以外に好きな者がいたのです。母に言わせれば、それは、ただ単純に好き嫌いの個人的な問題に過ぎず、そんなものは大儀の前では、何ら意味をなさないもののはずでした。ですが――」
彼らにとってはそうではなかったという。
「母は、由緒ある選ばれた者たちが、自分の宿命を全うせずに思うままに振る舞うことを嫌いました。地球は今まさに死への道を突き進んでいるのです。大地の気は滞り、水は停滞し澱んでいます。大気は煤煙で汚染され、それらが生きとし生けるものの全ての体を蝕んでいきます。ですが、彼らは自分の感情に振り回され、自分のことのみを考えていました」
オイルショックに物価の高騰、高度成長期の終焉を迎えても、彼らの考えは改まらなかった。焦れた周りが、強引に結婚式を推し進めようとした結果、腎神の女が行動を起こした。
「彼女は前前から心を寄せていた、膽神の血筋の男と共に家を出て、どこか遠くへ行ってしまいました」
一方心神の男は、最終的に腎神以外の女性を選んで、交際を続けていたという。
育は、含明の言葉の中に、静かだが強い憤りを感じていた。
怒りは言葉だけでなく、その表情にも表れていた。
だが、育はその怒りの炎の中に潜む、別の何かも見て取った。
それが何かは判らないが、強く育の心を揺さぶってくる。
おそらく、それは育の中にもある『もの』なのだろう。
刺激されるのは、罪悪感。
ならば、それは――
「もちろん、そんなことでは地球の環境が改善されるはずもありません。それどころか、さらに悪化の一途を辿っていきました。そして何年か過ぎた頃に、二度目のオイルショックが起こりました。彼らもさすがに自分たちの行為を愚かしく思ったのでしょう。やっと本来の義務を果たすことにしたのです」
すでに表れた怒りは影を潜め、含明の顔は再び薄い白蝋に覆われていた。
「環境は、少しずつ改善されていきました。ですが二人は義務以上のところへ足を踏み入れてしまったのです」
含明は、チラリと蒼に視線を走らせた。
蒼はただじっと耳を傾けている。
「その結果生まれたのが――武志です」
「そんな……」
育が息を飲み、張り詰めていた空気が突然乱れた。
「知らないのも無理はありません。こんなことは、知っていても誰も教えてはくれません。現代の倫理に照らし合わせても、それはとても許されないことです」
「そんなの嘘です。僕は――」
辰矢が思わず声を上げたが、「最後まで聞くんだ」と、蒼が辰矢を制した。
「こうなることは初めから解っていました。だからこそ、私たちの先師は、彼らを結婚させようとしたのです。彼らに道を外させないため、それは、温情でもあったはずです。ですが、結局は上手くいきませんでした」
そこで言葉を切った含明は、目の前に置いてある、蓋をしていないお茶のカップを手に取った。楽しむように香りを嗅ぎ、温くなった龍井茶を一口啜り「獅峰ですね」と言葉を漏らす。いつものようなにこやかな表情だった。
「蒼さんは日本人ですが、中国茶のことはよく解っていらっしゃる。これは最高級の龍井です」
「それは、元生の土産だ」
「元生さん……」
含明は眉をひそめ「そうですか」と言ってから、「では、話を続けましょう」と今までより心持ち大きな声で話し出した。
「私たち五臓神の関係は、大きく歪んでしまいました。内紛が起こるかに見えましたが、どうにか均衡は保たれていました。それは蒼さんによるところが大きかったと聞いています。ところが蒼さんの努力にもかかわらず、新たな火種はもっと別のところに芽吹いたのです。それは――」
含明は、言葉を切ると思わせぶりに時間を置いた。
「宮子さん、でした」
「槌岡が?」
「そうです。宮子さんは元生さんの行動に不穏なものを感じていました。ですが、その詳しい内容については何も知らなかったようです。その原因が昔からよく知っている櫻子さんとは考えもしなかったでしょう。そうでなければ、武志の誕生時に育を預かったりはしなかったはずです。そうでしたよね」
「ああ」
そして、武志は月満ちずに生まれ、産後の肥立ちが悪かった櫻子も武志と一緒に入院していたこと。元生は蒼が大変だろうと育を自分の所で預かってくれたこと。育は二つになったばかりで可愛い盛りだった、と蒼は補足した。
「それ以降も、元生さんは櫻子さんと会うことを止めませんでした。ですがそんなことは、いつまでも隠し通せるはずもありません。やがて、それは宮子さんの知るところとなったのです。そして宮子さんが手を下しました」
「え………」
育は両手で口を覆い、言葉を詰まらせた。
「宮子さんは『土』の者です。だからこそ、櫻子さんは水と共に湧きでた泥に飲み込まれて――」
「いい加減にしろ!」
突然、威嚇するように誰かが怒鳴った。
「そんなでたらめ、よくもそうベラベラしゃべれるな!」
含明が声の方を振り返る。
そこには暑いながらも、毅然としたスーツ姿の男が立っていた。
考え方が今の時代に合っているか悩みましたが、直しませんでした。作者の脳内BGMは、知ってる人は知っている「水銀」から始まる重金属が羅列される、あの歌です。今も「かえせ!」がリフレイン。
ふ、古くて済みません m(_ _)m




