三花聚頂 7
新年、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
「いる?」
育は突然の胸騒ぎを覚え、守と武志の部屋を訪ねた。
ベッドに寝転がって本を読んでいた武志が、何事かと身を起こす。
「あの……守は?」
「丹下なら、まだ帰って来てないけど」
武志は、弔問客の相手をしている辰矢を少し手伝ってからこの家に戻り、台所でお茶の用意をしている時に、外出する守の姿を見掛けたと言う。
「それが三十分ぐらい前だ。もう、夕飯の支度か?」
今日の夕食当番は、守と皓華だったが、皓華はまだ眠っていて育が代わることになっていた。なら、自分がと言い出しそうな武志に、「それもそうなんだけど」と育は言葉を濁した。武志が「ん?」と首を傾げる。
「あのね、武志。――あたし、何だか嫌な予感がする」
武志は急に厳しい表情になり、音も立てずに立ち上がった。
「捜そう」
育と武志が外に出ると、空はまだ明るかった。波のない静かな湖面には、染まりゆく茜色の雲が映し出されている。
暗くなる前に、あの場所を探さなければ、と育は考えていた。
鬼仙が自分を襲った場所。
封印されたあの場所に、もう一度行きたいとは思わない。
けれど、もし守があそこにいるのなら――
日が暮れれば、闇の主はさらに力を増すだろう。
『陰』が勢いを増している今、『陰』に属するアレを、果たして押さえることができるのだろうか。
育は、道観の門前で話をしている蒼と辰矢を見つけ、守のことを訊いてみた。
蒼は一瞬ですべてを察し、眉をひそめた。
宙を睨み、そして唐突に言う。
「この中には、いない。というよりも、島の中の何処にも気配はない」
「じゃあ、『外』か?」
武志が訊いた。
「いや、おそらく『中』だろう。それも意外に近いところだ」
「どこだ?」
「そこまでは、判らん」
育は、蒼と武志のやり取りを心配そうに聞いていた。蒼は育を見、視線を緩めて「きっと、大丈夫だ」と声をかけてくれる。
「守は、僕が知っている『守霊』の中でも一番力がある。まだ全てを発現してはいないが、反対にそれがいい結果をもたらすだろう」
育は蒼と、武志は辰矢と、四人は二手に分かれて辺りの探索へと向かった。
「お父さん!」
育の声に蒼が振り向いたのは、扉が開いていた、守の練功房の中を確認し、湖畔に下りて来た時だった。
「あれ」
育の指が差し示す道の先には、こちらに歩いて来る、自分の父によく似た長身で細身の男の姿があった。
「含明……」
そして、その背には――
「どうした?」
駆け寄った蒼の問いに、含明は守を背から降ろして草地に寝かせた。
「あちらの湖畔に倒れていました。どうやら邪気に当たったようです」
意識のない守の体を一通り調べてから、蒼は含明の手を借りて宿舎の中へと運び入れた。居間のソファーに寝かしつけ、もう一度脈を診る。「手伝いましょう」と含明が、守の左右のこめかみを親指と小指でそっと押さえた。手のひらで額を包み込むように鷲掴み、任脈に沿うように置いた人差し指を細かく動かし、任脈上のツボを刺激する。
蒼と含明の二人の施術を受けて、守が昏睡から目覚めたのは、三十分以上経ってからだった。うっすらと目を開けた守に、「何があった?」と蒼が訊いた。
だが、守は何も答えようとせず、虚ろな目には『神』の欠片も見えなかった。
「『失神』しているようですね」
「そうだな」
この場合の『失神』は、『元神』『識神』共に『神』の働きが不十分なことで、今使われているように、まったく意識がないという意味ではなかった。
蒼は立ち上がると、何も言わずに部屋を出て行った。代わりに育が、今まで蒼がいたところに跪く。
「守?」
「………」
声をかけたが反応はない。
含明に目を向けると、左右に首を振っていた。
育は、こんな風に虚ろな守というものを見たことがなかった。
育が知っている守は、いつも表情豊かで、煩いほどで、何も話していない時でも、いや、疲れて眠っている時でさえ、その『神』はしっかりとしていた。
だのに――
今は中身がまったく空というほどに、何も感じない。
時に温かく。
時に優しく。
時に激しく。
時に残酷で恐ろしい。
育を見る強い『眼神』も、今はその目に現れていない。
ただ、昏い虚ろがあるだけだ。
けれど――
守の中には、まだ『守霊』がいる。
『守霊』はまだ、守を見捨てたりはしていなかった。
育は守の胸中にある、上から吊り下げられた、蓮華の朱い蕾の中に、朱い光の鳥がいることを感じていた。
幾重にも重なったベールの奥。ひっそり息づく光の鳥は、衰えることなく煌煌と輝いている。
もし、守が再起不能の状態なら、『守霊』はすでに宿主を変えているはずだ。
そして次の宿主は、育に冷たい目を向けていた、あの小さな弟のはずだった。
(でも、あの子は――)
あの事故の後、育はしばらく守の家に預けられていた。
それを思い出したのは、松花湖に来て四日目。五気朝元の前段階である、五臓の調整法を行った後だった。『あの頃、龍煙さんはまだ日本にいた』という夏芽の言葉に、もしかしたらと育は思った。そして改めて父のことを思い出そうと試みた。
確かに、龍煙は年齢だけでなく、話し方やその優しい眼差しが、育の記憶にある父にかなり近かった。だが龍煙の気配は、父の蒼とは根本的な部分が違っていた。気配だけで言えば、龍煙よりも含明のほうが、育の記憶の中の父に近いのだ。
それでも、龍煙が父かもしれないという考えを育は捨てきれなかった。そうだったらいいと、願いにも似た気持ちで記憶の底を掘り起こした。それは辛く、厳しい作業だったが、その代償に育はいろいろなことを思い出した。
その思い出した記憶の一つに、事故の後のことがあった。
育は一度母の実家に引き取られたが、すぐに守の家に預け直された。賑やかなほうが気も紛れ、育のためにもいいという配慮からだった。だが、それはあくまでも表向きの理由で、本当は母から『育嬰』とその役割を引き継いでいた育が、当時の『守霊』である、守の父の傍にいる必要があったからだ。
それに――
守の父の元生は、育の父の親友で、父を失った哀しみを、唯一分け合える人でもあった。父と母は駆け落ちしていて、育が引き取られた母方の実家に、父のことを哀しんでくれる人はいなかったのだ。育が心の底から父の死を悼むことができるのは、元生の前でだけだった。
けれど――
あの子は育が辛くなると、決まって喘息の発作を起こした。
守と二人で取り残されることも多く、育は泣くこともできなかった。
そんな時、守はいつも育の手を強く握ってくれていた。
もちろん、自分も辛く心細かったのだろうが、時に戯けては、育を笑わせてくれたりもした。それでも辛く哀しい時は、よしよしと頭を撫でて慰めてもくれた。
(あの頃は、まだ、あたしのほうが大きかったっけ)
幼児ながらも、懸命に育を気遣う守の姿を思い出し、不意に、育の口元に笑みが零れ、それと一緒に涙も零れた。今思えば、あの家で純粋な気持ちで育のことを心配してくれていたのは、守だけだったのかもしれない。
もし、あの頃のままだったのなら、育は守が差し出した手を、迷わず取っていただろう。
(でも――)
育はもう、あの子が何故育に冷たい目を向けていたのか、知っている。
思うままに思考をさ迷わせていた育が、そこまで考えた時、どこかに電話をかけに行っていた、蒼が戻って来た。
「お父さん、どうしたらいい?」
育が気を取り直して、蒼に訊く。
「今は、そっとしておいたほうがいいだろう。ついていてやれるか?」
「はい」
頷く育に、「私もいましょうか?」と含明が言った。
「いや、直に武志が戻って来るから武志にやらせよう。君は皓華のところへ行ってくれないか」
蒼は含明を伴って皓華のいる二階へと上がって行った。
宵の食卓は、育と蒼と辰矢だけの寂しいものだった。
守と武志の姿は見えず、含明はまだ眠っている皓華の傍にいた。皓華は、あの夜から一度も目を覚ましていなかった。そして夏芽もまだ戻っていない。
誰もほとんど口を利かず、食事を終えると辰矢は早早に片付け始めた。育も手伝おうとしたのだが、蒼に呼ばれ、一緒に守の様子を覗きに行く。
「どうだ?」
「あまり、変化はない」
「そうか」
育は、手をつけられていないトレイを、蒼は、汚れた食器が載ったトレイを受け取って二人は一度食堂へ戻った。育が残った食事を辰矢に渡すと、辰矢はラップをかけて冷蔵庫に蔵う。育は洗い物を済ませて蒼と二階へ上がった。蒼は、女たちの安全を考え、皓華を含明に任せ、育を自分の部屋に引き取ることにしたのだ。
育の私物を運び出し一階へ戻ると、すでに辰矢の姿はどこにもなかった。辰矢はこの後も夏芽の代わりに、主のいない祭壇の前で、集まった門人と夜を明かすことになっていた。
その夜は何事もなく過ぎて行った。
暗く沈んだ島は、翌日の八日目も台風が近づいていること以外、特に大きな変化は見られなかった。




