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そらつかい『虚』  作者: カルヰアオ
第九章 三花聚頂(三つの花が天宮に集まる)
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三花聚頂 6

ちょっと判り難いですが、守が他人の目を通して事件を見ている状況です。


「おまえを待っていた」


 部屋の隅に残った闇が言う。

「逃げずともよい。危害は加えない、と約束しよう」

「信じられるか!」

 吐き捨てるように、守は答えた。

「何故?」

 不思議そうに闇が問う。

「おまえと私の力の差は歴然としている。おまえを殺す気なら、もうとっくの昔に始末をつけている。おまえは、私の姿を見ることすらできなかったのだぞ」

 闇は藍色の人民服の女になって、嘲るように笑った。

 守の胸の奥に一つ、小さな怒りの炎が(とも)る。


「何しに来た?」

「全てを見せに」

「は?」

「見えるようになったのだから、見せてやろう」

 思わせ振りな女に、守は思いきり顔をしかめた。

「昨日は、韋駄(いだ)が見えていたな。だが――そうか、まだはっきりとは見えんのか」

 未熟者め、と藍の女が(わら)う。

 守の中の紅蓮の炎が大きくなった。


「何を見せるって言うんだ!」

何故(なにゆえ)、武志が(さら)われたのか――」

「え……」

「知りたいのだろう。けれどここにいる奴らは、おまえが知らないほうが幸せだ、と考えている。だからわざわざ教えてはくれまい。このままでは、どんなにここにいようと、おまえは知りたいことを知ることもできないぞ。それに、ここにいればいるほど、そんなことはどうでもよくなっていく――」

 確かに練功を続けていくと、過ぎてしまったことや瑣末なことは、どうでもよくなってしまう。そんなことにこだわるよりも、もっとずっと大切なことが世の中にはたくさんあるからだ。


「まあ、確かに知らないほうがいいのかも知れんな。おまえは、奴らが思っているように考え無しのところがある。そしてその性格は直情的だ。いったん火が点くと後先も考えずに燃え上がる。そうなるとおまえは『火』そのものだ。一見、おまえの父親のほうが直情的に見えるが、あれはなかなか(こす)い男だ。油断ならんのはもともとだが、おまえは、まだそこまででもない」

「何が言いたい?」

「さあ、な」

 藍の女が空惚ける。

「それより、どうする? 不動心を身につけるまで待つか? いや、それでは平常心すら身につけられないおまえなどには、一生無理なことかも知れんな」

 藍の女は「で、どうする?」とさらに問う。

 そして、「さあ、どうする?」と、だめ押しする。

 もちろん、断るのが正解なのだろう。

 何の意図があるか判らないのだ。

 そんなものに、むやみに乗る必要はない。

 けれど――


「ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと教えろよ!」


 守の中の炎は、ひときわ大きく躍り上がっていた。

「本当にいいのか? 大切なものを、失うことになるやも知れんぞ」

「構わないさ」

 その言葉に、躊躇いはなかった。

「ほう、いいのか?」

「ああ、オレは知りたいんだ」

 そのために、時間と費用を掛けて、わざわざこんな遠くまでやって来た。

 そうだ。

 閉鎖されているここに、何だかんだと理由をつけてやって来たのも、きっと心のどこかで、こうなることが解っていたからだ。

 鬼仙は何でも知っている。

 あそこに行けば、すべてが判る。

 そう知っていたからこそ、守はあえてここに来た。


 自覚してしまったら、覚悟を決めるのは早かった。

「早く言えよ」

 今度は守が、だめ押しする。

「後悔をしても、知らないぞ」

 藍の女は、嫌らしく笑った。



 空気が、ひんやり冷たかった。

 守の目の前には、広がる田園風景と平屋の日本家屋があった。

 見たことがあるような生け垣の前に、女が独り立っていた。

 薄紅(うすくれない)の、桜の柄の着物に、絹糸のように光沢のある長い髪。

 髪の色は黒ではなく、山桜の木肌を思い起こさせる、微妙な色合いの褐色だ。

 振り向いたその顔は――


玄明(げんみょう)?)


 いや、育ではない。

 確かに、一卵生の双子のようによく似ている。

 しかし雰囲気がまったく違う。

 育よりもずっと朧気で、儚げな印象だった。

 淡い(くれない)に染まる頬。

 もしかしたら、着物の地色が白の肌に映っているだけなのかもしれない。

 柔らかく微笑んだ(つや)やかな口許は、どこか官能的ですらあった。

 その隙間から、微かに吐きだされた白い息。

「来てくれたのね」

櫻子(さくらこ)

 守の口が勝手に言葉を紡ぐ。


「嬉しいわ。元生(もとい)さん……」


 (あか)い裂け目の、濡れた暗がりに、七つの星が瞬いた。



「元生さんは、いつならご都合がよろしいのでしょうか?」

 目の前には変わらずに櫻子がいる。

 櫻子は、愛らしい表情で少しだけ小首を傾げていた。

 守は、何を訊かれたのかよく状況が飲み込めない。

 さっきは自分を父の名で呼び、今度は、父の事情を訊いてくる。

 それでも目の前の櫻子は、変わらずに美しかった。

 だが、違うところも確かにある。

 流水に紅葉(もみじ)と菊の小花がちりばめられた単衣(ひとえ)小紋(こもん)

 さっき見た着物とは違っている。

 それに――

 外ではなく屋内で、落ち着いた色合いの、臙脂(えんじ)の絨毯の廊下に立っていた。

 どうやら、どこかのホテルのようだ。

 何が起こっているのだろう。

 守は大いに困惑する。

 すると――

 またもや守の口が勝手に動いて、言葉を紡いだ。


「どういうつもりなの? どうしてそんなことを、あたしに訊くわけ」


 押さえてはいるが、よく知っている女の声だった。

 守が生まれる前から語りかけてくれた声。その声に、今までに一度も聞いたことがないようなニュアンスが含まれている。

「どうして結婚してるのに、他人(ひと)の夫と二人きりで、ホテルで会ったりできるの? それがどういう意味なのか、あなたにだって判るでしょう。子供を二人も産んでいて、知らないなんて言わないでよね。もう、維名(いな)くんが、どうしてこんなことを許しているのか、あたしには全然解らないわ」

「あ……」

 驚いている櫻子を、守は隅に押しやって、さらに声を潜めた。

「ねえ玄明さん、去年の五月五日、うちの(ひと)が何処にいたのか、あなたは知っている?」

「え?」

「しらばっくれないで、守の誕生日だったあの日、夫はあなたに会いに行ったはずよ。あたしが入院してたから、あの子は遊園地に連れて行ってもらえるのを、それはそれは楽しみにしていたの。なのに、結局あなたに呼び出されてダメになってしまった――」

「え……」

 櫻子の目が大きく見開かれる。

「ねえ、玄明さん、あなたは、うちの夫のことなんか好きじゃなかったはずよね。好きだったら、あのまま結婚すればよかったんだもの。それとも、元生があなたを妹扱いして相手にしないから、その腹癒せに維名くんと駆け落ちしたの? まさか両方いないとダメだなんて、そんな非常識なこと言わないわよね? 結婚してるのに、そんな虫のいいこと、許されるわけないでしょう」

「ご、ごめんなさい」

 櫻子の目には涙が滲んでいた。

 儚げな美人の涙を間近に見て、一番の被害者でありながらも、守の胸中には櫻子が可哀想と思う気持ちが溢れていた。同時に加害者意識も湧いてきて、どうしたらいいのか判らなくなる。

 けれど、「こんな所で泣いたりしないで」と同性の母は容赦がなかった。

「まるであたしのほうが虐めてるみたいじゃない」

 守は、こんなに険の籠もった母の声を聞いたことがない。

 叱られることはあっても、怒りにまかせて怒られることはなかったのだと、守は初めて気がついた。そして、父が母に頭が上がらない理由が、このことだったのかと思い至る。

 守が驚きで呆然としている間に、櫻子はその場から逃げ出していた。



 いつの間にか場面は変わり、最初の生け垣に戻っていた。

 ふと目の端にある、(すみれ)色の()に赤と白の椿の着物に気がついた。

 庭の隅にそれを纏った櫻子と、腕の中には男児が一人。

 立ち尽くす櫻子の、その足下の小さな池から水が溢れ出していた。

 水は、櫻子の黒塗りの下駄に当たると、それを少しずつ浸蝕していく。

 池からは、すでに水だけでなく泥も溢れ始めている。

 やがて――

 遠くで雷が鳴り始める。

 雨脚が見えるほど、本格的に雨が降り出した。

 雨樋(あまどい)に収まりきれずに、零れる雨がびしゃびしゃと音を立てる。

 地面の上にできた水の層に、幾つもの輪ができては消える。

 泥は白い爪先に届くと、清らかなそれを汚し始めた。

 だが、雨が作る線の向こうにいる櫻子は、微動だにしない。

 さらに泥は家の敷石に辿り着くと、ゆっくりそれを飲み込んでいく。

 地盤が緩んでいるのだろうか、家屋がその重みで沈み始めた。

 櫻子も、武志を抱えたまま泥の中に沈んでいく。

 守がスッと手を上げた。

 突然雷が瞬いた。

 音に驚いた武志が、声を上げて泣き出した。

 降りしきる雨の中、それでも櫻子は動かなかった。


「櫻子!」


 蒼が車を乗り捨て駆け寄って来る。

 櫻子は、もう腰に届こうかというほど泥に浸かっていた。

「馬鹿なことをするな! 戻って来い!」

 蒼とは反対側から駆けて来て、生け垣越しに怒鳴ったのは守の父の元生だった。

 けれど――

 櫻子は哀しく微笑んだまま左右に小さく首を振ると蒼に言った。

「育を――育を頼みます。わたしは良い母親じゃなかったけれど、あの子のことも愛していました」

 降りしきる雨の中、不思議なほどはっきりと言葉が聞こえた。

 蒼が迷いなく泥の中に飛び込むと、櫻子の表情が初めて大きく変化した。

「だめよ、あなたまで――」

「いいから、しっかり掴まるんだ」

 蒼が差し伸べた手を、櫻子は掴まなかった。

 さらに、その手から逃れるように体を(よじ)る。

「わたしは、あなたに許して貰えないようなことを……」

「そのことは、もういい」

「いいえ、よくないわ」

 その時、門に辿り着いた父が叫んだ。

「話は後にしろ。とにかく武志を俺に渡せ!」

 そう言って手を伸ばす。

「武志?」

 櫻子が、きつく抱きしめた、自分の腕の中の武志を見た。

 武志もつぶらな瞳で見つめ返す。

「理由はどうあれ、武志に罪はないだろ!」

 さらに蒼が何かを囁くと、櫻子の腕の力が緩んだ。

 蒼は武志を受け取って、泥の中を戻り父に預けた。

 泥に濡れた武志は、目を閉じてガタガタと震えている。

「元生、子供たちを頼む」

「蒼?」

 蒼は再び泥の中に戻って行った。

 必死に泥を掻き分けながら、胸まで浸かった櫻子の所に辿り着く。

 だが――

 櫻子を抱き寄せるとそのまま動かなくなった。

 武志が後を追おうと、父の腕の中でもがく。

 水と泥で滑る武志を押さえ込むので手一杯な父は、早く戻れと叫ぶしかない。

 必死に叫ぶが、蒼も櫻子も動かなかった。

 二人を包み込むように、雨がひときわ激しくなる。

 蒼と櫻子はそのまま泥に飲み込まれ――

 遂に戻って来なかった。


     *


「どうだ。真実は?」

 藍色の闇の女が、目の前のオンドルに腰かけていた。

「維名の父親は……オ、オレの親父……なのか?」

 女は「さあな」と意味ありげに笑い、

「全ての悲劇は、ここから始まった――」

 勝ち誇ったように宣言した。

 だが――

「待てよ!」

 と、守。

「何であいつが行方不明になったのか、全然その理由が判らないじゃないか!」

 守の心には、まだ冷静な部分が残っていた。

「そうか、なら、これを見るがいい」



 降りしきる雨の中。

 守は、上海郊外の花鳥市場にいた。

 目の前には、武志。

 そして、さらにその先の雨の中には――


(は? オレ?)


 黒い靄に襲われてる、守自身の姿があった。

「大丈夫か?」

 守の口が開いた。

「あんた、丹下(あかもと)の……」

「よく憶えていたな、武志。とにかく、行くぞ」

「待てよ、あいつはいいのか?」

 慌てる武志に、守は言った。

「アレぐらいなら、一人でも何とかなる」

「でも――」

「アレを何とかできないようなら、『守霊(しゅれい)』を継ぐ資格はない」



「あ……」

「どうだ?」

 呆然とする守に、女が訊いた。

「あ、あそこに、親父がいたのか? 維名を連れて行ったのは……親父?」

「気の毒だったな。おまえの父は正妻の子のおまえより、愛人の子の武志のほうが大切らしい」

 そう言って、女がニヤリと笑う。

「バカな……」

「信じぬのか。ならば、もう一つ見せてやろう。これこそが、おまえが一番知りたがっていたこと。最後の真実だ」



 杉の木立に囲まれた(やしろ)の、駅に近いほうの階段に子供たちがたむろっていた。

 亮二と和昭の間に挟まるように、武志がいる。

 そして、後ろ向きの学生服は――

 十四歳の、守だった。

 賑やかに騒ぐ子供たち。

 だが、それとは対照的に空は暗く蔭っていった。

 回りの土手に覗く、ゴツゴツとした無数の木の根。

 それが、油断している彼らを、今にも絡め取らんとしているようにも見える。

 そこへ先程まで隣にいた人民服の女が近づいて行った。

 女が何かを話し掛け、子供たちは皆、互いの顔を見合わせた。

 戸惑っている。

 その時、一人が動いた。

 武志がスッと前に歩み出て、女と石段を登って行く。

 残された三人は、石段の途中で背を伸ばし、遠巻きに様子を窺っていた。

 が――

 いくらもしないうちに散会した。

 空が光って雷鳴が轟く。

 雨の雫が一滴頬に当たる。

「降ってきたな」

 言いながらも、守は自分の制服の後ろ姿を見送っている。

 見えなくなるのを待って、急な石段に足を掛けた。


 聳え立つ杉の木立に囲まれた社の階段に、武志と黄珪沙(こうけいさ)が座っていた。

 二人は守を認めて、立ち上がる。

「『守霊(しゅれい)』」

 珪沙が中国語で守に話し掛けてきた。

「『魂庭(こんてい)師姐(ししゃ)

 守も中国語で応える。

「武志が元気そうで何よりです。これも、あなたのお蔭ですね」

「いえ、そんなことは」

 守は謙遜し、武志に向き直って日本語で話し始めた。

「武志。これから、このおばさんと中国へ行くんだ」

「中国?」

「蒼が、長春(ちょうしゅん)で待っている」

「丹下のおじさん。父はもう死んでいます」

「いや、生きているんだ」

 武志は、守をじっと見つめた。

 まだ成長し切っていない中性的なその顔は、やはり育によく似ている。

「荷物は、辰矢に頼んで送って貰うから、今直ぐ行くといい」

 守は、コートの内ポケットから赤い表紙のパスポートと航空券を取り出し、当面の着替えだと言ってスポーツバッグを手渡した。

 その時、不意に、珪沙の顔が険しくなった。

 同時に守が後ろを振り返る。

 二人は瞬時にその場の状況を把握すると、顔を見合わせて頷き合う。

「急ぐんだ。ここは俺が何とかする」



「そ、そんな……」

 守は絶句した。

 藍の女が「気の毒だな」と言うと、守の顔が大きく歪む。


「ほ、本当に、親父が……?」


「今、見た通りだ。偽りはない。だが、気になるのなら本人に確認すればいい」

「え……」

「『お父さん、本当なの?』とな」

 惨めな声音(こわね)のその後に続く、耳を聾するばかりの哄笑が狭い室内に満ちていく。


「ふざけるな!」


 負けじと繰り出された、守の右の拳が、鋭い音を立てて空を切った。

 続けて出されたのは後ろ蹴り。

 藍色の闇の女は、その風圧で霧散した。



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