止念 8
「そして、あそこへ行ったのですね」
目の前の男は、相変わらず薄い唇に柔和な笑みを浮かべていた。
「はい。タクシーに乗った時には、まだ青い空が見えていました」
守と武志は出かける前に、留学生用の食堂で遅い昼食を簡単に済ませた。街中のレストランよりも香辛料が控えめで、味が日本人向けになっているからだ。八角と紹興酒の味と匂いに少々辟易していた守には、武志のこの気遣いは実にありがたいことだった。
早々に食事を終えた二人は、校門の前でタクシーを拾った。
信号のほとんどない郊外の道は空いていて、疎らな建物と豊かな緑が次々と窓の外を流れていく。この調子でいけば、目的の花鳥市場には十分ほどで着くだろう。
ところが――
快調に走っていたはずの車が、何の前触れもなく急に止まった。
「着いたのか?」
守が訊く。武志が運転手に話しかけた。
会話は中国語で交わされている。話の内容は解らなかったが、武志の表情から、着いたわけではないことは察せられた。それどころか、状況もあまり芳しくはないようで、やがて運転手は一つの単語を繰り返すようになった。
諦めた武志が守の方を振り返る。
「どうしたんだよ?」
「どうも、ここから先は行けないらしい」
二人は仕方なくタクシーを降りる。
片側二車線の広い道路には、大学の構内でも見かけた水溜まりがそこかしこにできている。
そして――
行く先には、背の高い街路樹の枝が、辺り一面に散らばっていた。
散乱する枝は、枯れ木もあれば青々と茂って大きな葉を付けたものもある。
葉を付けたものは、無理やり毟り取られたのだろう、引き剥がされた裂け目の白さが生々しい。
さらに二人が先へ進むと、一抱え以上はあろうかと思われる大木が、傾いたり、根こそぎ倒れたりして、これでもかとばかりに行く手を阻んでいた。
昨夜の雨の窓を打つ勢いが凄かった記憶は守にもある。だからと言ってここまで酷い状況になっているなどとは、とうてい考えられるものではない。
(昔の建物って、凄いんだな……)
守はこの場にそぐわない、宿泊先のホテルに対する感想を心の中に捩じ込んだ。
「やっぱ、これじゃあ、車は通れないな」
武志が頷いたのと同時に、守の額に生温い水滴が当たった。
「降ってきたな。急ごう」
武志が守の先に立ち、歩き始めた。水溜まりと横たわる木を避けながら、足早に進んでいく。しばらく行くと街路樹が終わり、大きく視界が開けた。草ばかりで何もない広い空間の真ん中に、ポツリと色鮮やかな中華式の門が浮かび上がる。
「たぶん、アレだ」
武志がまだ小さくしか見えない門を指差した。
赤、青、白、黄色、緑、黒。
様々な原色に彩られた門の先には、広く真っ直ぐな道が伸びていた。その左右には石畳の広場と、間口が同じ大きさの店がたくさん軒を連ねている。雨が降りだしたのに明るく見えるのは、ここがまだ新しいからだろう。だが長屋式に並ぶ店の、半分以上のシャッターが閉まっていた。辺りに人の気配はなく、オープン前のテーマパークのように閑散としている。
「出直すか?」
「いや。せっかくだから見てこうぜ」
守は、開いている一番近くの店に向かって走り出した。
守が最初に飛び込んだのは、店先に大きな水槽が何本も並ぶ熱帯魚屋だった。
大きな水槽の中には、目だけでも五百円硬貨もありそうな巨大な魚が悠然と泳いでいる。
「アジアアロワナだ。最近中国では、富の象徴として熱帯魚を飼うのが流行ってるらしい」
守の後ろから、武志の説明が聞こえてきた。
ライトに照らされ赤金に輝くアロワナは、血紅龍という人気の高い種類だという。確かに宝石のようにキラキラ輝く赤い鱗や、狭い水槽の中を体を器用にくねらせ方向転換するさまは、『龍』と呼ばれるのにふさわしいほど優雅で美しい。
守が店の中を見学しているうちに、武志はすでに店の外へ出ていた。守も武志に続いて熱帯魚屋を後にする。
さらに二人は、他の開いている店へと足を向けた。
植木や石などのガーデニング用品に、急須や扇子、模造剣や模造刀を置いている土産物屋。同じような商品を置く何軒かの店を覗いた後で、守は不思議に思ったことがあった。どこの店を覗いても店番をしている人の姿がいないのだ。
守は武志に意見を求めようとして止めた。よく考えれば、客も来ないこんな雨の日に、店番をしているほうがおかしいのだ。
小雨が降り続く中、守と武志はさらにいくつかの店を回った。何軒目かに、鳥やコオロギ、ミドリガメなどを売っているペットショップを見つけたが、その店のどこにも、ちびマルのように変わったカメはいなかった。
それでも、守は何を見ても珍しそうに興味を持った。場所が変わったせいもあるのだろう、普段見知っている物さえも新鮮に見える。特に彼を喜ばせたのは、様々な色と鳴き声の鳥たちだった。
「おまえのカメも可愛いけど、やっぱりオレは鳥のほうが好きだな」
守は子供の頃に怪我をしたスズメの世話をしたことがあった。怪我が治って外に放すと、それはすぐには飛び立たず、チュンチュンとしばらく守の回りを飛び跳ねて、意を決したように一瞬で天高く舞い上がった。
青い空を飛んでいく姿が、守の脳裏に蘇っていた。
ペットショップを離れ、無邪気にはしゃいでいる守の後を、武志は黙って付いて来る。ここに着いてから口数が少なくなり、話しかけても答えないことがあった。
気に障ることでもしたのか、と軒下を渡りながら守は自分の行動を思い起こす。
すると出し抜けに武志が近づいて来た。一瞬身構えたその刹那、暗く蔭った鼠色の空から大粒の雨が落ちてきた。
「丹下、こっちだ」
開いている一番近い店に駆け込め、と武志が親指で自分の後ろを指し示す。
武志に言われて入ったのは土産物を扱っている店だった。珍しく人の良さそうな老人が店番をしていて、上海特産の紫砂で作られた、急須の入った陳列ケースの向こうから、守たちにイスを勧めてくれている。
「謝々(シェシェ)」
守が拙い中国語で謝意を示すと、途端に男の顔が皺だらけになった。
守は、以前父から『謝々』を『シェイシェイ』と発音するのは間違いだと聞いていた。最もそれっぽく聞こえるのは『シエシエ』を早く言うことらしい。『シェイシェイ』では『誰? 誰?』と訊ねているように聞こえるから、最悪『我』と答えられても、文句を言うな、とまで父は言った。
そんなことを言われていたせいもあって、守はまず自分の言葉が通じたことに、小さな感動を覚えた。守が今まで話したこの国の人たちは、拙いながらも日本語が話せるか、誰かの通訳を介してで、守が直接話をしたのはこれが初めてだった。
だが、ホッとしたのは言葉の問題だけではない。優しげな店主の笑顔は、オーストラリアにいる母方の祖父を思い出す。
守は店主の勧めに従って腰を下ろし、そのまま雨が止むのを待つことにした。
「なあ、何か、寒くないか?」
口を開いたのは守だった。音を立てて降る雨を見ていた武志が、守の方を見て、ほんの少しだけ右眉を上げた。
「タクシーを降りた辺りから感じんだよ。何かさ、ヤな感じだ」
「嫌な感じ?」
眉をひそめ、武志が守を凝視する。
武志の目は、守の奥深くから何かを引きずり出そうとする者のそれだった。不躾な視線に、守は何故か動けなくなる。抵抗できない守は、仕方なく自分のできる唯一のことをした。目を逸らして視線だけ武志から外したのだ。
やがて戒めが解けたように感じて武志を見ると、武志はすでに、暗い外へと顔を向けていた。激しい雨のその先に、何か答えがあるかのように、目を凝らしてジッと見つめている。
(ん?)
守は、集中する武志の目に不思議な炎が燃え立つのを見た。
赤みのある、黒い瞳の中に燃える黒い炎。
と――
雨が止みそうなほど弱くなった。
だが、すぐに激しさを増す。
ザザザザザ――――
突発的な風に辺りがざわめいた。
「だめ、か……」
武志の口からため息が漏れた。
その刹那――
痛みを感じるほどの激しいバイブレーション。
守の体に痺れが広がり、
「打気!」
と、武志が叫んだ。
やっと最初に繋がりました。
時系列は、
止念8→止念1→止念9
になります。




