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そらつかい『虚』  作者: カルヰアオ
第一章 止念(考えない)
8/99

止念 8

「そして、あそこへ行ったのですね」

 目の前の男は、相変わらず薄い唇に柔和な笑みを浮かべていた。

「はい。タクシーに乗った時には、まだ青い空が見えていました」



 (まもる)武志(たけし)は出かける前に、留学生用の食堂で遅い昼食を簡単に済ませた。街中のレストランよりも香辛料が控えめで、味が日本人向けになっているからだ。八角と紹興酒(しょうこうしゅ)の味と匂いに少々辟易していた守には、武志のこの気遣いは実にありがたいことだった。

 早々に食事を終えた二人は、校門の前でタクシーを拾った。

 信号のほとんどない郊外の道は()いていて、疎らな建物と豊かな緑が次々と窓の外を流れていく。この調子でいけば、目的の花鳥市場には十分ほどで着くだろう。

 ところが――

 快調に走っていたはずの車が、何の前触れもなく急に止まった。

「着いたのか?」

 守が訊く。武志が運転手に話しかけた。

 会話は中国語で交わされている。話の内容は解らなかったが、武志の表情から、着いたわけではないことは察せられた。それどころか、状況もあまり芳しくはないようで、やがて運転手は一つの単語を繰り返すようになった。

 諦めた武志が守の方を振り返る。

「どうしたんだよ?」

「どうも、ここから先は行けないらしい」

 二人は仕方なくタクシーを降りる。

 片側二車線の広い道路には、大学の構内でも見かけた水溜まりがそこかしこにできている。

 そして――

 行く先には、背の高い街路樹の枝が、辺り一面に散らばっていた。

 散乱する枝は、枯れ木もあれば青々と茂って大きな葉を付けたものもある。

 葉を付けたものは、無理やり(むし)り取られたのだろう、引き剥がされた裂け目の白さが生々しい。

 さらに二人が先へ進むと、一抱え以上はあろうかと思われる大木が、傾いたり、根こそぎ倒れたりして、これでもかとばかりに行く手を阻んでいた。

 昨夜の雨の窓を打つ勢いが凄かった記憶は守にもある。だからと言ってここまで酷い状況になっているなどとは、とうてい考えられるものではない。

(昔の建物って、凄いんだな……)

 守はこの場にそぐわない、宿泊先のホテルに対する感想を心の中に捩じ込んだ。

「やっぱ、これじゃあ、車は通れないな」

 武志が頷いたのと同時に、守の額に生温い水滴が当たった。

「降ってきたな。急ごう」

 武志が守の先に立ち、歩き始めた。水溜まりと横たわる木を避けながら、足早に進んでいく。しばらく行くと街路樹が終わり、大きく視界が開けた。草ばかりで何もない広い空間の真ん中に、ポツリと色鮮やかな中華式の門が浮かび上がる。

「たぶん、アレだ」

 武志がまだ小さくしか見えない門を指差した。


 赤、青、白、黄色、緑、黒。

 様々な原色に彩られた門の先には、広く真っ直ぐな道が伸びていた。その左右には石畳の広場と、間口が同じ大きさの店がたくさん軒を連ねている。雨が降りだしたのに明るく見えるのは、ここがまだ新しいからだろう。だが長屋式に並ぶ店の、半分以上のシャッターが閉まっていた。辺りに人の気配はなく、オープン前のテーマパークのように閑散としている。

「出直すか?」

「いや。せっかくだから見てこうぜ」

 守は、開いている一番近くの店に向かって走り出した。


 守が最初に飛び込んだのは、店先に大きな水槽が何本も並ぶ熱帯魚屋だった。

 大きな水槽の中には、目だけでも五百円硬貨もありそうな巨大な魚が悠然と泳いでいる。

「アジアアロワナだ。最近中国では、富の象徴として熱帯魚を飼うのが流行ってるらしい」

 守の後ろから、武志の説明が聞こえてきた。

 ライトに照らされ赤金に輝くアロワナは、血紅龍(けっこうりゅう)という人気の高い種類だという。確かに宝石のようにキラキラ輝く赤い鱗や、狭い水槽の中を体を器用にくねらせ方向転換するさまは、『龍』と呼ばれるのにふさわしいほど優雅で美しい。

 守が店の中を見学しているうちに、武志はすでに店の外へ出ていた。守も武志に続いて熱帯魚屋を後にする。

 さらに二人は、他の開いている店へと足を向けた。


 植木や石などのガーデニング用品に、急須(きゅうす)や扇子、模造剣や模造刀を置いている土産物屋。同じような商品を置く何軒かの店を覗いた後で、守は不思議に思ったことがあった。どこの店を覗いても店番をしている人の姿がいないのだ。

 守は武志に意見を求めようとして止めた。よく考えれば、客も来ないこんな雨の日に、店番をしているほうがおかしいのだ。

 小雨が降り続く中、守と武志はさらにいくつかの店を回った。何軒目かに、鳥やコオロギ、ミドリガメなどを売っているペットショップを見つけたが、その店のどこにも、ちびマルのように変わったカメはいなかった。

 それでも、守は何を見ても珍しそうに興味を持った。場所が変わったせいもあるのだろう、普段見知っている物さえも新鮮に見える。特に彼を喜ばせたのは、様々な色と鳴き声の鳥たちだった。

「おまえのカメも可愛いけど、やっぱりオレは鳥のほうが好きだな」

 守は子供の頃に怪我をしたスズメの世話をしたことがあった。怪我が治って外に放すと、それはすぐには飛び立たず、チュンチュンとしばらく守の回りを飛び跳ねて、意を決したように一瞬で天高く舞い上がった。

 青い空を飛んでいく姿が、守の脳裏に蘇っていた。


 ペットショップを離れ、無邪気にはしゃいでいる守の後を、武志は黙って付いて来る。ここに着いてから口数が少なくなり、話しかけても答えないことがあった。

 気に障ることでもしたのか、と軒下を渡りながら守は自分の行動を思い起こす。

 すると出し抜けに武志が近づいて来た。一瞬身構えたその刹那、暗く蔭った鼠色の空から大粒の雨が落ちてきた。

「丹下、こっちだ」

 開いている一番近い店に駆け込め、と武志が親指で自分の後ろを指し示す。

 武志に言われて入ったのは土産物を扱っている店だった。珍しく人の良さそうな老人が店番をしていて、上海特産の紫砂(しさ)で作られた、急須の入った陳列ケースの向こうから、守たちにイスを勧めてくれている。

「謝々(シェシェ)」

 守が拙い中国語で謝意を示すと、途端に男の顔が皺だらけになった。

 守は、以前父から『謝々』を『シェイシェイ』と発音するのは間違いだと聞いていた。最もそれっぽく聞こえるのは『シエシエ』を早く言うことらしい。『シェイシェイ』では『誰? 誰?』と訊ねているように聞こえるから、最悪『(わたし)』と答えられても、文句を言うな、とまで父は言った。

 そんなことを言われていたせいもあって、守はまず自分の言葉が通じたことに、小さな感動を覚えた。守が今まで話したこの国の人たちは、(つたな)いながらも日本語が話せるか、誰かの通訳を介してで、守が直接話をしたのはこれが初めてだった。

 だが、ホッとしたのは言葉の問題だけではない。優しげな店主の笑顔は、オーストラリアにいる母方の祖父を思い出す。

 守は店主の勧めに従って腰を下ろし、そのまま雨が止むのを待つことにした。


「なあ、何か、寒くないか?」

 口を開いたのは守だった。音を立てて降る雨を見ていた武志が、守の方を見て、ほんの少しだけ右眉を上げた。

「タクシーを降りた辺りから感じんだよ。何かさ、ヤな感じだ」

「嫌な感じ?」

 眉をひそめ、武志が守を凝視する。

 武志の目は、守の奥深くから何かを引きずり出そうとする者のそれだった。不躾な視線に、守は何故か動けなくなる。抵抗できない守は、仕方なく自分のできる唯一のことをした。目を逸らして視線だけ武志から外したのだ。

 やがて戒めが解けたように感じて武志を見ると、武志はすでに、暗い外へと顔を向けていた。激しい雨のその先に、何か答えがあるかのように、目を凝らしてジッと見つめている。

(ん?)

 守は、集中する武志の目に不思議な炎が燃え立つのを見た。

 赤みのある、黒い瞳の中に燃える黒い炎。

 と――

 雨が止みそうなほど弱くなった。

 だが、すぐに激しさを増す。

 ザザザザザ――――

 突発的な風に辺りがざわめいた。

「だめ、か……」

 武志の口からため息が漏れた。

 その刹那――

 痛みを感じるほどの激しいバイブレーション。

 守の体に痺れが広がり、

打気(ターチー)!」

 と、武志が叫んだ。


やっと最初に繋がりました。

時系列は、

止念8→止念1→止念9

になります。


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