止念 7
*ダメ、絶対!
危険です。カメの顔の前に手指を出さないでください。
歯はありませんが、クチバシが鋭いので噛まれるとケガをします。
絶対に頭は撫でないようにしてください。
「それからオレたちは、寮のあいつの部屋に行きました」
練功を終えた武志は、気が進まぬという素振りを隠そうともせず、守を留学生楼にある自分の部屋へ案内した。留学生楼とは、留学生専用の寮のことだった。
道すがら、武志は国術大学の『国術』とは、中国武術のことだけでなく、中国独自の様々な伝統文化のことだと話した。つまり書画や篆刻、古典劇なども国術だと言うのだ。国術大学とは、それらを学ぶことのできる、中国唯一の総合芸術大学だった。
「芸? 武術が、か?」
「日本でも、武芸って言うだろう」
「あっ、そっか」
武志曰く、もともと『芸(藝)』の本義は『種植』、いわゆる『作物を植えつける』の意で、『芸』とは、優れた『種植』技術のことを指していたという。それが転じ、他の優秀な技術や技能をも『芸』と呼ぶようになったらしい。
「ふ~ん。なら、技術に裏打ちされてないのは、『芸』じゃないんだ」
「そうだ」
そんなことを話しているうちに、留学生楼に行き着いた。玄関ホールには売店があり、中年の男が一人、新聞を読みながら店番をしている。守は売ってるものに興味があったが、止める間もなく武志は奥へと突き進んだ。進む先には階段があるが、そこに行き着く前に左に折れる。どうやら、隣に設置されている小型のエレベーターに乗るつもりらしい。
エレベーターを待つ間、武志は、最後に自分が行ったのは、『北腿』ともいわれる、足技中心の北派伝統拳の中でも、さらに足技主体の『戳脚』という武術なのだと話した。
授業が終わった後、武志が守に見せた套路は、跳んだり、跳ねたり、走り回ったりという大仰な派手さがある長拳とは違い、豊富な歩法と一定の高さを保ちつつ、何種類もの蹴りを出しながら素早く移動するという、かなり実戦的で実用的な印象のものだった。
また戳脚の腿法の一つ玉環歩鴛鴦脚は、中国四大奇書『水滸伝』の第二十九回、蒋門神の件で、虎退治で有名な武松が蒋忠を倒した技なのだという。
「『鴛鴦』ってさ、『陰陽』のスラングなんだよな」
守は、母が言っていたちょっとした豆知識を思い出していた。
「確かに陰陽相済の意味もあるが、前の手と足を後ろに蹴り上げた形がオシドリに似ているからという説もある」
「ふ~ん」
オシドリに似ているかどうかは、守には判らなかった。だが背中を反らし、後方に撥ね上げるようにして出す蹴りには、緻密な華麗さがあった。それは、鮮やかな色彩の、オスのオシドリの姿を想起させないこともない。
「つか、『いんようそうさい』って何? 『柔よく剛を制す』みたいなもんか?」
守の問いに「違う」と武志。だがその語気の中に、無知な者を見下すような嫌な感じは含まれていなかった。
「日本語だと読みが同じだから間違いやすいけど、この場合の『そうさい』は、『チャラにする』『相殺』じゃなくて『救いあう』意味の『相済』だ。陰陽相済、剛柔相済とくれば、陰陽や剛柔という一見相反するものが、『互いに協力しあう』ぐらいの意味になる」
「ふ~ん」
武志の説明にいったん納得はしたものの、何故対立するもの同士が協力しあうのか、守にはよく解らなかった。
それに――
守は微妙な敗北感を覚えていた。
知識の面でもそうなのだが、それ以上に実際に遣り合った場合、今の武志と戦って、勝てる自分、というものを守は想像できなかった。
守の方が上背がある分、リーチや足の長さは長かったし、体重もあるから、突きや蹴りも重いはずだ。
客観的に見ても、勝てる要素はたくさんあった。
だのに、勝てる気がしないのだ。
もちろん、表演と実戦は違うのだが――
(あのスピードに、オレは付いて行けるのか?)
エレベーターが五階に着くと、扉が開いて、守の耳に英語の話し声が飛び込んできた。どうやら階段脇に設置された公衆電話から、英語圏の留学生が故郷へ電話をしているらしい。涙混じりの英語を背に、武志はエレベーターの斜向かいにある、自分の部屋のカギを開けた。そしてゆっくりと開いていく。
武志の部屋は思った以上に広かった。六畳一間の守のアパートより広い空間の、縦長の一辺に、シングルベッドに勉強机、本や雑貨が置かれた棚とロッカーダンスが並んでいる。空いた場所には、西洋風の小さめの丸テーブルと丸イスが二脚、向かい合わせに置いてあった。
「普通は二人で使うんだ」
引き揚げ式の窓を開けながら、武志が小さな声でボソリと言った。
「でも、金を出せば一人部屋にしてもらえる」
「ふ~ん。おまえ、昔から人嫌いだもんな」
武志は、棚から白地に青い蔓草模様のマグカップを二客取り出した。蓋を外し、それぞれに鉄観音と書かれた黒い缶から無造作に茶葉を放り込む。
「急須、使わないのが中国流だよな」
守の実家でも、耐熱ガラスのコップに茶葉を入れ、父が中国茶を飲んでいた。
「使わないことはないが、普段、自分で飲むならこんな感じだ。少し蒸らしてから蓋や息でお茶の葉を避けながら飲むんだ」
「えっ、蒸らすのか? うちの親父は蒸らしてないぞ」
「『龍井』だろう。それは緑茶だからだ。『鉄観音』は、青茶だからな」
「青茶?」
中国茶は発酵の度合いで、緑茶、白茶、黄茶、青茶、紅茶、黒茶の六種類に分かれ、それぞれ及ぼす作用が違うという。
「で、緑茶以外は蒸らすんだ」
「緑茶も物によってじゃないのか。ただ、龍井は蒸らさない方がいいらしい。蓋をすると色が変わる」
「色?」
「水色――茶の色だ。けど……」
「え?」
「いや、何でもない」
武志は、お湯を注いで蓋をしたカップを守の目の前にトンと置いた。
守は言われたとおりにじっと待つ。
武志が何を言おうとしたのか気になったが、あえて守は訊かずにいた。ここで下手に突っ突いて、またしゃべらなくなっても気不味いだけだ。皓華がいつ帰ってくるのか判らない今、できるだけ穏便に過ごしたい。
しばらく待って蓋を開けると、仄かな芳香が立ち昇った。武志の言うようにやってみるが、なかなか上手く飲むことができない。
「何でここにいる?」
茶葉と格闘している守に、武志が訊いてきた。
(それは、オレの台詞だろうが……)
守は自分にその質問をさせずに訊いてくる、武志の無神経さに腹が立った。ついさっき『穏便に』と思った想いに、胸が焼けるような『痛み』が上書きされる。
「話したら、長くなるぜ……」
怒りを滲ませる守に、「簡単に済ませろ」と武志は無理な要求をした。
(勝手なヤツだ)
守は無性に腹が立って、言われたとおり本当に簡単に済ませることにした。
「オレは旅行できた。秋さんは、こっちで紹介された」
「誰に?」
「えっ?」
「誰に、皓華を紹介されたんだ?」
「えっと、『夏芽』って女の人だ。変わった名字だったけど……あれ? 何だっけかな――」
何か必要なものだったことと、絶対に忘れないと豪語したことは思い出せたが、そこまでだった。守が武志に視線を戻すと、すでに興味をなくしたようで、床の隅へと目を向けていた。長い前髪が目にかかり、ただでさえ判りにくい表情がさらに読めなくなっている。
その時、ゴトン、と硬い物が床に打ちつけられるような音がした。
「な、何だ?」
音がする方に視線を移す。さきほどから武志が見つめていた床の隅だった。
「……カ、カメェ?」
手の平に載るほどの大きさのカメが、首を伸ばしこちらをじっと伺っている。
驚いた瞬間、守の体が無意識に動いてイスがガタリと鳴った。子ガメはシュッと音を立て、頭と尻尾と小さな手足を引っ込めた。その勢いで腹側の甲羅が引っ張られ、艶のある、黒にも見える焦げ茶色の背甲にぴたりと付く。
「お、おい! 閉まったぞ、あいつ!」
「ああ。ハコガメだからな」
思いきり指差す守に、武志は淡々と答えた。
「ハコガメ?」
「腹側の甲羅の前と後ろに蝶番みたいな部分があって、それが動いて背中の甲羅にくっつくようになってるんだ。横から見ると上が平らな六角形になる」
「そっか、完全に閉じるから箱亀なのか。おもしれぇー」
固く結ばれていた武志の口許が、ほんの少しだけ緩んだ。途端に、周りの空気が一変し、ハコガメの甲羅が少しずつ開き始める。
「触っていいか?」
武志の返事を待ってから守はそっと近づいた。手の平にカメを載せると、わずかに開いていた甲羅が、中の筋肉に引っ張られ、再びしっかりと閉じるのが見えた。
「すっげぇ!」
自然の神秘を目の当たりにして、守は驚きの声を上げる。
「こんなヤツ、初めて見るぞ。日本にはいないんだろ?」
「いる。西表と石垣に。でも日本のセマルハコガメは、天然記念物だから飼うことはできない」
「へえ、天然記念物かぁ」
「でも、こいつは中国の安徽省で捕獲された奴だから――」
守がまじまじと見つめていると、再び少しずつカメの甲羅が開き始めた。小心者のカメを驚かさないよう、今度は細心の注意を払って見守っている。
それは、武志に対しても同じだった。
このカメのこととなると武志はずいぶん饒舌だ。いや、体育館からここに来るまでもいろいろなことを話していた。武志は無口、という印象が強い守には、それがとても不思議だった。
だがそんなことはどうでもいい。人は変わるもの。武志が守の前から消えてから五年の月日が経っている。変わっていて当然だろう。
甲羅を開いて手足を伸ばし、首回りの緩んだ肉の隙間から、子ガメは小さな穴が二つ空いた鼻の先を覗かせている。
今しなければならないのは、このカメの甲羅のように、開き始めた武志の心を無用な刺激で閉めさせないことだ。それは、長年考え続けてきた疑問を解き明かす、いいチャンスでもある。
そう、守はずっと考えていたのだ。
武志が、何故いなくなったのかを――
「この辺の奴らは『剋蛇』って呼んでいる」
「こいつを、か?」
守は音だけ真似てみたが、上手く発音することはできなかった。
「どういう字だ?」
「『蛇に剋つ』って書くんだ。たぶん、小さなヘビなら食うんだろうな」
「こいつが、か!」
守は一重の目をこれ以上大きくできないというほど見開いた。子ガメは伸ばしかけた首を守に向け、不思議そうに見つめ返している。
くすんだ鶯色の頭にオレンジ色の頬。その間を分けるように黒い線に縁取られた幅のある黄色の線が、目の後ろから後頭部へ伸びている。その愛嬌のある顔を見る限り、ヘビを襲って食べてしまうほど凶暴には見えなかった。
「中国って、こんな変わったヤツがたくさんいるのか?」
「ああ。日本にいるような奴もいるけど、オオアタマガメとか、見たことない奴の方が多いな。そういうところは、さすが大陸って感じだ」
「じゃあさ、どっかで見れないかなぁ。せっかく来たんだから、話の種に見てみたいぜ」
武志の眉根にシワが寄った。守は一瞬ヒヤリとしたが断られることはなかった。
「そうだな、市街の方なら、専門店があるんだが……」
「専門店? カメだけのか?」
「ああ、一坪ぐらいの小さな店だ。おやじが二人いて、そこで四十年ぐらいやっている、って自慢してたな」
戦後の混乱期は過ぎていたとはいえ、そんな昔から、中国でカメがペットとして売られているのを、守は不思議に思った。すると守の疑問に答えるかのように武志が口を開く。
「漢方薬として使ったんだ。ガンの特効薬らしい」
「はぁあ?」
守は『ガンの特効薬』と言われた子ガメに目を向けた。首を伸ばしきった子ガメは相変わらずキョトンとした顔で守を見ている。守は自分が可愛がっているペットのことを、そんな風に言える、武志の神経が理解できなかった。
「そういえば、もっと近くにできたばかりの花鳥市場があるから、そこなら何かいるのかも……」
守は床に子ガメを戻すと、指の爪ほどの小さな頭をそっと撫でた。カメはほんの少しだけ首を引っ込めたが、されるがままで嫌がる素振りは見せなかった。
「なあ、こいつの名前、何て言うんだよ」
守に聞かれ、武志は少し困ったような顔をした。
そんな顔をする武志を、守は初めて見る。
やがて武志は顔を背け、小さな声で「ちびマル」と答えた。
繰り返します。
*文中に出てくる『国術大学』というのは創作です。
*危険ですので、カメの顔の前に手や指を出さないでください。




