止念 6
環境、機種によっては表示できない第四水準の字を使っているところがあります。
『嗎』:口偏に馬=口馬 です。
「それで、あなた方は公園で朝の練功風景を見学してから、国術大学へ行ったのですね」
「はい。朝食を摂るために一度ホテルに戻ってから、タクシーで行きました。そこで昔の同級生に会ったんです。そいつは中学の時に神隠し……いえ……」
「行方不明になったのですか?」
「そうです」
郊外へ向かうにつれ、道のそこかしこに大きな水溜まりが目につくようになっていった。舗装の仕方が悪いのか、小さな池のような所さえいくつもある。守は夢現の中で、窓ガラスを叩く強い雨音を聞いたことを思い出していた。
未明に激しく降った雨は目を覚ます頃には止んでいた。ところが風はいまだ残っていて、街路樹の大きな枝を揺らし続けている。そんな中、タクシーは後方へ水を飛ばしながら水捌けが悪い道を進んで行った。十分ほどで車は止まり、コンクリート造りのありきたりな校門の前で、守と皓華はタクシーを降りた。
校門の壁面には横書きの金属プレートが埋め込まれている。毛筆体で『上海国術大学』と刻まれていなければ、守はここが日本でないと改めて考えることもなかっただろう。
中国の大学も、日本の大学とそう変わらない。
最初の守の感想はそんなものだった。だが校門の左手、緑の葉を鬱蒼と茂らせた木々の向こうに、芥子色の瓦を載せた、古くて立派な中華風の建物を見た途端、守の認識は一変した。
(やっぱ、ここは日本じゃないんだ……)
改めてそう思い、守は先に歩き出していた皓華の後を追いかけた。
ところどころを水に浸蝕された、アスファルトの道を歩いて行く。道の左右には水を得て蒼々と輝いている芝生と、名も知らぬ広葉樹。その木立の合間から、ときおりあの中華風の建物が垣間見える。少し行くと視界が開け、歴史を経た威風堂々とした姿が、目の前の空間を占拠した。
守は学校ではなく、名も知らぬ観光地に迷い込んでしまったような錯覚を覚えた。広大な土地を有する中国なら、十分にありそうなことだった。
(百年は経ってるのか。いや、もしかするともっと古いのかも――)
「劇、スル」
突然皓華が解説した。皓華の拙い日本語をまとめると、ここは京劇や昆劇などの古典劇を上演する劇場なのだという。
立ち止まり、建造物を仰ぎ見ていた守の腕を、皓華が「コッチ」と引っ張った。
「えっ?」
悠久の歴史の狭間に想いを馳せていた意識が、意外な力によって一気に現実に引き戻される。同時に、『皓華は武術隊の隊員』という夏芽の言葉を思い出した。
(なら、当然なのか……)
何しろ滅多なことではなれないらしい。守にはよく解らないが、『上海市の』ではなく、『国術大学の』というところが凄いのだそうだ。
急かされるまま足早に進んで行く。いきなり先導していた皓華が立ち止まった。守は勢い余ってぶつかりそうになったが、接触する前にとっさに体を捻って横へ飛んだ。一瞬目を見開いた皓華が、すぐに満足そうに大きく頷く。
「武術館」
開けた空間の左右に、鉄筋コンクリート造りの二棟の体育館が見えていた。その片方から、走り回る音や叫ぶ声が聞こえてくる。
「ソッチ、違ウ」
守は、音のする右の棟へ向かおうとして呼び止められた。皓華の身振り手振りを交えた説明によると、この時間、右は京劇科の生徒が立ち回りの練習をしているという。コミカルな演技で有名になったカンフー・スターも、京劇の学校で武術を学んでいたらしい。
守は俄然興味が湧いたが、目を離した隙に皓華はさっさと左棟の玄関へ向かっていた。こんな所ではぐれたら堪らない、と守も急いで後を追う。
気をつけていないと常日頃から鍛えている守でさえ遅れそうになる。
足腰が強いのか。
関節と筋がしなやかなのか。
とにかく体が利かなかったら、あんなに急に止まれないし、動けない。
確かに夏芽が言っていたように、皓華は普通の女子とはわけが違うようだった。
打ちっ放しのコンクリートの薄暗い通路を、皓華は大股で歩いて行った。
その後ろ姿の向こうには、明るい縦長の四角がぽっかりと浮かんでいる。
蛾が光に惹かれるように、皓華は迷いもなくそこへ突き進む。
そして飲み込まれた。
後に続く守も、慌てて光の向こうへ飛び込んだ。
けれど――
光が満ちあふれているはずの空間は、通路から見ていたよりもずっと暗かった。
「コッチ、コッチ」
先に入っていた皓華が隅のベンチの前で手招いている。音を立てないよう足早に近づいて、守は言われた通りに皓華の隣に腰を下ろした。
「練功、観ル好イ。長拳ノ基本功ネ」
体育館には、その半分を使って足を振り上げたり、飛び上がったりしている若者たちがいた。顔立ちや、髪や肌の色には、それぞれに大きな差異が見受けられる。
「留学生。エットォ、法国、俄国、馬来西亜。摩洛哥、美国、尼日利亜」
先生らしき若い中国人が、自分より背の高い、黒人の男に身振り手振りで何かを教えている。次に控える金髪娘は、動作のチェックに余念がない。
守は、ここが別棟の体育館よりもずっと静かなことに気がついた。床に絨毯が張ってあるからだけではないのだろう。留学生の中に、私語をする者がほとんどいないのだ。
金髪娘の次に控えているのは長い黒髪の東洋人。生真面目そうな、アラブ系の男の後ろで順番を待つアメリカ人は、皓華を見つけると軽くウインクした。
「さみあトじむ。朋友」
黒髪の少女が旋風脚で大胆に宙に舞う。と、斜向かいのベンチから声が上がった。中国人の中年の男が二人、口々に指導する教官に何かを言っている。
「アノ人タチ、偉イ先生。見テ、アッチ、別」
皓華は、体育館の北側のもう半分の部分を指差した。向こうでは、中級者が套路の練習をしてるという。
套路とは、練功を効率よく行うために複数の技を組み合わせて作ったもので、体の動きや技の連携、気の運用など、多くのものを一度に体得することができる、空手でいう『型』のようなものだった。
北面では、ショートカットの赤毛の少女が飛んだり跳ねたりしながら、アクロバティックな動きを見せていた。スピード感のある滑らかな動きは、クラッシック・バレエと比べても遜色はない。
「漂亮。デモ、ソレダケダメ。武術、勁、必要ネ」
次に登場したのは守とそう変わらない年頃の、東洋系の男だった。黒いTシャツと黒のスエットパンツで細身の体を包んでいる。
「アノ人、日本人。じむ、『忍者』言ウ」
「へぇ、そう呼んでるんだ」
皓華が重々しく頷いた。
「さみあ、『ごろつき』言ウ」
「え? 何で『ゴロツキ』なのさ」
「シッ」
皓華が唇に指を一本立てたのと同時に、男が動き始めた。ゆっくりだったスピードが少しずつ上がって行く。
「見テ、本物。アレガ功夫ネ」
確かに前の少女に比べると動きはずっと武骨だった。軽やかな美しさは彼女にはとうてい及ばない。けれど皓華が言うように、その動きは速いだけでなく力強く、はるかに武術らしかった。そして、あれほど動いていたにもかかわらず、終わった後も不思議なほど息の乱れがみられない。
「『気』、一緒ニ動ク。疲レナイ」
皓華は急に立ち上がり、今終わったばかりの若い男に向かって歩き出した。
守も慌てて後を追う。
皓華が中国語で声をかけると、男がゆっくり振り向いた。
背の高さは皓華と同じぐらい。日本男子の平均身長で、痩せては見えるが筋肉質でしなやかな体は、肩が落ち、全身がバランスよく協調している。
おそらく痩せて見えるのは、思った以上に胸筋が付いていないからだろう。
空手を習い始めた頃、守が懸命に腕立て伏せをしていると、必要以上に胸に筋肉を付けるな、と父に言われたことがあった。背筋をしっかり固めたうえで胸筋まで付けると、胸腔内が狭くなって心肺機能が落ちるという。
(なら、息が乱れていないのは、その理由も大きいのか――)
守が二人に意識を戻す。
と、皓華が振り返った。
男も釣られて守を見る。
長い前髪から覗く目が細められ、鋭い光を放っている。
何だか酷く感じが悪い。
けれど――
この感じの悪さには覚えがあった。
気のない男を無理やり守の方に押し出して、皓華はいきなり紹介を始めた。
「タケシ、ネ。エットォ」
早口の中国語で話す皓華に、『タケシ』と紹介された男は、ボソリと自分の名字を名乗る。それは、守の頭の中に浮かんでいたものと完全に一致した。
「維名武志か。オレは――」
「丹下」
陰気な男は、守の方を見ずに言った。
(やっぱり、維名なんだ……)
武志は守の同級生で、中二の秋の中間試験が終わった後に突然いなくなり、それきり帰ってこなかった奴だ。
「何? 知テル?」
理由も判らずキョトンとしている皓華に、何も言わない武志に代わって守が日本語で説明する。武志はその様子を見ているだけで、一言も口を挟もうとはしなかった。ちゃんと意味が通じているか不安な守だったが、皓華は大きく目を開いて「是嗎!」と感嘆の声を上げた。
「朋友!」
(友達とはちょっと違うんだけど……)
守は心の中で首を捻る。だが無邪気に喜ぶ皓華を見ていると、無下に否定することもできなかった。
武志は相変わらず沈黙している。
その時「秋小姐」と『偉い先生』の一人が皓華を呼んだ。「チョト、待テテ」と言い置いて皓華は足早に去って行く。
突然、守は武志と二人きりになった。
しばらく沈黙が続いた後、耐えきれなかった守が「おまえ……」と声を発した。だがその後に続く、何でここにいるんだ、という問いを訊くことはできなかった。
厳しい武志の表情が、明らかにその質問を拒否している。
(卑怯なヤツだ)
守は、表情だけで自分を黙らせた武志に腹を立てた。
(狡いんだ。昔からそうだ。訊きたいことは山ほどあるのに――)
だが言葉だけでなく、守は自分の想いも飲み込んだ。消化不良の脂身が胃の中に残っているような、痛みを伴ったイヤな不快感がある。
その『痛み』に絶えきれなくなる前に、皓華は戻ってきた。
そしていとも簡単に、急用ができた、と告げたのだ。
守を武志に押しつけて、皓華は薄暗がりの通路へ消えて行った。『酔拳』の主人公の得意技、無影脚に匹敵するほどの早業だった。
「あ……」
「………」
呆気にとられる守。
だが残されて呆然としているのは、守だけではない。
気づいて少しだけ留飲が下がった守は、体育館の片隅で大人しく、武志の練功が終わるのを待つことにした。
文中に出てくる『国術大学』というのは創作です。
そんな大学はないです。たぶん。




