表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
そらつかい『虚』  作者: カルヰアオ
第一章 止念(考えない)
5/99

止念 5

環境、機種によっては表示できない第四水準の字を使っているところがあります。

『嘿』:口偏に黑(黒の旧字)=口黑 です。

「それで市内を回ってから、ホテルに入ったのですね」

「はい。低層の別棟(べつむね)でガイドさんが手続きをしてくれて、古い大きな建物に連れていかれました」



 白大理石のあまり広くないエントランスを抜けると、金色(こがねいろ)に輝くエレベーター・ホールが出現した。団体客と別れた(まもる)は、四機あるエレベーターの一つで五階まで上がった。近くにある服務台(ふくむだい)服務員(従業員)に声をかけメモを渡す。服務台とは中国特有のシステムで、各階にある小さなフロントのようなものだった。

 カギを手にした服務員は、無表情のまま守の先を歩いて行った。二度折れて廊下の端に突き当たると、一番奥にある焦げ茶色の扉のカギを開け、内側に大きく開いて道を譲った。

 目の前に開けた空間は、普通のホテルのツインルームに比べると倍以上の広さだった。入ってすぐの所、幾重にも厚く塗られた白い壁際に、光沢のある丸テーブルが置かれている。その奥の小さなカウンター・バーにはミニボトルが並び、その左側にはクイーンサイズのベッドが二台、真四角に近い部屋の半分を占拠するように並んでいた。

 左に目を転じれば、奥のベッドの足下に飴色のニスを塗り重ねた、アンティークの大きなディスクセットが。その向こうには、灰緑色の分厚いカーテンがかかった窓があり、小振りの窓には凝ったデザインの窓格子が嵌めてある。

 その鉄製の格子の向こうに、霞んだ上海の街並みが見えていた。


 このホテルは、旧フランス租界(そかい)にあるアパートを改装したものだという。構内のそこかしこに、歴史の重みを感じさせるものが数多く残っていた。長い年月を経たそれらのすべてが、重厚な空間を作り出すのに一役買っている。

 守は、古いものは決して嫌いではなかった。いや、むしろ好んでいたと言っていい。そうでなければイマドキの若者のように、サッカーや野球、バスケットボールといったスポーツに汗を流していただろう。その方が何倍も女子にモテるし、マスコミに取り上げられることだって多い。

 だのに守はあえて空手や古武道、中国武術というものに興味を持った。ただのスポーツよりも伝統を重んじ、精神的な修養が伴っているものが好きだった。

 それは、誰のためでもなく『自分のため』。

 目指しているのは、『遥か天空の先にある大いなる栄光』。

 あれは子供に『蹴り』を教えているところ。

 香港で公開されたもの以外、思いきりカットされていた場面だった。


 守にカギを手渡して、服務員は無表情のまま出て行った。最近はよくなったとはいえ、共産主義国家の中国では、資本主義の国のような愛想やサービスは望めないという。

(まっ、いいか)

 そんなところも中国らしい。

 日本とまったく同じでは、わざわざ旅行に来ている意味もないのだ。

 部屋の中を一通り探索してから、守は香子(きょうこ)の知り合いに電話するため、ボディバッグからパンフレットを引っ張りだした。以前、香子が余白に番号を記して渡してくれたものを、持ってきていたのだ。

 ベッドの端に腰を下ろし、同じ大きさで並ぶ丸いポップな数字をじっと眺めた。その後で余白に記した、夏芽(なつめ)直伝の電話のかけ方を読み、手順を確認する。何を言うかを大まかにまとめた後、意を決して受話器を取った。間違えないよう一つずつ確かめながら番号を押すと、呼び出し音が鳴って繋がった。

「あ――」

 ――の、と第一声を発する前に、けたたましい音が守の耳を貫く。

「ファ、FAX?」

 番号を押し間違えたということだろうか。

 一度受話器を戻してから、守はさっきよりも入念に数字を確認してボタンを押した。やはり結果は同じで、何回かかけ直したが、それが変わることはなかった。

「何だよ……」

 ブチブチ文句を言いながら、守は日本の国番号を確認する。とりあえず、香子に正しい番号を教えてもらわなければならない。

 けれど――

 押そうと手を伸ばしたところで、その指が止まった。

 チラリと料金のことも過ぎったが、それ以上に熱で苦しんでいる香子に電話し、心配させるわけにはいかないと思った。香子はきっと責任を感じ、自責の念に駆られるだろう。そうなれば、治るものも治らなくなる。

 それに――

 香子が大変な時に浮かれていたのは自分なのだ。

 一瞬、『(ばち)』という単語が頭の中に浮かび上がった。


 受話器を戻し、守は深く長くため息をついた。

(にしても、この先どうすれば――)

 改めて考えるが何も思いつかない。為す術もなく、丸いポップな数字をぼんやり眺めていると、見慣れているはずの香子の文字が、印刷されたもののように無機質に見えてくる。

「そういえば……」

 守は周囲を見渡して、一つだけ見落としていた空間に目を向けた。それは、この部屋にふさわしくない、と守の脳が思いきり無視していた場所だった。

 窓際にあるベッドの足側の延長線上。バスルームへ続く扉の横に置かれたチェストの上に、真新しい日本製の大型テレビが鎮座していた。それは香子が書きつけた数字のように、そして異国の地に独り降り立った今の自分のように、この空間にはあってはならないもののように思われた。

 その時――

『何か困ったことがあったら、遠慮しないですぐに電話してね』

 夏芽(なつめ)の声が脳内に響いた。

 守は名刺を取り出して、震える手で番号を押す。呼び出し音が鳴って繋がると、「守くん? 何かあったの?」と、自分を気遣う優しげな声が聞こえてきた。

 ホッと胸を撫で下ろした守は、込み上げてきたものをグッと堪え、泣き言にならないよう注意しながら手短に、今の状況を説明した。電話を切って三十分ほどで、守の部屋のチャイムが鳴った。


 夏芽は取るものもとりあえず、駆けつけてきてくれたようだった。けれど、開口一番その口から出てきたのは、「ごめんなさい」という謝罪の言葉だった。

「え……」

「それがね、ちょっと仕事の方でもトラブルがあって、付いててあげられそうもないのよ」

「あ……そ、そうですよね」

 内心ひどくがっかりしたが、仕事で来てる人間に、遊びに来ている自分の面倒をみさせるわけにはいかない。

「い、いいんです。ホント、気にしないでください」

 何一つ当てもないまま守が言うと、「本当にごめんなさい」と夏芽は重ねて謝罪した。その後で、オレンジピンクの口許がこの状況にそぐわない形に吊り上がり、「でもね」と続ける。

「その代わりと言っては何だけど、知り合いを一人紹介するわ。中国の人だけど、簡単な日本語なら判るのよ。守くんとも歳が近いし、彼女も大学生だから、帰るまでつきあってもらえるようにはしておいたわ」

「はい?」

 この手際のよさは何なのだろう。

 夏芽が秘書として有能ということか。それとも、さすが社会人と言うべきか。

 けれど、守にはそれよりもっと気になることがあった。

 守は夏芽の言葉の『彼女』という部分を聞き逃さなかった。香子にも夏芽にも申し訳ないが、嵐が近づく木々のように、ザワザワと心のどこかがさざめいている。

 食事をしながら話すことになっている、と半ば強引に夏芽は守を連れ出した。


 ホテルの前でタクシーを拾って移動中、守は『彼女』という単語を、反芻する牛のように心の中で繰り返し咀嚼している自分に気がついた。無理にでも香子の顔を思い出し、緩んでいる口許を引き締める。だが、何故かすぐに緩んでしまう。

 守は車を降りる前に、頬を叩いて自分で自分に活を入れた。


色とりどりの光が瞬く中、『歓迎(ファンイン)』と点滅するネオンの下で、その『彼女』は待っていた。すらりとした長身の、健康そうな女性だった。頭が小さく、首がスッと伸び、両の肩が下がって、モデルかと思うほどスタイルがいい。心持ち角張った顎ときびきびした動きが男性的で、女性的な曲線を帯びた小柄な夏芽とは対照的な印象だった。

 夏芽は、『彼女』を秋皓華(しゅうこうか)と紹介した。

「コニチハ」

 皓華がペコリと頭を下げる。と、「夜だから『こんばんは』よ」と夏芽が優しく注意した。皓華は軽く肩を竦め、「嘿々(へへ)」と笑った。

 カッコイイ見た目に比べると意外なほど子供っぽい。

「アタシ、皓華。守、ヨロシクネ」

「こちらこそ」

 席に着き、手早く注文を終えた夏芽が口を開いた。

「皓華はね、国術大学の学生で、国術大学チームのエースなのよ」

「チーム?」

「武術隊よ」

「えっ? ぶ、武術隊?」

「そう。長拳(ちょうけん)の選手なの」

 長拳とは長打を中心とした、北の伝統拳の総称だった。いくつかの流派の武術を組み合わせて作った長拳の套路(とうろ)は、中国武術の中でも最も基本的なものとして多くの人々に学ばれている。寺院が舞台で世界的に大ヒットした映画の主演俳優も、長拳の中国チャンピオンだったという。

「でね、皓華。守くんは、空手の日本チャンピオンなんですって」

「あ、そ、それは、うちの流派だけの――」

 守が全部言い終わらないうちに、皓華は「オオ」と手を打ち合わせた。

「空手、知テル。南拳(なんけん)、南拳」

 皓華が中国語で何かを続けると、夏芽がそれを通訳してくれた。

 南拳とは洪家拳(こうかけん)などの南の伝統拳の総称で、低い姿勢と力を強調した手技(しゅぎ)が特徴の武術だった。そして、空手はその南拳の技を受け継いでいるという。

 皓華の話をまとめると、最初に『剛柔(ごうじゅう)』合わせ持った南方の武術が、沖縄の武術と結びついて沖縄空手になったらしいこと。それがさらに日本の本土に伝わり、今の空手になったこと。その時どういうわけか『(ごう)』の部分だけが強調されて、『(じゅう)』の部分が欠落してしまったこと、などなどだ。

「だから沖縄の空手には、まだ『柔』の部分が残っているはずだ、って皓華は言ってるわ。えっ、何? ああ、そうなの? あのね、もし守くんにその気があるのなら、『最初に南拳をやったらいいんじゃないか』って――」

 すでに『剛』の部分を学んでいるから、取っつきやすいということらしい。


 二時間ほどの会食は、初対面の者同士とは思えないほど盛り上がって終了した。夏芽にホテルまで送ってもらった守は、早々に風呂に入ってベッドに潜り込んだ。明日は朝早くから、皓華と公園へ行く約束になっている。

(何とかなるもんだな)

 アクシデント満載の一日を振り返りながら、守は考えた。

 何とかなるどころか、状況は凄くいい。

 けれど――

(明日からもこう上手くいくとは限らないよな)

 気を引き締めようと、自分で自分に言い聞かす。

「つか、これほどいろんなことが起こる方が変なんだ」

 最後は声に出して呟くと、守は窓の方へと大きく寝返りを打った。


『嘿(口黑)』は、

モク:第四声で[mo]と発音すると『黙』と同じ意味に、

ヘイ:第一声で[hei]と発音すると、笑い声を表す象声詞(擬声語)になるそうです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ