止念 4
「せっかくのご旅行なのに、お友達は、残念でしたね」
男の心からの同情に、守は「はあ……」と気の抜けたような返事を返した。
もちろん含明に話したのは、個人的な内容を最小限にした簡単なものだった。それは信用していないと言うよりも、どちらかと言えば羞恥心からだ。
改めて思い返してみると、自分の不甲斐なさがよく判る。守は女に強く出られると、ついつい流されてしまうようなところがあった。
それは、母然り、香子然り、そして飛行機で隣に乗り合わせたあの女性然り。
「でも、隣の席の人がいい人で、いろいろと親切にしてくれたんです」
「お隣、失礼します」
涼やかな声と共に、ボリュームある胸元が視界に入り込んでくる。
(おっ……)
飛び切り豊かなバストの上には、大きな目の、愛くるしい笑顔が乗っていた。
(わっ……)
守の右隣に座ったのは、スーツ姿の小柄な女性だった。あどけなさが残る笑顔とメリハリボディを、カスタードクリームのような甘くなめらかな雰囲気で包み込んだ、美しいというよりも可愛いらしい感じの美人だった。
今まで周りにいないタイプに興味津々の守だったが、ずっと見ていたい気持ちを振り切って、軽く会釈しただけで前を向いた。
しかし――
何気ない風を装っていても、やはり気にはなる。
守は背中を背もたれにもたせかけると、八方目を使い、不自然にならないよう注意しながら、隣の美人の観察を試みた。
八方目とは、前を向いたまま眼球は動かさず、前方に集中する意識を分散することで左右の視野を広げる方法だ。さらに視覚だけでなく、聴覚などの他の感覚をも拡張する。
大切なのは、僅かな変化をも感じ取ること。
それは戦いにおいて、先の先を制するためにも必要不可欠なことだった。
だが、今回は戦いではない。向こうに攻撃の意志があるはずもなく、無論こちらから手出しするつもりもなかった。自分の好奇心さえ満足できればいいのだから、意識を向けるのは視覚だけで十分だ。
守は、微睡みだした雛鳥のようなとろんとした目になった。
ところが途中で気がついた。
この方法は適切ではないのだ、と。
もともと八方目は対象を直視することがないのだ。ゆえに、動きや気配は察せられても、本当に知りたい細部までは判らない。
(やっぱ、無理か……)
諦めた途端、仄かに香るバニラに似た甘い香りと、体温らしき温もりが伝わってきた。涼やかな声を思い出し、ふと、あと五感で足りないものは何か、と考える。
(味覚――か。ん……え?)
口内にクリームの甘みを意識した途端、体の一点に血液が集まりそうになった。
(ヤ、ヤバイ)
その時、安全ベルトのライトが点き、ベルトを締めるようアナウンスが入った。
すでに焦っていた守は、ベルトの片方を見つけられずにさらに慌てふためいた。飛行機に乗るのは五年ぶり。中二になる年の春休みに、オーストラリアに赴任していた、母方の祖父母の所に遊びに行って以来のことだ。
俯いて、守がしきりに左右に体を捻っていると、隣の美人の右手が動いた。爪はクリームがかったベージュ色で、先の方が白いマニキュアで染め分けられている。
その手が守の腰回りに迫ってきた。
気づいた途端に動きが止まり、守は頬を引きつらせた。激しく跳ね上がる心臓は、比喩ではなく本当に口から飛び出しそうだった。
今の自分の情況を知られたら、確実に引かれるのは確かだろう。これから約三時間、非常に気まずい状態で過ごさなければならなくなる。
暴走しそうな自分の劣情を滅却するために、守は熱を出し苦しんでいる香子の姿を思い浮かべた。あれだけ楽しみにしていた旅行に来られなかったことを思うと、潮が引くように心の中が静まっていった。
「ここにありますよ」
品のよい指先が、座席と守の腰の間を指差している。すぐに見つけて礼を言い、守は空手着の帯を引き締めるように、下腹を安全ベルトで引き絞った。
飛行機は無事離陸し、安全ベルトのサインが消えた。同時に「ご旅行ですか?」と隣の美人が話しかけてきた。若くは見えるが落ち着いた雰囲気で、言葉遣いと服装からも社会人ということは確かだった。二十代前半。多く見積もっても二十代の半ばぐらい、というところだろうか。
守は、知らない、それも年上の、それもとても魅力的な女性から話しかけられたことなど、十九年の人生の中で一度もなかった。だからこそ必要以上に警戒の念を強く持ち、緊張した面持ちで「はい」とだけ答えた。
「学生さん?」
問いかける女性は、柔らかく守に微笑んでくる。
目尻が下がり気味で愛嬌たっぷりのその笑顔は、とても人好きするものだった。同時に相手が男の場合は、変な誤解も与えそうだ。何しろ警戒していた守でさえ、「はい、一年です」と明るくはっきり答えたほどだ。
女性は笑みを深めると、さらに守に話しかけた。
「もしかしたら大学、鴛鴦かしら?」
「え? ど、どうしてですか?」
驚く守に、女性は「それよ」と種明かしをした。
守の膝の上のボディバッグには、Eとオシドリをモチーフにした、学校のエンブレムのキーホルダーが付いていた。「実は、わたしもなの」と女性もカギの付いたそれをバックから出して見せる。
キーホルダーは入学式の時に配られる記念品で、鴛鴦に籍を置いたことのある者しか持っていない物だった。
「へぇ~、先輩なんですね」
「でも、わたしは短大だから」
「いえ。それでも、先輩です」
同じ学校と判った途端、互いの口調に一気に親しげなものが加わった。女性は「そうだわ」とカギを戻したバッグから艶消しゴールドの名刺入れを取り出して、中の一枚を差し出した。
渡された名刺には『道徳夏芽』と印字されている。
「『どうとく』さん、ですか?」
「裏を見て」
慌てて返した裏面のローマ字は、『Natsume Tsuneari』になっていた。
「『つねあり』さん、ですか」
「読めないわよね」
「難読ですけど、道徳が『常に在るべきもの』って意味なら忘れないです」
そして、守は自分の名前を名乗った。
「丹頂鶴の『丹』に上下の『下』で『あかもと』です。それから『まもる』は一番簡単な『守』です」
「守くんね。わたしは夏芽よ」
「な、夏芽さん……」
改めて下の名前を名乗ったということは、名字ではなく、名前を呼べということなのだろう。
(これは幸先がいい)
一瞬にやけそうになった守は、すぐにそれを打ち消した。香子が熱で苦しんでいるというのに、独り浮かれている場合ではない。にもかかわらず、出てきた言葉は正直だった。
「可愛い名前ですね」
「まあ、ありがとう」
少し目を瞠った夏芽は照れくさそうに微笑んだ。そしてその笑みが消えないうちに「ところで」と唐突に話題を変える。
「守くんは中国は初めてなの?」
「はい。夏芽さんはお仕事ですか?」
名刺に書かれた肩書きは、貿易会社の会長秘書となっていた。
「そうよ」
「秘書でも海外に出張に行くんですか?」
そうは訊いてみたものの、守に会社の組織についての知識はほとんどなく、自分の質問が成立してるかどうかの判断もつかなかった。
守の場合、秘書とは要職に就いている人物の手助けをする人、ぐらいの認識で、この席の近辺に会長らしき人の姿は見当たらない。もちろん会長という役職なら、エコノミークラスにいる可能性の方が低いのだが――
それでも無意識に近い感覚で、夏芽は一人だ、と守は勝手に判断していた。
「あ、それはね、建前上秘書になってるってだけなの。小さな会社だから、お茶汲みもすれば、電話番もするし、海外に行って買いつけもするのよ。まあ要するに、何でも屋さんね」
「なるほど」
素直に納得する守に「それで、観光はどこを回るの?」と夏芽は訊いた。
「それが――」
集団行動は今日までで、明日からの予定は決まってない。守がそう話すと夏芽は大きな目をさらに見開いた。
「中国は初めてなのに、フリープランにしたの?」
「実は、友達の親戚の知り合いがいて、その人がいろいろ連れていってくれるみたいなんです」
「そう。でも、お友達はどこに?」
「そ、それが本当は一緒に来る予定だったんですけど……急に熱が出て――」
「来られなくなったの? まあ、大変! ねえ、さっきの名刺を貸して」
夏芽は前のイスの背に付いたテーブルを下ろし、急いで自分の名刺に『手機』という文字と数字を書き足した。
「これ、わたしの携帯の番号だから」
「はい?」
「何か困ったことがあったら電話して。その『友達の親戚の知り合い』の方、日本語通じないかもしれないでしょ」
改めて第三者が口にしたのを聞いてみると、『友達の親戚の知り合い』などという関係は、はっきりと赤の他人と宣言しているようで心許ない。それに言葉に関しても、香子はこの旅行のためにわざわざ電子辞書を買っていて、簡単な通訳はその会話機能を使うことになっていた。香子に任せきりだった守は、自分自身で意志の疎通をする可能性など、いっさい考えてもいなかった。
「そ、そうですね」
いまさらながらに青ざめる守に、夏芽の申し出はありがたい。
けれど――
確かに知らない土地に独りなのは、不安がないと言えば嘘になる。だからと言って、知り合って間もない年上の女性に節操もなく甘えられるほど、守はイマドキの青少年ではなかった。
「で、でも大丈夫です。きっと何とかなりますよ。っていうか、何とかします」
ここで負けるわけにはいかない、と守の負けん気が顔を覗かせる。
と――
「そんな、ダメよ!」
いきなり叱られた。
「はい?」
「だって言葉が通じないのよ。日本で旅行してるのとはわけが違うの。それに治安だって日本とは全然違うし、何よりも国の体制が違うってことを忘れてるでしょ。間違っても『何とかなる』なんて、絶対に思わない方がいいわ」
最初のおっとりした印象とは打って変わって、艶やかな唇から無数の言葉が溢れてくる。はきはきしてたたみかけてくる感じだが、守はそれほど嫌でもなかった。
「そ、そうですか……」
旅行慣れしている夏芽が言っているのなら、きっとその通りなのだろう。心の中で両手を挙げて、守は全面的に敗北を認めた。苦学生の貧乏旅行では選択の余地はまったくない。
それにたった一つ提示されたその道は、信じられないほど魅力的なものだった。
「な、なら、お言葉に甘えて」
「本当によ。何か困ったことがあったら、遠慮しないですぐに電話してね。そうだわ、チェック・インして部屋番号が判ったら、夜に一度電話してちょうだい。何かあっても、絶対自分で何とかしようなんて思ったらダメよ。いい? 解った?」
「は、はい……」
空港で夏芽と別れ、守は迎えにきていた現地ガイドと、十人ほどの団体客と共に古びたバスに乗り込んだ。
一番前の席に腰を下ろし、大きく一つため息をつく。
(香子がいなくてよかった……)
一瞬、守の脳裏にイケナイ考えが通りすぎる。
守は急いで頭を振って、その考えを振り払った。
『情況』は、『状況』よりも心情的な面を考慮しているとありましたので、こちらにしました。




