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そらつかい『虚』  作者: カルヰアオ
第一章 止念(考えない)
9/99

止念 9

時系列的には、

止念8→止念1→止念9

になります。

「それで、ご友人はいなくなったのですか?」

「はい」



 武志(たけし)を見つけられず呆然とする(まもる)は、何者かに肩を叩かれて我に返った。

 急いで気配を探ったが、さきほどのような嫌な感じはしなかった。

 それでも慎重に振り返る。

 安心しきった時の油断が一番の大敵だ。前に父はそう言っていた。

 振り返った先には、さきほどと変わらぬ様子の、人の良さそうな店主の顔があった。手にした傘を守に差しかけてくれている。ホッとする守に、店主が何かを話しかけてきた。だがそれは中国語で、守には何を言っているのかまったく理解できなかった。

 為す術もなく首を振る。

 皺だらけの手が、武志がさっきまで座っていたイスを指差した。

「ああ、座れ、ってか」

 促されるまま店まで戻り、中に入る。守は座布団が濡れないようイスから外し、隣のイスの、座布団の上にそれを重ねた。腰を下ろし一息つく。

 店主は大きく頷いて、店の奥へと引っ込んだ。

(爺さん、無事でよかったな)

 後ろ姿を見送った守の心に、素朴な想いが湧いて出た。たとえ知り合ったばかりの他人でも、祖父に似た老人に何かあったなら、遣り切れない。

 けれど、いったいどこにいたのだろう。

 守の脳裏に疑問が浮かぶ。

(もしかして、アレが見えなかったのか?)

 そこまで考えて、守ははたと気がついた。

 意志があるように動く『靄』。

 通常、そんなものがこの世の中に存在するとは思わない。

 だとしたら――

 たとえ見えていたとしても、それを認識できなかった可能性はある。

 昔何かのテレビでやっていた。乳幼児の頃に失明すると、大人になって光を取り戻すことができたとしても、目の前の人や物を認識できないことがあるという。

 それに守が幼稚園の時、あれだけはっきり西の空に見えていたハレー彗星を、『見えない』と言っていた人もいた。

 実際守も、海辺の街中を飛ぶコウモリを、最初は認識することができなかった。

 どうやら、『見えている』と『認識する』はイコールではないらしく、人は自分が知っているものや、見たいと思っているもの以外は、見ようとしない傾向があるらしい。

 ならば――

 一般の人には認識できない黒い『靄』。

(アレはいったい何なんだ?)


 店主は、なかなか戻ってこなかった。

 閉まりきっていない扉の、隙間の向こうに、黒い闇が続いている。

 守はさっきから、そこから目を離すことができなくなっていた。

 目を離してしまうと細長い四角の闇が形を変え、急に膨れ上がって襲いかかって来る。そんな思いに囚われていた。

 あんなことがあった後なのだから仕方がない。

 とはいえ、そんな自分を守は情けなくも思う。

 勇気を奮い起こして目を離し、大きく左右に首を振る。

 振り払われた妄想は飛散して、部屋の隅や物の後ろの暗がりに消えていった。

 だが――

 本当にそれは消滅したのか。

 闇は闇と結びついて、さらに大きくなっているのではないのか。

 守はもう一度頭を振り、扉の隙間に覗く、闇の中に店主の痕跡を探す。

 ない。

 どうする。

 このまま独り、ここに取り残されたら――


 どうする。


 上海に来てから感じ続けていた不安が、現実のものとなっていた。

 それとも、あれ自体がなかったことなのか。

 あれは、自分だけが見ていた白日夢だったのか。

 ならば、維名武志はどこへ行ったのだろう。

 いや、もしかしたら出遇ったことすら、夢なのかもしれない。

 だったら、どこからが夢なのだ――

 守の頭の中に、皓華(こうか)夏芽(なつめ)の顔が浮かんだ。

 そして、すまなさそうな香子(きょうこ)の顔も。

 頭の中で三人の女たちの顔が順繰りに巡っている。

 と――

 最後に母の笑顔が思い浮かんだ。

 その時――

 扉が大きく開いて闇の中から店主が現れた。


 白いバスタオルを手に、ニコニコと笑みを浮かべる店主の態度は、さっきと全然変わらなかった。

「爺さん!」

 守は、ホッとするのと同時に、感情が堰を切って溢れだすの止めることができなかった。

「なあ、何か知らないか? 知ってるんなら、教えてくれよ! さっきのはいったい何なんだ! 維名はどこへ行っちまったんだよ!」

 まあまあ、というように小柄な店主は守の肩を叩いて落ち着かせ、守の目の前に右手を差し出した。

 その手は、人差し指が一本出ている他はゆったりと握られている。節くれ立ったその指の先には、薄い黄色に変色した硬そうな爪が伸びていた。守は、自分の前に突きつけられたその爪に吸い寄せられるように意識を集中する。

 と――

 突然、黄色がぶれた。

 守がハッとして老人を見る。老人はニッコリ笑っていた。

「な、何だよ?」

 店主はさらに手を動かして、守の左方向を指差した。首を捻り、その先を見る。いつの間にか黄色い爪の上に、小さな青いものがちょこんと乗っていた。

「え?」

 だがそれは本当に乗っているのではなく、角度的にそう見えているだけだった。

 花鳥市場の中央の道、武志がさっきまで戦っていた場所に、いつの間にか青い軽トラックが止められている。

「あ、あれが、どうしたんだ?」

 老人はただニコニコ笑って、守にバスタオルを手渡した。そして、手を差し出し『さあ』というように道を譲る。

「あれに乗れ、ってことか?」

 店主はさらに相好(そうごう)を崩すと、何度も繰り返し頷いた。



「それで、ここにいらしたのですか――」

「はい。わけも判らず連れてこられました」



「どうぞ、こちらへ」

 男が口を開いた時、守はすぐにその言葉が日本語だとは気づかなかった。

 武志がいなくなってから、店の主人も、守をここへ連れてきた男もほとんど何も話さなかった。話したとしてもそれは中国語で、無意味な音の羅列にしか聞こえず、守の中に何も形作りはしなかった。だから目の前の、自分よりも背の高い男が、守にも意味の解る言葉を話すなどとは、まったく考えてもいなかったのだ。

「さあ、中へ」

 戸惑う守の背に男の手が近づいてくる。

 温かく大きな手。

(あ……)

 その瞬間、男の言葉が突然守の中で意味を結んだ。

「あ、あ、あの……」

「日本に留学していたことがあるのです」

 男はにこやかに微笑んで、何も心配するなとばかりに頷いた。途端に守の口からため息が漏れる。吐く息と共に、体から不要な力が抜けていった。

「すみません。何か、ホッとして」

「構いませんよ。言葉が通じないというのは、とても心細いものです」

 細面(ほそおもて)の顔の薄い唇の間から出てくるのは、驚くほど流暢(りゅうちょう)な日本語だった。

「私も、初めて日本へ行った時はそうでした」

 男はもう一度にこやかに微笑んで、守を奥へと導いた。突き当たりの右手にある扉を開け、タイル張りのバスルームに案内する。八畳ほどの大きさのバスルームには、左右の端に、遠慮がちにバスタブと洋式のトイレが設えてあった。

「あの……」

「とりあえず、お風呂に入って体を温めた方がいいでしょう。夏とはいえ、濡れたままでいいわけがありません。それから――」

 男はバスタオルと手提げの紙袋を手渡した。

「私の物なので、サイズが合わないかもしれませんが」

「あ、ありがとうございます。でも、どうして……」

 問いかける守を男は手で制す。

「聞きたいことがあるのは解ります。ですが、話は後にしましょう。私は居間にいますから、安心してゆっくり温まってください」

 守は素直に男の言葉に従うことにした。そうするだけの力が、男の言葉の中には存在していた。


 すでに湯の張ってあるバスタブは、背の高い守でも十分寛げる広さだった。お湯の温度も適温で、守はゆったりと湯に浸かることができた。筋肉の一本一本の緊張が瞬く間に取れていく。

 疲れがすっかり湯に溶けだしてしまうと、何故か、すべてのことがどうでもよくなった。今日起こった、様々な出来事の不可解さや、これから先の不安すら、きれいさっぱり消えてなくなっている。

 守のすべてが、ここは安全と認めたようだった。

(これは、温かいお湯がもたらす効果だけじゃないよな)

 何故なら、守の心は男の手が近づいた時に、すでに安全を認識していたからだ。

 触れたわけではないのに、まざまざと思い出せる手の温もり。それはただ温かいだけでなく、守を安心させるに足るもっと別の何かがあった。

(何だろう?)

 守は、男の姿を思い起こしてみる。

 男は一見、三十代前半に見える。けれど瞳の奥の老齢な柔和さからすると、もっと年齢は上なのかもしれない。それにとても真面目な人のようにも思えた。

 それは日本人にも通じる生真面目さで、そこから醸し出される誠実さが、何よりも守の心を安心させてくれるのだ。

 さらに、男はひどく善良な感じがした。

 と同時に、何か別のものも、守は感じ取っていた。

 それは、やはり男の善良さに関係していることなのだが――

 守はどうしても、それを言葉にすることができなかった。

 言葉にしようとすればするほど、それは手の届かない遠くへ逃げていく。

 喉元まで来ているのに出てこない。思わず身悶えしたくなるような感覚だ。

 けれど――

(まっ、いっか)

 すぐにどうでもよくなった。

 早々に言葉にするのを諦めて、守はとっぷりと湯の中にその身を沈めた。


 風呂から上がってリビングへ行くと、果たして男はそこで待っていた。どこから調達したのか、テーブルの上には温かい食事が並んでいる。

 守が席に着くのを待って、男は『角含明(かくがんめい)』と印字された名刺を差し出した。

「ここは、どこなんですか?」

 用意された食事を遠慮なく頬ばりながら、守が含明に訊ねた。食事は香辛料と油が控えめで、日本人の守の口にも合っている。

「上海の郊外になります。昔、日本の租界(そかい)があった近くです」

「あ、あの……それもそうなんですが――」

「ああ、失礼しました。私の大学の招待所(しょうたいじょ)です。招待所とは、学生や大学関係者の紹介があれば利用できる、校内にあるホテルのような場所です」

「ホテル、ですか――」

 守は、部屋の中をぐるりと見渡した。

 ここはホテルというよりも、どちらかといえば昔の団地に近かった。間取りは、十畳ほどのリビングに、同じ大きさのベッドルーム。小振りなキッチンにはランドリーも付いていて、不必要なほど広いバスルームにベランダがあった。

 ただ、日本の都心に近い一般的な団地と違うのは、玄関のドアが金属製と、緑の網戸との二重扉になっていること。さらに網戸ではなく、ベランダ全体に虫除けの網が張ってあることだろうか。

 虫に対する防御とバスルームの広さから察するに、欧米の外国人宿泊客の方が多いのかもしれない。

「ホテルと言っても、ルームサービスはありませんよ」

 含明はにこやかに付け足した。


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