五気朝元 9
説明回は、続きます。
*副詞は基本ひらがなにしていますが、お父さん世代の会話文では、漢字になっています。
*三花聚頂の『聚』の読みを、『しゅう』と『じゅ』のどちらにするか迷った結果、意味が『集まる』なので、本作では判りやすく『集』と同じ音の『しゅう』を採用してあります。
「では、今日は、最初に一陽初生の話をしておこう」
松花湖に来て四日目。
強い陽射しに照らされた窓の外に見える風景は、相も変わらず際立って、生き生きと輝いている。龍煙はその夏の陽射しを避けるように、今日も午後から皆を居間に召集した。居間は昨日のままの状態で、守たちはマットの上に座り、思い思いに体を伸ばしながら龍煙の話を聞いている。
「君たちももう知っていると思うが、陰陽五行説では、『陰』が極まると『陽』が発生するとされている。その時生まれた最初の『陽』は、母親が生まれたばかりの我が子に与える初乳のように、少量でも純度が高く質のいい、実に優れたものだといわれている」
そして「鍛錬を行う者は、特にそれを珍重する傾向がある」と続けた。
「時間でいえば、亥の刻から子の刻に変わるその一瞬に最初の『陽』は生まれる。一年では冬至の日に『陰』が極まるから、『陽』に変わるのはその次の日からだが、実際には冬至の夜の子の刻、深夜十一時に最初の『陽』が生まれるのだ」
(冬至……)
再び出たこの言葉に、守は冬至の夜の苦しいほどの能量を思い起こしていた。
「だが、昨日の場合は少し意味が違う。自分の周囲ではなく、自分の体のことだ」
子供の頃から守の身に起こっていた様様な変化――
「自分の中で一陽初生の状態になったということは、下丹田にある『陽』が動き出した、ということになる」
ずっと思い悩んでいた問いが――
「特にこれを『活子時』といい、自然の場合とは区別する」
氷を直火で炙った時のように、瞬く間に氷解した。
一年の中で、陰が極まって生まれた『陽』と、
生まれた時から守の中にある、父から受け継いだ『火』。
それが冬至の日のあの時間に、一斉に動き出す。
(だからあんなに凄いんだ……)
守がいろいろと考えを巡らせている間に、龍煙の話は『活子時』の状態の具体的な説明に入っていた。
「まず丹田に熱感が起こり、二陰の間にある会陰が痙攣する」
二陰というのは生殖器と肛門のことで、その中間、胴体の最下部にあるポイントが会陰だった。
「会陰とは、読んで字の如く二つの陰が会する場所だ。元はツボの名称だと思うのだが、今は部位の名称としても使われている。その会陰が痙攣した時には、性的な快感を伴うことがある。男性の場合は実際に勃起することもある」
そして――
「順は則ち人を生じ、逆は則ち仙と成る」
龍煙はお題目のように唱え、「これは、小周天の時によくいわれている言葉だ」と付け加えると、守以外の者たちが、知っているとばかりに一斉に頷いた。
「動き出した『陽』を順に回せば、射精して人ができる。これは、自然の摂理だ。そしてそれを逆に循環させれば、仙人になる。つまり『煉丹』とは、自然の摂理に『逆らう』ということだ」
龍煙は、『逆らう』という部分を特に強調した。それが昨日の講義の中にあった『後天八卦を先天八卦に戻す』と同じ意味だということに、守は気がついた。
「実際に煉丹を行う時は、発生した『黄芽』が陽に乗って回っていく。または、『黄芽』そのものが陽ということも有り得るかもしれない。はっきりしたことがいえなくて申し訳ないが、実際はどちらでもいいのだと思う。人によって感覚が違うのは当然のことだ。最初のうちはちゃんと回っていれば何の問題もない」
そして龍煙は、「内景が起こったら、それが正しいかどうかを必ず聞くように」と皆に注意を促した。
「自分で勝手に判断をしてはならない。だからといって、正しいかどうかを訊く時のために、内景に気を囚われ過ぎるのはもっといけない」
「映画を観るように流すんですよね」
守が確認すると、龍煙は頷きながら「そうだ」と答えた。
「我我が行っている修持法は、道家、仏家、儒家の三つの精髄を合わせたものだ。道家単独で行う鍛錬とは違い、効果が高い分危険も大きい。だからこそ師について行わなければならないし、一人で行えるようになったとしても、十分に気をつけなければならない」
前にも含明から全く同じ注意を受けていたから、守もこのことについて目新しく感じたりはしなかった。
だが――
「何故なら、それ自体に意念を掛け過ぎたり、執着し過ぎたりするのは、『偏差』の元となるからだ。これから練功房を使い、一人で行っていく場合、それが大きな妨げとなる」
守は、龍煙の言葉の中に知らない単語を見出だした。
「あの……」
「何だ?」
「その、『へんさ』というのは、何なんですか?」
「そうだな、まずはその説明からしなければならなかった」
龍煙は立ち上がり、黒板の前に移動した。
「偏差とは、別名『走火入魔』ともいい、方法を間違えたために起こる病変のことを指している」
龍煙が黒板に書いた『走火入魔』という文字を見つめ、守は寒山寺で育と『魔』について話した時のことを思い出した。
「表れ方は間違え方によって皆違う。体にでる場合、軽いものでは、気血の流れが滞ったり、逆流して気分が悪くなったりする。進行すれば、痛みが走り動かせなくなる。重いものになると疾病として発現する。だが、心の場合はもっと厄介だ。『陽』に偏れば偏執狂となり、『陰』に偏れば鬱となる」
そう、あの時の守の状態こそが、まさに『走火入魔』だったのだろう。
龍煙は続ける。
「人の脳は場所によって担っているものが違うという。喩えば、『愛』という言葉と『犬』という言葉では、反応する部位が違うのだ。全てのものには寿命がある。何でも一つのものに執着し、酷使し続ければ壊れるのは当然だろう。それは脳細胞であっても同じことだ」
「活動電位の負荷が掛かり過ぎればショートする、ということですね」
夏芽の言葉に、「なるほど」と龍耀が声を漏らした。
「だから、いつも『意念を掛け過ぎてはいけない』と注意されるのか……」
「中庸ガ大切ネ」
皓華が生真面目な顔で補足する。
その時――
「『偏差』が起きたら、どうすればいいんでしょう?」
育が唐突に質問した。切羽詰まったような声だった。
育は、守と同じことに気づいて不安に思っていたのだろう。
いや――
育は最初に会った頃の言動からしても、『偏差』について、ずっと前から考えていたようだった。
「状態にもよるが、自分より功の高い者がいれば大丈夫だ。君の場合は僕が治してやれる」
龍煙は、育の縋るような眼差しをしっかりと受け止めた。ホッとしたのか、育の表情が明るくなる。
よかったという気持ちと同時に、守の心に何となく面白くないという想いが込み上げてきた。それを振り払うように、「なら、オレの時もお願いします」と龍煙に頼んでみた。
ところが――
「ん? そうだな……う~ん、まあ、多分、大丈夫だろう」
龍煙の答えは、育の時とは違って実に歯切れの悪いものだった。
「えっ、『多分』ですか?」
冗談めかして不満の声を上げる守に、龍煙は明るく笑ってから、「大丈夫だ」と今度ははっきりと繰り返した。
「僕よりも、ずっと適任の者がいる」
「えっ、誰ですか?」
守には、次の掌門人の龍煙より、適任者などいないように思えるが――
「君のお父さんだ」
「え、親父が、ですか?」
「そうだ。君のお父さんなら、必ず治す」
守は、自分の父の端正な顔を思い浮かべた。
どうしたって、龍煙よりも、父のほうが実力が上とは思えない。守は説明を促すように、龍煙に視線を戻した。
「場合によっては、五行の属性が同じということも大切なのだ。だが、それだけでなく、相手に対する思い入れこそ重要だ」
「思い入れ? ――って、まさか『親子だから』ってことですか?」
「もちろん」
守は少し考えて、父が守と育の結婚を、反対していたことを思い出した。
どうやら守が思っている以上に、父は守のことを考えていてくれているらしい。そう思うと、龍煙の言葉にもさらなる信憑性がでてくる。
ならば――
守は「もし」と口を開いた。
「ん?」
「じゃあ、もし龍煙さんがなっ――」
「馬鹿ね、そんなことあるわけないじゃない!」
守が言い終わらないうちに、夏芽が猛然と抗議を始めた。龍煙はそれを手振りで制し、「それは、難しい質問だ」と腕を組む。真剣に考えていた龍煙は、いつものような柔和な顔に戻ると「やはり――」と言った。
「黄師父にやっていただくしかないだろう。だが、それは命を懸けたものになる」
「い、命懸け、ですか……」
「そうだ。ある程度『功』が進んでいる者の場合は、一度道を外してしまったら、そう簡単に戻ることはできない。それを強制的に戻そうとすれば、それ相応の覚悟がいる」
龍煙は、そこでフッと笑った。
「だが、そんなことにならないように、僕も十分気をつけよう」
そして「そろそろ昨日の続きを説明したいのだが、どうだろう?」と龍煙は皆を見回した。
*
「『練気化神』には二つの過程がある。一つは『五気朝元』と呼ばれており、もう一つは『三花聚頂』呼ばれている」
龍煙はそれぞれの名称を黒板に書きつけると、皆のほうへ向き直った。
「坎離交媾で生まれた黄芽を集めて金丹を作る。その金丹をさらに煉っていくと、純陽の『真気』が発生する。その発生した純陽の真気を使い、今度は五臓の『気』を煉っていく。この五臓の『気』こそ『五気朝元』の五気の部分だ。因みに――」
龍煙は簡単に、『朝元』とは宮廷に出仕し、集まって会議を行うという意味だ、と補足した。
「煉丹の過程が進むと、煉られた五臓の『気』から陰気が消滅し、五臓の『神』に変化する。五臓の『神』が上へ昇り、泥丸宮で一堂に会するのが『五気朝元』になる」
「す、すみません、その『でいがんきゅう』っていうのは?」
もう馴染みになった守の問いに、龍煙は『泥丸』と『涅槃』という二つの言葉を黒板に書いた。
「『涅槃』という言葉は聞いたことがあるか? これは仏家の用語で、解脱の境地を表す『ニルバーナ』という言葉の音訳になる。そして同じく『泥丸』も、『ニルバーナ』の音訳という説があるのだ。だがここでいう泥丸宮は、上丹田のことを指している」
「あ~あ、なるほど」
守は、人間の体には三つの丹田があることを含明から聞いて知っていた。
頭にある上丹田、胸にある中丹田、下腹にある下丹田がそれだった。
龍煙は、苦笑しながら「済まない」と守に詫びた。
「上丹田と言った方が解り易かったな。だが、僕は泥丸宮という方が好きなのだ。この方が、ずっと『朝元』という感じがでるだろう」
「はあ……」
(龍煙さんは、意外とロマンチストなのかもな――)
歳が同じ守の父は、変わってこそいるがどちらかというと現実的だった。見た目だけで言えば実直な感じの龍煙よりも、父のほうがずっと夢想家っぽい。
だが――
「後でも話すことになるが、実は感覚というのは、とても大切なものなのだ」
龍煙は、含明と同じことを言って話を元へ戻した。
「次は『三花聚頂』だが、これは別に『三つの花の朝元』といわれることもある。ではこの三つの花とは何か? 一説によると、聖胎中の純陽、心中の真陽、腎中の正陽のことを意味しているともいわれている。つまり『三花聚頂』とは、完成した金丹と、中丹田、下丹田にある根源的な『陽』の気を上丹田に集めることをいうのだ。そして『五気朝元』で先に集まっていた五臓の『神』と合わすことで、金丹は終に『真気』から『陽神』へと変化する」
龍煙は一気にここまで言うと、三つの花は他にも、下丹田の『精』、中丹田の『気』、上丹田の『神』のことだ、という説がある、と追加した。
「だが『聖胎』が『陽神』に変わっただけでは、まだ終わりではない。この後は、さらに『練神還虚』『練虚合道』と進んでいく」
「まだ、半分なんですか?」
守が訊く。
「半分といえば半分だが、半分でないといえば半分ではないな」
黒板を消しながら曖昧に言う龍煙に、守はさらに聞こうとした。だが、目の端に映り込んだ、夏芽の強い視線に気づいて口を噤む。
すべてを消した黒板に龍煙は五臓を書き入れると、その上に木火土金水の五気を記した。
「ではここで、もう少し五臓の『神』についての説明をしておこう。五臓の『気』を純陽の『真気』を使って煉ってできたものが、五臓の『神』だといわれている。そして――この五臓の『神』こそが、実は五臓神と呼ばれるものなのだ」
「えっ?」
守はこの場にいる皆を見渡してから、育を見た。育だけはやはり守と同じように驚いている。
「前に、『精』『気』『神』の説明をした時に、僕はある高名な老師の説を紹介したのだが憶えているか?」
それは確か――
『『神』とは、さらに高い宗教的な次元まで純化された状態の気』
そう龍煙は言っていた。
「『神』は、神様ではないという者がいる。確かに、完全にイコールで繋ぐことは憚られる。だが僕は、神とは『神』が何らかの形で凝り固まり、神格化したものではないかと考えている。だからこそ、仏家で人が仏になれるように、道家では人は神人になることができるのだ」
守はここで、仙人のもう一つの名称が『神人』だったことを思い出した。
「だが、五臓の『神』の表現体は人型の神でなく、聖獣の象として表されることのほうが一般的だ」
そして龍煙は、修真図の一節を読み上げた。
肝神その象、青龍の如く、
心神その象、朱雀の如し。
脾神その象、鳳の如く、
肺神その象、白虎の如し。
腎神その象、双頭の玄鹿に似、
膽神その象、蛇と亀の混合型なり。
と――
「では、これから静功を行う」
龍煙はここで宣言すると、使用する手印の作り方を説明した。
「これから行うのは、『五気朝元』の前段階である五臓の調整法だ。『五気朝元』の時も同じ印を使うからよく憶えておくように」




