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そらつかい『虚』  作者: カルヰアオ
第八章 五気朝元(五つの気が相見(あいまみ)える)
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五気朝元 5

 傾き始めた陽の光が、少しずつ明度(めいど)を落としながら湖岸を照らし続けている。

 守たち一行はなるべく日蔭を選びながら、湖の周囲をあちこち散策してから宿舎に戻った。


 居間で解散する前に、夏芽(なつめ)は皆に夕食の時間を告げた。後一時間ぐらいあるからと、部屋で少し休むように勧めてくる。

 せっかく涼しくなってきたからもう少し外が見たいと言う育の横で、皓華(こうか)も同じ考えなのかうんうんと頷いている。

「だったら、これだけは話しておかないと――」

 夏芽が慌てて口を開いた。

「犬に気をつけてね」

(イヌ)?」

「犬、ですか?」

 皓華が首を傾げ、育が繰り返した。

「そういえば、ここに来るまでに何匹かいたぞ」

 最後を締めくくったのは、守だった。


 船から降りてここまで来る道で、守はベニヤ板を何枚か打ちつけただけの小さな小屋をいくつか目にしていた。その一つを覗いてみると、中には鋭い目つきをしたドーベルマンが蹲っていた。


「この島では、泥棒避けのために夜間だけ犬を放しているのよ。知らない人には、噛みつくように訓練してあるから、十分気をつけてね」

「え? でも、オレ、頭撫でちゃいましたけど――」

 のほほんと言う守に、「まあ」と夏芽は言ったきり言葉もない。「それは凄い」と途中から話に参加していた龍耀(りゅうよう)が夏芽と顔を見合わせた。

「龍耀さんが最初にこの島に来た時は、危うく噛みつかれそうになったのよ」

「ウ、ウソでしょう?」

 守は思わず息を飲んだ。

「本当です。かすり傷でしたが、あの時は兄が狂犬病を心配して、街の大きな病院へ行ったりと、なかなか大変だったんです」

「きょ、狂犬病……」

「はい。生きた心地がしませんでした」

 龍耀の言葉に、守は自分の迂闊さを大いに反省する。

「だから夜外出する時は、馴れるまでわたしか、龍耀さんか、龍煙(りゅうえん)さんの誰かと一緒に出るようにしたほうがいいわね。それに昼間は繋いであるけれど、傍を通る時も十分に注意して」



 守は、育や皓華と一緒に外には出なかった。一昨日からの強行軍で疲れたから、と自分に割り当てられた部屋に戻って、ベッドの上に横になる。

 皓華が付いていれば、育は何かあっても大丈夫だろう。皓華は腕も立ち、守よりもずっと知識も豊富だ。何よりもその気質――気立てだけでなく「気」の質という本来の意味でも、育とよく合っていた。

 それに、守がいないほうが育にとっても安全のはず。

 守は育と一緒に外に出て、いろいろな意味で冷静でいられる自信がなかった。


 守は大きく一つため息をつき、首だけ捻って隣を見る。ベッドの上に置いてある黒いカバンは、いくつもの白い傷だけでなく、角の部分が少し剥げていて使い込まれている感がかなりある。

 それをじっと見ていると――

(やっと、ここまで来れたんだ)

 感慨深い想いが溢れてくる。

 六年振りに偶然出遇い、突然姿を消した武志を探し、はるばるこんなに遠くまでやって来たのだ。

(一年もかかったんだ)

 守は、この一年に起こったことを思い起こしてみた。

 いろいろな人に会って、いろいろなことを知った。

 自分でも嫌になるほどの無知さ加減に、身悶えするような恥ずかしさを感じた。

 そして――

 守の脳裏に浮かぶ、育の暗い顔。

玄明(げんみょう)は、本当に維名(いな)に会えるんだろうか?)

 守の心にいい知れぬ不安が広がっていく。


 たとえ、今、親しい関係でなくても。

 普通に接することができなくても。

 これ以上、育が哀しむ姿は見たくない。


 守は不安を打ち消すように、もう一度黒いカバンに目を向けた。

 それは武志が実在し、ここで確実に暮らしていた証拠のような物だった。

 そして、今度はその持ち主の現在に想いを馳せる。

 武志の仏頂面は浮かんでくるが、その背景は見えてこない。


(維名は、どこにいるんだろう?)


 漠然と思う中、重くなり始めた瞼がごく自然に閉じていった。


    *


 その日の夕食の時、夏芽に連れられて、カーキー色の人民服を着た小さなお爺さんが現れた。白い髪に白い髭を蓄えているが、頬と鼻の先が赤くテカテカ光って、その表情はいたずらっ子のようだった。

「こちらが我が門の掌門人(しょうもんじん)の、黄常在(こうじょうざい)師父(しふ)だ」

 龍煙はまず老人を皆に紹介してから、守たちを一人ずつ老人の前に呼んだ。

 最初に呼ばれた皓華が、座っている常在の正面に進み出る。

 皓華はまず姿勢を正すと、右の(こぶし)(いただき)を、指を揃えピンと伸ばした左中指の付け根に突き合わせた。日を表す(けん)と月を表す(しょう)で作った『抱拳礼(ほうけんれい)』。それを拳士らしく胸の前で捧げてから、さらに跪こうと膝を曲げた。だが差し出された常在の手に止められ、膝を伸ばして姿勢を正す。次の育は歩み出ると、およそ四十五度に腰を折って丁寧にお辞儀をした。

 小柄な老人は、皓華と(いく)の挨拶を受けながら、「(ハオ)、好」と満面に笑みを浮かべ何度も頷いている。最後の守の時には、その瞳をひときわキラキラと輝かせると、他の二人よりも大きな声で、力強く「好」と言った。


 常在は九十も半ばという高齢にもかかわらず、その佇まいはすっきりと力強かった。食事もよく食べ、お酒もよく飲み、そして目を見開いて大いに語った。多岐に亘る老人の話に、守の隣で通訳をしてくれている龍耀は、食事を取る暇もないくらいの忙しさだ。

 酔ってさらに相好(そうごう)を崩した老人は、顔全体に赤みが広がり、さらにいたずらっ子度が増している。夏芽が見兼ねて注意するが、いっこうに聞こうとしなかった。


 食事が終わり、夏芽は龍耀の手を借りて、酔って足取りの不確かな老人を連れ、居間を後にする。

 それを立って見送っている守の傍に、龍煙がやって来て声をかけた。

「こんなことは、珍しい」

「何がですか?」

「師父は『気が散ずる』と仰って、ほとんどお酒は召し上がらないし、召し上がっても酔われることはない。だから、今日は余程嬉しく思われたのだろう」

「オレたちのことがですか? そんなに喜んでもらえたなら、みんなで来たかいがあったというものです」

「そうだな」

 龍煙はしみじみと言う。

 その短い言葉の中に、守はまだ龍煙が、他に何か言いたいことがあるような感じを受けた。それがどうしても気になって、訊ねようとしたのだが――

「各自自分の部屋に戻り一時間ほど休憩を取ったら、もう一度ここに集まって欲しい。簡単に明日の予定を決めておこう」

 龍煙の指示通り、皆は一斉に各各の部屋へ引き取って行った。



 守が定刻より少し早く居間に戻った時、そこでは、龍煙と龍耀の(りん)兄弟が真剣な顔で話し合っていた。龍耀は守に気づくと立ち上がり、人数分のカップに香り立つ茉莉花(ジヤスミン)茶を入れ始めた。

「あっ、オレがやります」

 守は龍耀に駆け寄り声をかけた。こういうことは下の者がするものだ。守はそう教わってきた。だが、龍耀は「今日はお客様ですから」とやんわりと断って、手慣れた様子で作業を続ける。じきに育と皓華が二階から下りて来て、やはり守と同じように断られていた。


 夏芽が現れたのは、お茶を配り終わった龍耀が、予備の丸イスに腰を下ろした時だった。応接セットの一人がけのイスには、守と龍煙、その前の三人がけのイスには、育と皓華が座っている。夏芽が自分のカップを手に皓華の横に腰を下ろすと、龍煙はもう一度確かめるように全体を見回し、皆が集まったことを確認してから、静かに話し始めた。


「師父は、文革(ぶんかく)の時に膝を悪くされてから、あまり公に出て指導されることはなくなった。今はご高齢で、我我も『無理をなさらないように』と再三再四お願いしている。だが今回だけは、皆がここに揃ったということで、どうしてもしておきたいことがあると仰っているのだ」

「何をするんですか?」

 守が訊いた。

「詳しくは伺っていないのだが、恐らくは『帯行(たいこう)』を、されるおつもりだと思う」

「そんな、無理です!」

 夏芽が突然声を上げた。

「師父はご高齢なんですから、そんなことをしたら――」

 テーブルの端に手を突いて少し身を乗り出しながら、斜向かいに座る龍煙に猛然と抗議する。

「無理は承知の上だろう。我我もお止めしたのだが、止められて中止する師父ではない。夏芽、それは孫の君が一番よく知っているはずだ」

 納得がいかないながらも、夏芽はゆっくりと姿勢を戻した。龍煙の言葉を認めるように軽く唇を噛んでいる。

「でも、やっぱりわたしは反対です。もしものことがあったら――」

「それでも、やはり師父はされるだろう。こんな機会は滅多にないのだ」

「あの、それって――」

 守が恐る恐る二人の会話に割って入る。龍煙が隣の守に顔を向けた。

「『帯行』というのは、功の高い者が低い者を導き連れていくことだ」

「はい?」

 即座に応じた龍煙に、守が短く聞き返す。

「すまない。解りにくかったな」

 龍煙はそう言って改めて話し出した。


「仏家の密修系の修法に『灌頂(かんじょう)』というものがある。この『灌頂』は今では儀式の一つのように扱われているが、本来はもっと実のあるものだった」

 灌頂とは、師の力を介して仏と結び、直接仏の『(エネルギー)』を貰うことだ、と龍煙は言った。特に蔵密(チベットみっきょう)のそれが中国に入り、道家の方法と結びついて『帯行』という形になったのではないかという。

「だが『帯行』の場合は、貰うのは仏ではなく師の『(エネルギー)』だ。師父の『気』が君たちの経絡に入り、脈を開いて、今以上の功をもたらす。君たちも既に含明からして貰っているはずだ」

「えっ? 含明さんに、ですか?」

「ああ。僕はあまり得意ではないが、あの子にはそれだけの力がある。それは母親の角柳青(かくりゅうせい)師姐(ししゃ)から受け継いだ力だ。そうでなければ、いくら君たちに優れた資質があるからといって、この短期間に、これほどの功夫(こうふう)を積むことはできない」


 守は話の内容よりも、龍煙が、含明を『あの子』と言ったことのほうを不思議に思った。夏芽曰く、龍煙は守の父と同じ歳で、含明より九つ上だという。

 遠い親戚だとしたら、含明の子供の頃を知っていても当然だろう。

 だが――

 やはりどこかに違和感が残る。

 それが何故かを考えていたら、育が龍煙に質問した。

「どうして、師父は『帯行』をされようと思われたのですか?」

 拝師(はいし)の礼はまだだったが、守と育は食事の前に常在に入門を許され、師父と呼ぶ許可を貰っていた。


「さっきも言ったように、ここに皆が揃ったからだ。こんな機会は滅多にない。守霊(まもる)魂庭(なつめ)虚成(こうか)育嬰(いく)。この地にこれだけ揃うのは珍しいのだ。それに――」

「それに?」

「守の存在は、大きいはずだ」

「オ、オレが、ですか?」

 突然名を挙げられた守が、自分を指差しながら声を上げた。「そうだ」と龍煙は頷くが、自分が何故そんなに歓迎されているのか、その理由が思い当たらない。

「もしかして、師父はうちの親父と知り合いとか、ですか?」

 違うだろうと思いつつも訊いてみた。

「そうだな……知り合いということなら、どちらかといえば君のお父さんよりも、君のお祖父さんのほうだろう。丹下(あかもと)師叔(ししゅく)は戦争末期の学徒出陣で、ここに来ていたことがある。それに君のお父さんの場合は、長春までは来ても、なかなかここまで足を伸ばす時間がないそうだ。実際に忙しいらしいのだが――」

 龍煙はそれ以上は言わずに、含みを持たせたまま言葉を切った。

「はあ、うちの祖父さんですか」

 確かに、守も祖父がソ連軍に捕まってシベリアに抑留されていたと聞いたことがあった。

「だが、丹下師叔よりも、もっとずっと深い縁が君にはある」


「えっ、オレに、ですかぁ?」


 祖父よりも深い縁。

 どこをどう考えても、そんなものが、自分とあの小柄な老人の間に存在するとは思えない。

 思い当たる節もなく盛んに首を捻る守に、「実は」と思わせぶりに龍煙は言う。

「師父の妹さんの、嫁ぎ先のことなんだが――」

「『嫁ぎ先』?」

 それが守と何の関係があるのだろう。確か夏芽は、大叔母は日本に避難するために、常在と義兄弟の契りを交わした、日本人将校と結婚――

(結婚?)

 守は、これ以上は無理というほど大きく目を見開いて龍煙を見る。


「そうだ、師父の妹さんの嫁ぎ先は、東京の槌岡(つちおか)家だ」

「あ……」


 守の母の旧姓は、槌岡といった。


次回から長い長い説明に入ります。いろいろと判ることもあります。

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