五気朝元 4
*環境、機種によっては表示できない字を使っているところがあります。
『膻中』はツボの名。『膻』は『月』+『亶』で『月亶』。
『爸爸』『爸』は『父』の下に『巴』。お父さんのことです。
しばらく松花湖を周遊し、守たちは昼過ぎに小さな島で船を降りた。
「さあ、少し歩くわよ」
きれいに化粧をし直した夏芽は、もういつもと変わらない、明るい夏芽に戻っていた。皓華もいつものように元気よくその後に続く。
育もいつもと変わらないように見えるのだが――
守はずっと育のことが気にかかっていた。
クルーザーでの昼食時、丸いテーブルには、守、夏芽、皓華、育、龍耀、龍煙の順番で席に着いていた。龍煙からの一通りの挨拶が終わると、次いで夏芽が皆を紹介する。龍煙は守の父と知り合いで、守にも小さい頃に数回会っているという。そして、皓華が北京の武術大会で優勝したことを褒め称えた後、龍煙は育をじっと見つめながら静かに言った。
「お母さんに、そっくりだ」
「母も、ご存じなんですか?」
「ああ」
短い会話だった。けれど育に向けられた龍煙の瞳は、限りなく優しかった。育も龍煙のその目をじっと見返していた。二人の間に交わされた言葉以上の何かには、他人が入り込めないような親密ささえ感じられる。
もしかしたら――
育が求めていたのは含明ではなく、龍煙のほうなのかもしれない。
コンパス甲板から夏芽が立ち去った後、守は育を探しに船内を歩いた。昼食会が終わってから、守は育の姿をまったく見ていなかった。
船首の甲板から脇の通路を通り、後ろへ向かう。途中、前方で夏芽が風に当たって酔いを覚ましているのが目に入った。
酷く憔悴している。
夏芽のそんな姿を見るのは初めてで、守は邪魔をしないよう声をかけずに手前の船室に入った。船室の中を後へと移動し、部屋の境から奥を覗く。すでに片づけられた丸テーブルの脇で、育と龍煙が向き合っていた。
「あの……」
育が掠れた声で声をかける。
「父のことは、ご存じありませんか?」
「事故にあった、ということ以外は何も……」
「そうですか、そうですよね……」
目を伏せた育を、龍煙は心配そうに見守っている。
育は両手をギュッと握りしめ、再び顔を上げて龍煙を見た。
「すみません。弟が生きているのなら、父も生きてるかと思ったんです」
「生きていたら、どうする?」
龍煙は、気遣うように問いかけた。
「会いたい、です」
「今まで、君をずっと放っておいたのにか?」
育は龍煙を真っ直ぐ見つめ、もう一度「会いたいです」と繰り返す。
守は、そっとその場を離れることしかできなかった。
世の中には似ている人間が三人いるという。
育が含明や龍煙に求めているのは、小さい頃に別れた父親の姿だった。
ならば――
育が怒るのも無理はない。
蘇州の最後の夜――
改めて、守はあんなことを言ってしまって悪かったと後悔した。
親がいないのは育のせいじゃない。
あれは、事故だ。
育の気持ちなどお構いなしに、運命は育から親を取り上げていった。
それは、自分ではどうしようもないことだ。
だから、諦めるしかない。
育は、諦めなければ生きてこられなかった。
育だけでなく、夏芽も、皓華も、ずっとそうやって生きてきた――
(でも、そんなのは、悲し過ぎる……)
「育のことが気になるか?」
守が声のほうを振り向くと、いつの間に来ていたのか、龍煙が隣に並んでいた。目線の高さは守と同じくらい。ならば、身長は一八〇を超えているということだ。
「そういえば、あなたもオレと玄明をくっつけようとしたんですよね」
「君たちの気持ちを無視したようで悪かったな」
「え……」
その言葉に、守は意外な感じを強く持った。
「人から押しつけられるのは、やはり嫌か?」
「そ、そういうわけじゃ――」
「強引なのはどうも気が進まんのだが、夏芽はまだ若い。問いの答えが一つしかないと信じている」
「………」
守が、漠然としていた想像と、実際の龍煙はどうやら違っているようだ。
今まで接してきた連中は、皆それが大儀とばかりに『しょうがない』の一言で、守の気持ちを片づけようとした。だのにこうまであっさりと、次の掌門人の龍煙に謝罪されるとは――
「あ、あの……」
「ん?」
「教えてください。どうしてみんなは、オレたちをくっつけようとするんです? うちの親父とあいつの母親がしなければならなかったことって、何なんですか?」
龍煙は少し考えてから、「そうだな」と落ち着いた声で話し始める。
「それはとても一言で語れるような問題ではないのだ。君がどれだけ我我の修持について理解しているかが重要になってくる。君たちをわざわざここに呼んだのは、そういう理由もあってのことだ。説明よりも、まず実感して欲しい。そしてそれができたなら――」
いや、辞めておこう、と龍煙は左右に首を振った。
「気にしないでくれ、僕の個人的な勝手な想いだ」
龍煙は、守の傍をすっと離れた。
*
「ここは、わたしが子供の頃に父と一緒に住んでいた家よ。今は、龍煙さんと龍耀さんが使っているわ」
すっかり元気を取り戻した夏芽は、集落の外れの一段高いところに並ぶ、二軒家の一つに皆を案内した。
「皓華と育は二階、守は下よ。守の向かいの部屋は龍煙さんが使っているわ。で、手前の玄関脇は龍耀さんね。それから、あの扉の向こうが食堂で、ミーティングの時はこの居間を使うから、何かあったらここに集まってね」
「夏芽さんは?」
「あたしは、師父と一緒に隣の家にいるわ。判らないことや困ったことがあったら、龍煙さんか龍耀さんに相談して」
守に割り当てられた、八畳の部屋の窓際には、シングルベッドが二台置いてあった。その片方のベッドカバーの上に細かい傷のついた、大きな黒いカバンが載っている。
「この荷物……」
「武志の物です」
守を部屋まで案内してくれた龍耀が答えた。
「あいつは、ここにいたんですね」
「ええ」
眼鏡の奥の瞳が柔らかな光を湛えていた。
龍耀の笑顔の中には、思わずほっとできるような温もりがある。
少なくとも、武志はここで嫌な思いはしていない。
守の中に、確信めいたものが生まれていた。
守が荷物を置いて戻った時、居間にいたのは夏芽だけだった。ほどなくして育と皓華が二階から下りてくると、夏芽は守たちを外へ連れ出した。どうやら、さらに奥の高いところにある、道観に案内しようということらしい。
「道観っていうのはね、道教のお寺のことよ」
道道の夏芽の説明では、ここはもともと満州族と改名する前の女真族の土地で、黄一族は、清代になった直後から百年の間行われた、漢族の移民政策に乗じて吉林に入り、その頃からこの辺りに住んでいたという。
小高い丘を五分ほど登ると、木造の門が現れた。開け放たれた二枚の門戸には、それぞれに赤い札が貼ってある。金で縁取られた枠の中には、錦の鎧を身につけた武将の姿が描かれている。
興味深げに見ている守に、「門神」と殿を勤めていた皓華が言った。
「武将ノ門神ハ、悪イモノ、中ニ入レナイ」
「それでか。寒山寺の韋駄に似てると思ったよ」
「韋駄ハ仏教、門神ハ道教、ネ」
皓華は簡単に説明し、「行コ」と守を促した。守も皓華に続いて門を潜る。
広がった視界の先には、青い空と白い雲。色の濃い緑の木木を背景に、黒い瓦屋根の、古い大きな建物が建っていた。慎ましく装飾された、花格子の扉の上には、青の地に金の文字で真武殿と書かれた額が掛かっている。緑緑紅紅な中国の寺院や道観に比べると、色彩も少なく、侘び錆びの、日本のお寺との中間に位置しているような感じだった。
石畳が敷かれた、道観の境内の三分の一を占めている真武殿の前で、育と夏芽が待っていた。それを見た瞬間、皓華がいきなり駆け出した。守も遅れないようにと後に続く。
「これが、真武廟よ」
守と皓華が合流したのを機に、夏芽が話し出した。
「廟というのは、道教の神神を祀ったお堂のことよ」
軒下には円錐形に巻かれた黄色い線香が、火をつけられたままいくつも吊り下げられている。香台で焚かれているものは、日本で見かけるものよりもずっと長く、太めのストローほどの太さがあった。守は蘇州の寺院で初めてそれらを見た時に、自分の中の線香という概念が大きく変化したことに気がついた。
日本の常識が、世界のどこでも通用するとは限らない。
そんなことは至極当然の知識として、守の頭の中にも存在していた。だがそれを心底実感したのは、たぶんあの時が初めてだろう。
それに――
(トウモロコシやスイカも、そうだけど――)
長い線香に火を点し、今にも拝み出さんとする皓華を見、守は皓華と最初に食事をした時に、夏芽が教えてくれたことを思い出していた。
中国では、取り皿やご飯茶碗はテーブルに置いたまま食事をする。日本では姿勢から『犬食い』と揶揄されるこの行為も、中国では大切な食事作法の一つだった。また反対に日本のように茶碗を手に持って食べることは、それこそ『乞食食い』といわれ敬遠されるのだ。
留学先の大学で生活を始めてしばらくの間、守はどちらのマナーに従ったらいいのか大いに悩んだ。悩んだあげく育に訊くと、「どっちでも、いいんじゃない」という冷ややかな返事が返ってきた。
「何だよ、考えたことないのかよ」
「別に、あたしは日本人だもの」
「あ……そっか、そうだよな」
それから守は難しく考えず、自分のアイデンティティに従うことに決めたのだ。
守たちは夏芽の後について薄暗い廟内の中に入って行った。
中央には月餅や果実などが山と盛られた供物台が置かれ、その手前には、跪いて祈りを捧げる時に膝の下に敷く、色とりどりの小さな座布団がまとめられている。供物台の奥には、人よりも二回りぐらい大きな、黒く長い髭の像が安置されていた。どうやらこれが、真武という道教の神様らしい。
「ここの主神の、真武帝君よ。北極星の化身とされているわ」
真武帝君は、道教の最高神である元始天尊の分身ともいわれていた。太陽の精によって、浄楽国王の善勝夫人の胎内に宿り、十四か月を経て誕生すると、十五歳で家を出て、玉清聖祖紫虚元君という神仙と出会い、太和山で四十二年の間、修行に励んだという。
「この太和山というのが、現在湖北省にある武当山のことなのね」
「ああ、武当派の……」
守は直ぐに合点がいった。
「それで、ここの主神は真武帝君なんですね」
一度真武廟の外に出て、廟に向かって右にある細い通路を通り、守たちはさらに奥へと続く扉を潜った。その板戸にも門神の札が貼ってある。その門神は鎧を着た武将ではなく、半裸で腰布を纏い、頭に二つの出っ張りがある奇妙な二人の男たちだった。片方は剣を、もう片方は索を手にしている。守が興味深げに見ていると、皓華が、北東の鬼門を守護している神荼と欝壘という神様だ、と教えてくれた。
鬼門の扉の向こうには、さらに上へと続く道が伸びていた。道は登り易いよう、ところどころが階段になっている。夏芽は皆を、その先にある建物に案内した。
東南にある門前には、中が簡単に覗けないようにと影壁が置かれている。それを避けて中に入った一行は、こぢんまりとした中庭の、その周りをぐるりと取り囲む回廊に立っていた。回廊に面していくつもの扉が等間隔に並んでいる。
「ここが、練功房よ。練功の時や一人になりたい時には、ここを使ってね」
夏芽がそう言いながら、南側の中央にある部屋の引き戸を横に引いた。
部屋の内部は三畳ほどのスペースで、皆同じ造りになっているという。前半分が土間で、奥の半分が膝上の高さの、板張りの床。床の上には色鮮やかな絨毯が敷かれ、靴を脱いで上がれるようになっていた。
「へ~ぇ、練功のための個室なんだ」
守は部屋の中をぐるりと見渡した。
「練功が進んでいくと、誰にも邪魔されない、静かな場所で行わなければならないものもでてくる」
育が独り言のように呟くと、
「周天ノ練功、スル」
皓華が引き継いで解説した。
「えっ、『周天』って、あの?」
「ソウ。小周天ヤ大周天。小周天ハ、守モ習ッタ」
ついこの間までいた蘇州で、守たちは含明から静功の訓練を受けていた。小周天は多岐に亘る煉丹の中でも最も重要な過程の一つだという。
流派によってやり方やルートは微妙に違うが、ほとんどのものが、督脈を上昇し、任脈を下降することに変わりない。
守が実際に感覚したのは、こうだ。
まず、下丹田に熱感が生じる。それが真っ直ぐ下降して、胴体の最下部の会陰に至ると会陰が微かに痙攣し、同時に快感が発生する。熱感は会陰から後ろに周って、背中の中心を走る督脈を上昇し、尾閭、夾背、玉枕の三関の穴を通って頭頂部の百会に至る。百会まで行き着くと、今度は前に回って下降する。
眉間の上にある印堂を通過し、鼻の上のつけ根で左右に分かれ、鼻の両脇を通って鼻下の人中で出合い上顎に至る。この時、舌先を上顎につけていないと、督脈から任脈への流れが止まってしまうという。
実は、小周天のルートには途切れている場所が二つある。上は口で、下は肛門部だ。上は舌を使えば簡単に繋げることができるが、下にはそういった便利なものはついていない。提肛といって肛門括約筋を締め、一時的に塞ぐこともできなくはないが、何時間も座っている中でそれをずっと維持し続けるのは大変だった。
そのために考案されたのが、盤座という独特の座り方だ、と含明は言った。
左右の足先を、反対側の脚の付け根に乗せるこの方法は、物理的に会陰の部分を締めることができるのだ。厳密にいえば会陰と肛門を締める括約筋は違うのだが、距離がとても近いため、会陰を締めれば同時にある程度肛門も締めることができるという。
「ですから、足を組んだ時の両方の膝の距離は、狭い方がいいのです。正三角形を作るようにと指導するところもありますが、我我の場合はそれでは広すぎます」
できれば二等辺三角形、あるいは腰から足が長方形になるくらいのほうが理想的らしい。
小周天では、鼻の下まで行き着いた熱感は、鵲の橋と呼ばれる舌を渡って下顎に至る。そして下顎から始まる任脈をさらに下へと進んで行く。下降する熱感は、左右の乳頭を結んだ真ん中にある膻中を過ぎ、さらに幾つものツボを通って臍下の気海まで辿り着く。だが、気海から下には行くことなく体の奥に潜り込む。
腹部の中心の下丹田に戻って、これで一周した。
何周か回っているうちに、通り道はより太く曖昧になっていった。最後には背中いっぱいの幅に広がって、道そのものがよく判らなくなった。
育の場合、そのルートを黄色く光る粒が通っていくのだという。だが、初心者の守にはそこまでの感覚はない。
「人によって内景は違うのです」
そう含明は言っていた。同じ人でもやる度に違うこともあるのだ、と。けれど、それも決まったパターンがいくつかあって、そこから大きく逸脱しないともいう。
もし逸脱してしまったのなら、それはただの幻覚ということになるのだ。
幻覚か幻覚でないかの判断は、素人には難しい。だからこそこういったものは、きちんとした指導者の管理下で行わなければならなかった。
独りでは決してやらないように、と守は含明に言われている。だから、守が練功のために単独でここを使うのはまだまだ先のことだろう。
「静功はね、何よりも環境が大切なの。深く入静した時に驚かされるのが一番危険だから。でね――」
夏芽は、朱色を基調にした絨毯を指差した。
「奥が温突になっているわ」
「え? 『オンドル』って、何ですか?」
聞き慣れない言葉に、守が首を傾げた。
「簡単に言えば、床暖房ね。この辺は冬になると氷点下の世界なのよ」
「北海道みたいですね」
「緯度は北海道の旭川と同じくらいかな。けど、北海道より寒いわよ。シベリアからの寒気が長白山脈にぶつかって戻ってくるのかしら。でも湿気が少ないから、雪はそんなには降らないの。あっ、取りあえず守はここね」
夏芽は、今見ている部屋を守に割り当てた。
「寒い所って雪が降った方が暖かいの、知ってた? それに、松花江は冬になっても凍らないの。長白山の途中に温泉があるから、水温が高いのかしらね。冬になると、江から上がる水蒸気が水辺の木木に凍りついて、氷の花を咲かせるの。それはもう、この世のものと思えないくらい美しい光景よ。冬に来た時に見たらいいわ」
そして夏芽は庭を縦断し、育を一番奥の中央の部屋へ連れて行った。
「隣は、武志よ」
それから、夏芽は皓華を左手の真ん中の部屋に案内した。
「ここは、以前、成虎師兄が使ってらしたの」
「対、爸爸トオンナジ、感ジガスル」
皓華はうっすらと涙ぐんでいた。
レイアウトを変更しました。読みやすくなったでしょうか?
37字詰めを想定し、行末はできるだけ単語が分離せず、区切れのいい場所で終わるようにしていたのですが……まったく反映されていなかったみたいです。トホホ。




