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そらつかい『虚』  作者: カルヰアオ
第八章 五気朝元(五つの気が相見(あいまみ)える)
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五気朝元 3

夏芽の事情がいろいろと判ります。

歴史設定は非常に緩くなっています。

 夏芽(なつめ)がグラスに半分ほど紹興酒(しょうこうしゅ)を注ぐと、琥珀色の液体が対流し、現れた幾本もの(すじ)が時間と共に拡散していった。

 夏芽はそれが消える前に一口口に含み、そのまま陽射しが戻るの待つかのように動かない。再び話し始めたその口調は、いつもの落ち着いたものに戻っていた。


「うちは、祖父が中国人で祖母が日本人なのよ」

 夏芽の祖父の黄常在(こうじょうざい)は、若い頃に長春(ちょうしゅん)で困っている日本人の将校を助けた縁で、その将校と義兄弟の契りを交わしたのだという。

「な、何か、仁侠(にんきょう)映画の世界みたいですね」

「あら、せめて武侠(ぶきょう)小説って言ってよね」

 守のお座なりな感想に、夏芽は拗ねたように注文をつけた。

「もともとあなたたちが日本にいたから、普通の中国人よりもずっと日本人に親近感があったからでしょ」

 そして常在の妹が、その日本人将校に嫁ぐことになったのだという。

「満州事変が起こる前の年よ。どうも、大叔母(おおおば)には予知能力みたいなものがあったみたいでね」

「『みたい』?」

「よく判らないんだけど、起こってから『あれはこういうことだったのか』って、解る感じで、実際には何が起こるかはっきりと判断できなかったんじゃないか、とわたしは思うのよ。ただね――」

 夏芽は「う~ん」とひとしきり考えてから、祖父はこんなことも言っていた、と困ったように眉尻を下げた。


「言葉にするとね、未来が確定してしまう、って言うのよ」


「え?」

「ほら、『運命』は『宿命』と違って変えることができるっていうでしょ。だから判っていても『宿命』レベルの未来でないと言わなかったのかな、とも思うんだけど――」

(いや、『ほら』とか言われても……)

 夏芽も確信がないようだったが、守もほとんど話が見えなかった。夏芽が解っていないのなら、これ以上聞いても守が理解することは不可能だろう。守はそうそうに諦めて、夏芽が話し出すのをじっと待つ。

「でね――」

 妹からこの地に起こる未来を聞いた常在は、時の掌門人(しょうもんじん)と相談し、脾神(ひしん)を継いだばかりの妹を日本に避難させることにした。

「え? それで結婚なんですか?」

「もちろん二人が想い合っていたからよ。でも、大叔父(おおおじ)は一度結婚してて、お産で奥さんに先立たれててね。で、子供もいるし、歳も離れているからって遠慮してたらしいのよ。大叔母も、妹扱いしかしてもらえないからって諦めてて。そんな中、二人の気持ちに気づいた、妹ラブのうちの祖父がね――」

 その頭の中に、大大的に恋愛小説張りの物語が展開されているのか、うっとりと宙に目をやって夏芽は話し続けている。激動の時代については、受験の時に年号と出来事を憶えた気もするが、守の頭の中には、もうほとんど残っていなかった。


「で、それが、あたしのお祖母さん、ってわけ」

「はい?」

 聞いてなかったのか、と言うように夏芽は横目で睨んでくる。

「そ、その、大叔母さんの、ご主人の従妹(いとこ)の方なんですよね」

 頭の中に残っていた単語を掻き集め、守が急いでそれを組み立てると、夏芽は「あら、意外」と大きな目を見開いた。そしてすぐに続きを話し出す。


 幸せだったのは満州国時代、新京と呼ばれていた長春にいた頃の最初の三、四年だけだった。そのうちに日中間に戦争が起こり、さらには世界規模の大きな戦乱に移行した。

 夏芽の祖母は、戦時下の混乱で夫や娘とはぐれ、乳飲み子の息子を抱えて大変な苦労をしたという。

「祖母は詳しいことをあまり話してくれなかったけど、どうも大叔父が探してくれていたみたいでね、それで何とか日本に戻ることができたのよ。日本の土を踏めた時は、さすがに『ほっとした』って言ってたわ」

 幸いなことに夏芽の祖母の実家は残っていて、両親も健在だった。そこで夏芽の父は日本人として育ち、やがて大人になって夏芽の母と出会い結婚した。


 七十年代に入って日中間の国交が回復すると、どうやって探し出したのか、父の姉である黄珪沙(こうけいさ)が夏芽の家を訪ねてきた。珪沙は、常在と一緒に常在の故郷の吉林(きつりん)へ戻り、ずっと母と弟の行方を捜していたのだという。

 珪沙は、夏芽の父に中国に戻ってきて欲しいと頼んだ。すでに祖母は亡くなっていて、夏芽の父は悩んだ末に、常在の希望通りに中国へ戻ることにしたのだ。この時、夏芽はまだ三つだった。

「この辺りは、日本の支配下にあったでしょ。だから、日本人に対する感情はとてもいいとは言えなかったの。祖父や伯母に、門人の人たちはよくしてくれたけど、その家族となるとなかなかね。言葉も解らないし、習慣も判らない、でも、わたしと父はまだよかったの。祖父の血を受け継いでいるから。でも母は違う。普通の人よ。他に日本人もいなかったし。だから、母は本当に苦労したのよ」

 子供心にも可哀想に思ったし、凄く心配した。

 夏芽はしみじみそう言うと、手の中の濃い琥珀色の液体に視線を落とした。

 目許に暗い影ができ、うっすらと開いた唇には、いつもきれいに塗られている、オレンジピンクの口紅は痕跡しかない。その裂け目が大きくなって息をつく。と、「結局」と夏芽の口が言葉を紡いだ。

「母は中国人という括りにも、黄一族という括りにも入れなかったのよ。だから、わたしが六つの時に、わたしを連れて日本へ戻った。その後、すぐに父が追いかけて来て、母を説得したわ。でも、母は二度と中国へは行かなかったの」

 夏芽は、両親としばらく日本で一緒に暮らしていた。だが夏芽の父は、最終的に中国へ戻って行ったという。

「父は黄一族だったから、たとえ日本で育っていても、父は日本人という括りには入り切れなかったのよ」


 だからといって、夏芽の父は妻子を見捨てるようなことはしなかった。彼はいろいろと悩んだ末、玄明(げんみょう)(つて)を頼りに貿易の会社を始めることにした。

「そうすれば、日本と中国とを行き来できるでしょう。父はそうやって自分の居場所を見つけたのね。でも、そのままいけばよかったんだけど――」

 人生は、そうそう上手くはいかない、と夏芽は大きくため息をついた。

「父はわたしが十歳の時に、わたしを中国へ連れて行こうとしたの」

「いまさら、ですか?」

 夏芽は、眉をひそめたまま頷いた。

「祖父が具合が悪くなったのよ。文革(ぶんかく)の時に受けた傷が原因だったの。父や伯母はあちこち動き回っていたでしょ。っていうか、いたのよ。で、身内の誰かが傍についていてあげないと、っていうの。だから『わたしに』って」

 しかし、一番の理由はそれではなかった。

「たとえ、日本で日本人として暮らしていても、あたしはやっぱり黄一族の娘。『魂庭(こんてい)』の名を継ぐ可能性があったから――」


 直系の子孫がいない時は、血筋の近い者から選ばれる。

 継がせる者は継ぐ者を選べない。

 はっきり教わったわけではないが、五臓神の継承にはこんなルールが存在した。


「他に候補はいなかったんですか?」

「いたわ。大叔母の実子は息子だったから、脾神にはなれなかったけど、その人の子供が女の子だったの。それも二人も」

「じゃあ――」

「その姉の人か、わたしか、って感じだったみたい。でも、伯母が亡くなった時、二人とも四十代だったし、わたしのほうが伯母に近かったから」


 四十を過ぎていたのなら、結婚して子供がいる可能性がある。

 子供が両親の『元気』を受け継いで生まれて来るのなら、未婚で子供がいない者のほうが、分けていない分だけ保持している『元気』も多いのだろう。

 つまり――

 年齢的にも若く、未婚のほうが内気の充実度は高いということだ。


「その人たちに、子供はいなかったんですか?」

「いたけど……二人とも男の子だったのよ」

 守は「ああ」と声を漏らした。


「でも、そんなことを知ったのはもっとずっと後のことよ。伯母が亡くなってからだったわ」

 当時、夏芽はそんなに凄いことになっているとは、考えてもいなかった。なので常在の具合がよくなったのを機に、祖父に『日本へ帰りたい』と言ったのだ。

 たとえ、母が生まれ育った実家にいるからといって、夏芽は娘として日本にいる母のことを放っておくことはできなかった。

 常在は、それを快く許してくれたという。

「けど、日本に帰ったら帰ったで、中国にいる祖父のことが気になって、落ち着いていられないの。結局、あたしも父と同じように、日本と中国の間を行ったり来たりよ」

 夏芽は、人差し指で右と左を交互に指し示した。

「父は一族を捨てられずに最後はここで亡くなったの。で――あたしもやっぱり、ここにこうしているのよねぇ……」


 夏芽の突然の打ち明け話に、守はどう対応していいのかよく判らなかった。

 大変なのは解るし、同情もする。けれどこういった話を聞いて上手く会話を進められるほど、守は人生を経験していなかった。

 だから物凄く困ったあげく、自分でも間が抜けていると思いつつも一般的な感想を述べてみた。

「でも、ものは考えようです。あちこち行けて、羨ましいっす」

「何ですって?」

 途端に夏芽の目つきが険しくなった。この時初めて、守は、自分が酔っぱらいの扱いにも慣れていないことに気がついた。

「羨ましい? 何言ってんの。日本にいれば中国人だと馬鹿にされ、中国にいれば日本人って蔑まれるのよ。それのどこが羨ましいのよ!」

「そ、そんな……」

 夏芽は構わずに捲し立てる。

「それに、何が一番悔しいって、自分でさえ未だにどっちなのか判らないことよ」

「す、すみません」

 あまりの剣幕に、守は思わず謝った。

 すると――

「もしかして、謝れば済むと思ってる?」

「い、いえ……」

「じゃあ、謝るの禁止ね」

「はい?」

 夏芽は、大きな目を眇めて守をしばらく睨めつけてから、突然「いいわ」と視線を緩めた。

「許してあげる。だから――」

「オ、オレは、飲みませんよ!」

 夏芽の申し出を、守は間髪入れずにはねつけた。

 ほんの少しの酔いだとしても、心のたがが外れる可能性があった。



 守は、昨日夏芽に言われたことが、心に重く伸しかかっていた。

 それは、双修法(そうしゅうほう)の話をしている時。

 あの石窟で起こったことが、何だったのか判った時だった。


『あれほどのものは、リアルな行為では得られない』


 そう言われ、守は絶対に思い出してはならないことを思い出した。

 クリスマスイブの夜から三ヶ月。

 あの時のことは、すべて深い記憶の奥底に押し込めたはずだった。

 思い出せば、すぐにでもあそこに戻ってしまいたくなる。

 水蒸気のようなものに包まれた、白く(けぶ)るぼやけた空間。

 あの二人だけの空間で――

 見つめ合い。

 触れ合い。

 (こす)れ合う。

 湿った音すら耳に入らない、閉ざされた世界。


 けれど、それは無理な話だった。

 育はもう、守のことを見ていない。

 育が守ではない誰かに気を取られているのなら――

 無理やり押し倒すことになるのは目に見えている。


 そう思うと、守は育に話しかけられなくなった。



「何よ。あたしにはつき合えないって言うの?」

 夏芽は「もう二十歳になったんでしょ」と、守の前のグラスに残った、最初から気の抜けた、そして今はただの砂糖水になってしまったサイダーを、焼けた甲板に思い切りぶちまけた。空いたグラスにドボドボと琥珀色の液体を注ぎ込み、守の目の前に勢いよく突きつける。「いいです」と頑なに拒む守に業を煮やし、音を立てるように、机に紹興酒の瓶を置いた。


「飲めなくたって『振り』をするとかできるでしょ。どうしてあなたはそう不用意に、人の気持ちを傷つけられるの?」

「あっ……」


 守は小さく叫ぶと口を噤んだ。それは自分の欠点で、前からずっと気にしていたことだ。そんな守に、夏芽はそれ以上無理強いはしなかった。その代わり、自分で守のグラスを飲み干して、さらに文句を言った。

「だいいち、何であたしばっかり人の間に入って、大変な思いをしなきゃならないのよ。守はどうしてあたしのことばっか責めるわけ? あたしが女だから、舐めてるってこと?」

「い、いえ、そんな……」

()いで」

 夏芽は守の目の前にグラスを突き出した。守に酒を注がせて再びあおる。そしてまた文句を言う。ああまで言われては、守も逃げ出すことはできなかった。


 夏芽がぶちまけていた不満は、最後のほうは中国語になっていた。いつの間にか戻っていた皓華が、ときどき相槌を打ちながら親身になって聴いている。ひとしきり話し終え気持ちが落ち着いたのか、夏芽は守に日本語で話しかけた。


「でも、それがあたしなんだから、しょうがないのよねぇ」


 しみじみと言う。

「この『宿命』から逃れることはできないのよ。親を変えるわけにはいかないし、生まれ直すことだってできない。仕方がないの。だから諦めるしかないってわけ。解ってるんだけど……」

 最後のほうは、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。

 夏芽は少しの間黙っていたが、突然ウフフと笑い出した。そのまましばらく笑い続け、守のほうへ向き直った。

「ねえ、守。仕方がないのは、何もあなたや育だけじゃないのよぉ。あたしだってそう。皓華だってそうなんだからね。誰もが何かしら我慢してるの。だから、もういいかげん覚悟を決めなさいよ!」

 口調はしっかりしてるが、守を睨めつける夏芽の目が据わっていた。縁に赤みが差したそれが色っぽく、妙な凄みにもなっている。さっきから、一人称も普段の『わたし』ではなく『あたし』になって、婀娜(あだ)めいた感じだ。

 守は皓華に助けを求めたが、「ソウソウ、決メルト好イ」と皓華も夏芽の後押しをする。

「何だよ。皓華まで……」

 二人に責められた守は、逃げ場がなかった。

「ほ~ら、ごらん。いつまでも、子供みたいに騒いでないで、さっさと諦めちゃいなさいよぉ」

「そんなの――無理ですってぇ」

(チガウ)。守、育ノコト好キ。ダカラ諦メル、好イ」

 抵抗する守に、諭すように皓華が言い含めてくる。

「そっちへ話をもってくなよ」

「守、ワガママハダメ。決マッテルコトニ逆ラウ、ダメ」

「そんなの、オレの勝手だろ!」

 守は、一気に逆切れしそうになった。

「だいたいオレたちは、(りん)師兄(しけい)の話をしてたんじゃ――」


「何言ってんの! 龍煙(りゅうえん)さんのほうがあんたよりも何倍も大変だったのよ!」


 夏芽がいきなり机を叩いて立ち上がった。その拍子に紹興酒の瓶が倒れて、ほとんど残っていない琥珀の液体が、テーブルを伝い甲板にしたたり落ちる。

 守と皓華は呆然と、立ち尽くす夏芽を見上げていた。

「………」

「…………」

「……………」

 夏芽は大きく息をついて、「ごめんなさい」と謝った。空になったビンを手に、ふらつきながら去って行く。


「何? 今ノ、何?」

 突然の展開に、皓華は酷く混乱している。

 夏芽の、龍煙に対する特別な想いに、守は驚きを隠せなかった。


 育といい――

 夏芽といい――

 親子ほども歳の違うあの男に、いったい何があるというのだろうか。


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