五気朝元 1
*中国に関する情報はかなり古いので、全然参考になりません。作者の妄想で補完している部分が多多あります。ご注意ください。
*伯父と叔父は『伯叔父』、伯母と叔母は『伯叔母』とまとめて表記してあります。
*独自研究および個人の勝手な予測が炸裂している部分がありますが、ご容赦ください。
「あのダムの向こうが、松花湖よ」
山道を抜けると突然視界が開け、目の前に大きなダムが出現した。
昨夜、夏芽の家に一泊した一同は、今朝早く市街地の南にある人口湖の松花湖へ向かって出立した。
北朝鮮と中国の国境にある霊峰と名高い長白山。この辺り一帯の肥えた大地は、薬用人参の産地としても世界的に有名だった。
その長白山のカルデラ湖、天池を源とする松花江は、龍のように長い体をくねらせながら南から北へ延びていた。大安近くで東へ進路を変え、哈爾浜の街中を過ぎて牡丹江と出合い、ロシアとの国境に沿って走る黒龍江と合流し、さらにいくつもの河や江を巻き込みながら国境を越えてロシアへ至る。ロシアに入りアムール川と名を変えると、さらに東の果てを目指し流れて行き、最終的にオホーツクの冷たい海に注ぎ込んでその長い旅路を終えるのだ。
松花湖は、その水源近くにある複雑な形をした大きな人工湖だった。
吉林は風水的に優れている。そう含明は言っていた。
そして実際に行って、それを自分で確かめてみろ、とも。
確かにその言葉通り、守はここに来てから、今までに感じたことのない力強い充実感に満ちていた。頭も冴え、戒壇院や寒山寺で感じたような、清浄な気持ちにもなっている。
崑崙山から溢れ出て、長白山へと至るという龍脈のせいなのだろうか。その龍脈から溢れ出た気は、松花湖に集められ蓄えられているという。
夏芽は、ダムの下流に架かる橋のたもとで車を停止した。
「ちょっと、降りてみる?」
雨で水量が増したからか、ダムは大量の水を放出していた。水煙で霞むダムは、遠目に眺めているだけでもその迫力ある姿に感服させられる。ダムが放水するのを見るのが初めてなのか、皓華は目を煌めかせ、興奮した子供のようにキャッキャとはしゃいでいる。守も中学の時に家族で黒部へ旅行に行って以来の光景だ。
解き放たれた水は、激しく身を捩らせながら、皆が立っている橋の下をゴウゴウと音を立てて流れて行った。その水煙の中から天へ逃れるかのように、小さな虹が一つ立ち昇っている。育は独り皆から離れ、それをじっと見つめていた。
松花湖に着くと、湖岸から突き出た桟橋には中型のクルーザーが待機していた。その桟橋のすぐ傍に二人の男が立っている。黒縁の眼鏡の男は、太ってはいないが少しずんぐりとした印象で、もう一人の撫で肩の男は、背も高く痩せ型だった。
近寄るにつれ、二人の顔立ちの違いもはっきりする。
眼鏡の男は顔の輪郭だけでなく、構成するパーツに丸みがあり、どこかしら懐かしい感じがして親しみがもてる。
そして、その隣で柔和な笑みを浮かべる面長のもう一人は――
「あれ、含明さん。いつこっちに来たんだ?」
「哥哥、違ウ」
皓華が即座に否定した。
「じゃあ、誰だよ」
「知ラナイ……」
「ようこそ。吉林へ」
含明によく似た男が、含明以上に流暢な日本語で挨拶した。見かけだけでなく、声とその落ち着き具合もよく似ている。ただ、近くでよく見ると明らかに違う部分もあった。
直線的な生真面目さが残る含明に比べると、男はずっと柔らかな雰囲気だった。若くは見えるが含明よりもかなり年上なのは確かだろう。どれくらいの年齢差かは判らない。もしかすると、同様に若く見える守の父と同じように、一回り近くは上なのかもしれない。
「ご苦労だったな」
含明が歳を重ねたら――そんな見本のような男が夏芽の労をねぎらった。褒められた子供のように夏芽は頬を染め、恥ずかしそうに微笑んでいる。
「林龍煙師兄よ。それから弟さんの龍耀さん」
はにかんだままの状態で、背の高い男と眼鏡の男を紹介する。
すると――
皓華が「アア」と声を漏らし、育はじっと背の高い男を見つめていた。
クルーザーは、雲一つない青い空を切り裂くように、それを映した松花湖を突き進んで行く。無数の飛沫がキラキラ光って、次次と後方へと飛び散って行った。
守は、甲板で照りつける太陽と心地好い風を満喫していた。
あの後、守たちは挨拶もそこそこにクルーザーに乗り込んだ。
案内された船尾側の船室にはすでに食事の席が整えられ、その量と種類の多さを見た途端、守はこの訪問が思った以上に歓迎されていることに気がついた。
視線を感じて振り返ると、龍煙に温かい目で微笑まれる。
昼食会は和やかに終わり、皆は一度解散した。
船内を一通り見学し終わった守は、操舵室の上のコンパス甲板に設けられているテーブルに独り陣取っていた。そこは、突き進んで行く先に広がる青い松花湖と、連なる緑の山山を、唯一一望できる場所だった。
風と陽射しをいっぱいに受け、自然物だけで構成された景色をしばし堪能する。そこに、スイカとトウモロコシが山と盛られた皿を手に皓華が現れた。後ろには、飲み物とコップを入れた木製の岡持ちを持った夏芽が続く。夏芽はつばの広い帽子を風に飛ばされないよう薄地のスカーフで固定し、レモン色の長袖のカーディガンにサングラスと日焼け対策もばっちりだ。
「サア、ドウゾ」
皓華が守の前に皿を置き、指を伸ばしてそろえた手で促した。
中国のスイカやトウモロコシは、日本と同じ名前こそついているが、日本でよく見る物とはずいぶんと異なっていた。スイカは丸くなく瓜のように楕円形で、粒が不揃いのトウモロコシは色も薄くくすんでいる。まさに、スイカよりは『西瓜』、トウモロコシよりは『玉蜀黍』といった感じだ。
けっこう食べてお腹がいっぱいにもかかわらず、守は目の前の皿に手を伸ばす。黄色い果肉のスイカを一切れ掴み、大きく口を開けて思い切り頬張った。と、口内いっぱいに仄かに甘い果汁が広がった。
思ったよりも甘くない。
それが、守が最初に中国のスイカを食した時の感想だった。
よく言えば、より自然に近い素朴な味と言えるだろう。けれど『美味しくない』という言葉でも表現できた。
そんな、微妙な表情の守を見て含明は言った。
「夏の野菜や果物は涼性で体に溜まった余分な熱を瀉し、体を潤す効果があるのです。ですから冷暖房が完備されている日本とは食べる目的が違います」
「それは、養生ということですか?」
「そうです」
よくは判らないが、汗をかいて水分が足りないところに、甘いものを採ったら、血液はさらに粘度を増すということだろうか。スイカは赤い部分よりも白い部分のほうが栄養価が高い、と前に父も言っていた。
そう聞いてから食べてみると、確かに食後のさっぱり感が違うことに気がついた。気のせいかもしれないが、体の中の水分が増えて盛んだった『火』が弱まり、ただ水を飲んだ時より喉の渇きが癒やされている感じもする。
「水よりも吸収がいいのです。汗で失ったミネラルも摂取できますよ」
守は意外にも、この素朴な味わいが好きになった。
「でもさぁ。龍煙さんって、含明さんに似てるよな」
もう一切れと、スイカに手を伸ばしながら守が言うと「ソウソウ」と皓華が何度も頷いた。
「アタシ、ビックリシタネ」
トウモロコシを片手に手を広げ、いかに驚いたのかを大仰に訴える。
「そうね」
濃い琥珀色の液体が入っているグラスを傾けていた夏芽が、すぐさま反応した。
飲み足りなかったのか、夏芽の目の前には『花雕』と名が入った紹興酒の瓶が置いてある。
「龍煙さんと含明さんは、親戚のはずよ」
「えっ、親戚なんですか?」
「遠いね。確か、明の時代だったかな」
「ソウソウ」
夏芽の言葉に、皓華がいとも軽く同意する。
だが明代末期でも、世紀末の今年から数えれば三百五十年以上は前のはずだ。
(そういえば――)
以前、守の母は、維名の家とは四百年ぐらい前からの知り合いだと言っていた。
「でも、そんなに前なら、もう親戚じゃないんじゃないですか」
「あら、そんなことないわよ」
守の文句に夏芽が即座に反論する。
「昔の中国じゃ、名字や祖先の出身地が同じ者同士の結婚は、できなかったくらいなんだから」
「えっ、どうしてですか?」
「親戚かもしれないでしょ。っていうか、この場合は同族って言ったほうが感じが出るかな。同じ祖先を持つ、血の繋がった血族?」
現在は結婚に関してはそこまで禁忌ではないが、血族という概念はなくなっていないという。
「何でそんなに厳しかったんですか?」
「それはね――」
紀元前十一世紀から始まる、周の時代に行われていた、『同姓不婚』という婚姻政策によるのだという。
「結婚制度って、経済の発展と共に発達してきた、って説があったの。要は、自分が築いた地位や財産を誰に受け継がせるか、ってことみたい」
「相続人を明瞭化するってことですか?」
首を傾げる守に、夏芽は「たぶん」と頷いた。
それは、十九世紀に盛んだった社会進化論というものだった。進化と共に不特定多数の乱婚、多対多の多夫多妻、一対多の一夫多妻に一妻多夫、そして、一対一の一夫一婦と構成人員が少なくなっていったという説だ。
「ただ、現在ではそれらしき証拠が発見されていないことから、複数同士というのはなかったともいわれているわ」
古代の婚姻制度についてはまだよく判っていず、仮定はあっても確証はないようだとも夏芽は言った。
「けどね、制度としてはなくても、実際には行われていた可能性もなくはない、という人もいるわ。その人たちの説ではね――」
遥か上古の時代、中国では娘が家と財産を受け継ぐ母系社会で、子供は母親の姓を名乗っていたという。
「上古八大姓というのがあるんだけど、その漢字には必ず『女』の字が入っているのよ。たとえば、黄帝の『姫』とか、炎帝の『姜』とか――」
DNA鑑定などない時代では、親子関係が事実としてはっきり確定できるのは、母子の間だけだった。ゆえに家や財産を引き継ぐのは、娘だったといわれていた。
「で、母系社会では子供は、母親の実家で養育されていたの。周りにいる人たちもみんな母の血縁者だったというわ」
日本の平安時代が、このような感じだったらしい。
「でも、父親は外の人ですよね?」
「ある段階では、うん、そうよ」
何だか微妙な言い回しだった。あえて『ある段階では』と言うのなら、違う段階もあったということか。そう訊くと、「それが――」と夏芽は言葉を濁した。
「どうも、血縁婚というものがあったみたいなのよ」
「血縁婚?」
「同世代間だけだから、『きょうだい』婚って言ったほうがいいかしら」
「え……」
守は思わず絶句した。そんなことは、十八禁のゲームやマンガの世界だけのことだと思っていたからだ。いくら昔の倫理観が今と違っていたとしても、やはり俄には信じがたい。
すると、その戸惑いを見透かしたように夏芽が言った。
「日本人の始祖の伊邪那岐と伊邪那美にも、兄妹って説があるじゃない」
「でも『妹』は『妻』の意味で、本当の兄妹じゃないんじゃなかったでしたっけ」
少ない知識を振り絞って、守も負けじと応戦する。
「あら、そこは『きょうだい』婚があったからこそ、『妹』が妻の意味で使われるようになったって考えるべきじゃないの?」
今の日本では婚姻が禁止されているのは、直系の親族と傍系でも三親等までで、従兄弟姉妹同士からなら結婚できるし、平安時代ぐらいまでは、兄と妹、姉と弟でも、異腹なら結婚できたという。
「ウソでしょう、それ」
「古典の時間に習わなかった? 源氏物語の中にそういう話、なかったかしら」
守は一瞬、高校の古文の授業を思い起こそうと試みそうになった。だがすぐに、それよりしなければならないことがあることに気がついた。
もし、その理屈が通るのだとしたら――
「だったら、『姉』にも妻の意味があるんですか?」
「ううん。『姉』は、母よ」
「はい?」
年上の女のきょうだいを表す『あね』という漢字には、『姉』と『姐』があり、『姐』の字は、古代の蜀では母の意味で使っていたという。
「だから『姉』の字に妻って意味があったら、それこそ大問題なのよ。血縁婚って言ったって同世代間限定で、最初から親子は駄目なんだから!」
「は?」
夏芽の慌て方は異常とも思えるほどで、今までの態度に比べると意外とも言っていいほど差があった。おそらく、守と夏芽の間に何か認識の違いがあるのだろう。
母は駄目でも姉妹ならいい理由。
(その辺りから探るべきか――)
「じゃあ、何で兄弟姉妹ならいいんですか?」
夏芽が皓華に説明するのを待って、守が声をかけた。
探ると考えていたはずなのに、守がした質問は、何の捻りも工夫もない、限りなくストレートなものだった。守の葛藤を知ってか知らずか、「それはね」と夏芽はすんなり話し出す。
「群婚というものがあったらしいの」
「『ぐんこん』?」
群婚というのは、複数の男と複数の女が対等な関係を結ぶ、多対多の婚姻形態のことだった。現在主流になっている、一夫一婦制の前の段階に相当する対偶婚の、さらに前の段階ともいわれていた。
「さっきも言ったけど、複数同士というのはなかったともされているけど、あると仮定している人たちもいるの。その人たちは群婚のグループ構成に、兄弟と姉妹、という類型があって、それは伯叔父や伯叔母という言葉から判るって主張しているのよ」
日本では親の兄弟姉妹を表す言葉だが、中国では、伯叔父は父の兄弟、伯叔母は父の兄弟の配偶者のことで、父の姉や妹、母の兄弟姉妹は含まれていないという。
「もともと字なんかでよく見る『伯』『仲』『叔』『季』の漢字は、兄弟の順番を表しているのよ。『伯』が一番上で、『仲』は二番目、『叔』が三番目で、『季』が一番下ね。だから中国では、父の兄弟は『伯父』と『叔父』だけでなく、『仲父』と『季父』もあったのよ」
そして夏芽は、それぞれの本義は『伯』は長、『仲』は中、『叔』は拾うだが、少の仮借として使われ、『季』はもともと稚の下に子と書き、少、幼、稚、の意味だと付け加えた。
「仮借って、音があって字がない言葉に、借りに当てた漢字のことでしたよね」
夏芽は「そうよ」と頷くと、「では、ここで問題です」と大きな目を輝かせた。
「何故、父の兄弟を表す言葉に『父』という字が入っているのでしょう、か?」
夏芽は最後の音と共に、立てた人差し指をワイパーのように動かし、可愛らしく首を傾げた。それを見ていた皓華が一拍遅れて後に続く。眉をひそめ、「はい?」と聞き返した守は、父の兄弟だから、と言おうとしてハタと止まった。
わざわざそんな質問をしたということは、たぶん夏芽が望む答えはそんなものではないはずだ。ならば、最後に言った『伯』『仲』『叔』『季』の本来の意味が、重要になってくるのだろう。だとしたら、もともとそれらの漢字には兄弟という意味は含まれていなかったのかもしれない。
(なら――)
拙い知識の中、守はそれぞれを直訳してみた。
伯父は、一番年『長』の、父。
仲父は、真ん『中』の、父。
叔父は、年『少』の、父。
季父は、一番『幼』い、父。
もちろん、何かしらの文字が省略されている可能性もあるのだが――
守が悩んでいる間い、夏芽が皓華に問題を訳して聞かせた。皓華はすぐに判ったようで、腕の時計を見、少ししてからいきなりカウントを取り始める。
「な、何だよ、皓華」
焦る守に「サン」、「ニィー」と追い込みをかける皓華。「イチ」と言った途端、突然守の頭に『群婚』という言葉が浮かび上がった。理由はまったく思いつかないが、「ゼロ」の声と共に、そのままその言葉を問いかける。
途端に皓華がつまらなそうに顔を背け、それくらい判って当然、と夏芽は満足げな微笑みを浮かべた。
「群婚では、グループ内の男性は全員が子供たちの『お父さん』なの。母親は誰か判るけど、父親は誰か判らないんだから、必然的にそうなっちゃうわよね。それでその説では、父たちを年齢順に『伯父』『仲父』『叔父』『季父』って、呼び分けていたんじゃないか、っていうのよ」
「つまり、『おっきい父ちゃん』とか、『ちっちゃい父ちゃん』ってことですね」
ならば父たちの配偶者の母たちも、年齢順に『伯母』『仲母』『叔母』『季母』と呼ばれて可能性がある。
伯叔母は、伯叔父の配偶者。
けれど――
父たちの配偶者が父たちの姉や妹なら、両親の兄弟と姉妹は全員が皆、伯叔父と伯叔母ということになるのだ。
松花湖は現在スキーリゾート地になっているようです。昔行った時は、ダムと自然以外ほとんど何もありませんでした。ですので、作中もそれに準じています。時の流れとは、恐ろしいものですね。




