乾坤交媾 大周天 17
大移動します。
*中国に関する情報はかなり古いので、全然参考になりません。作者の妄想で補完している部分が多々あります。ご注意ください。
*環境、機種によっては表示されない、第三水準の文字を使っているところがあります。
『擎』(けい)。『敬』の下に『手』で、ささげるという意味です。
翌朝早く、守と育は国内線で上海から長春へ移動した。
長春は旧満州国の首都で、当時は『新京』と呼ばれていた場所だった。満州鉄道やその広報部の撮影所など、日本に関する事物も多いという。
中国の東北地方は、上海や北京などの大都市に比べると外国人観光客は珍しく、日本人だけで行くよりも、一人でも中国人がいたほうがいいとの配慮から、長春へは皓華が同行してくれることになった。
「含明さんは、どうするんですか?」
「用事が済み次第、追って行くことになるでしょう」
そして、含明は長春や吉林で注意することをいくつか話した。
外国人観光客が吉林へ行くには、北京や上海などの大都市から国内線で長春へ飛び、列車や車などで移動するのが普通だった。だが、最近では大連から寝台車で入ることもできるようになっているという。
幸いなことに、守たちは朝一番の長春行きの飛行機に乗ることができた。前日に整備不良のために欠航したものの臨時便だった。
皓華は非常にラッキーだと喜んでいた。何より皓華が喜んだのは、遅延、欠航が当たり前の中国の国内線で、最初の便はめったなことで欠航になったり、出発時間が遅れたりすることがなかったからだ。
飛行機は定刻通りに長春に到着した。守たちは市内で簡単に食事を済ませると、含明の知人から車を借り、真っ直ぐ吉林へと向かった。濃紺の車は小型のワゴン車で、車体の前面には、日本の若者にも人気のドイツ車のエンブレムがついている。全体的には古臭くごつい感じだが、いろんな所で廃車になった物を持ってきて使ってる、と前に夏芽は話していた。
長春の市街地を抜けると一気に建物が疎らになった。豊かな自然の中、車は軽快に走行を続けていく。しばらく走ると急に視界が開け、前方が明るくなる。
「好! 見テ!」
二夜続けてよく眠れずにウトウトする守に皓華が声をかけた。
「見テ! スゴイ、漂亮!」
守が身動ぎして目をこする。
と――
一瞬のうちに眠気が吹き飛んだ。
「うわぁ! こんなの見たことないぞ」
それに続く育の声も弾んでいた。
「うん。こんなに綺麗なのは初めて」
窓の視界いっぱいに、金色の絨毯が広がっていた。
道の左右には、遥か地平の彼方まで続くトウモロコシ畑。
他のものは、いっさい見えない。
時の流れが止まったようなその光景は、永遠に続くかのようにも思える。
その時、皓華が育に何かを話しかけた。
助手席に座っている育が、守のほうを振り向いた。
「あの山を越えると、吉林」
長く真っ直ぐ延びる道の行く手を阻むように、育は地平線すれすれに見える濃い灰緑を指差していた。その顔には、怒りなどの負の感情は微塵も見えず、晴れ晴れとしている。
守は、不意に夏芽のことを思い出した。
(どうしてんのかなぁ?)
あんなに怒っていたはずなのに――
不思議なことに、夏芽に対する怒りが全然湧いてこない。
感情というものには、持続性がないのだろうか。
確かに怒っていたはずなのだ。
だからこそ育の家も出た。
だのに、こうも雄大な景色の中では、そんなものは初めからなかったかのように消えてしまっている。
昨夜あんなに怒っていた、育でさえそうだった。
どうしてなのだ。
あの『怒り』は、どこへ行ってしまったのだろう。
そして守は考える。
(そもそも『怒り』とは、何なんだ?)
目の端に、トウモロコシ畑の合間にある、色褪せたレンガ造りのこぢんまりした民家が映り込んできた。大きな水溜まりのような池にブタ、ニワトリ、アヒルなどの家畜が我先にと群がっている。
長閑だった。
ふと、笑みが零れ落ち――
そして、どうでもよくなった。
皓華は、車を路肩に止めると二人に降りるように促した。
「景色好イ。気持チ好イ。ココロノ調整、ネ」
皓華はトウモロコシ畑を指差し、その手を自分の胸に向けた。
「『感ジ』覚エル。後デ思イ出ス。気持チ好イコト思イ出ス。自分デココロ、調整デキル」
「ふ~ん。そうやって、感情をコントロールするんだ」
皓華は大きく頷いて、さらに育を傍に呼んで話し出した。
「これは儒家に伝わる調整法なんだって。昔から多くの人が綺麗な風景を観て感動すると、その感動を留めておくために、絵に描いたり、詩にして書に認めたりして残しておく。その行為自体が心の調整になる」
「うん。確かに絵を描いたり、字を書いたりすると気持ちが落ち着くことはあるよな。書くことに集中して、何も考えないのがいいのかも――」
すると、皓華がさらに続ける。
「それだけじゃなくて、風景を観た時の心境に戻ることが大切なんだって。絵や書を観賞することによって、その心境に戻ることができる。これも心の調整になる」
「心境、ねぇ」
「優れた絵画や書、詩歌が多くの人を感動させることができるのは、観た者を作者のその時の心境に引き込むことができるから。そこに行ったことがなかったとしても、作者の心境、その『境地』に入り込むことで感動を伝えることができるから。だからこそ優れているともいえる」
皓華が、ニコニコして先を続けた。
「儒家では、『境地』というものを大切にしてるんだって。これはそこに至るための一つの手段」
「ふ~ん」
守がしきりに感心していると、皓華はすでに道端の物売りに向かって駆け出していた。いくつもの籠に何種類もの果実や野菜が山と盛られている。皓華は物売りの男と何か話しながら、そのうちのいくつかを指差した。
「なるほど。美味いもん食うのも、心の調整か」
「それは、養生でしょ」
「でもさ、『美味しい境地』ってもんも、あってもいいと思うけどなぁ」
「え? あ、うん、そうかも」
屈託なく明るく笑った育は、皓華の所に駆けて行った。そして一緒にあれこれと質問を始める。
守は、蘇州の最後の夜から育と自分の間に、今まで以上に見えない厚い壁ができたのを感じていた。怒りに任せて言った言葉の中に、その障壁を作ったものがあるはずだ。
もしかしたら、育は本当に含明のことが好きなのかもしれない。
気がつくと、育はいつも含明を見つめている。
振り払うように頭を振ると、守は皓華の言葉を思い出し、周りをぐるりと見渡した。さっき教わったばかりではないか。心とは、自分で調整するものだと。
そして、しばしの間風景を堪能する。
緯度が高いせいなのか、上海に比べると夏の陽射しがこころもち柔らかい。
明るい黄金色の穂をつけたトウモロコシの上を、そよそよと風が渡ってくる。
金色の波を一瞬ざわめかせたそれは、守の頬をフワリと撫で通り過ぎる。
陶酔するような黄金の輝き。
それが、守のすべてを包み込んだ。
呼気と共に、体の中に金の光が満ちていく。
すると――
唐突に会陰が震え動き始める。
どこからか溢れ出る恍惚感。
金の光が紫色に変わり、快感はどんどん強まっていく。
それは、興奮が高まった時のアレに似ている。
いや、あの時以上か――
「行っちゃ、だめ!」
育の声が遠くに聞こえた。
「丹田に意念を集中して、ゆっくり戻ってきて……」
「!」
冷たい指先が腕に触れ、守はその冷たさに微かに喘ぐ。
「オ、オレは……」
「大丈夫」
「な、何があったんだ? オレの中に金の光が入ってきて、それで……」
「もう、大丈夫だから」
*
離れがたい気持ちを断ち切って、ポンコツのワゴン車に戻った守に、横になって少し眠るように、と皓華は言った。
「寝ナイ、火、上ガル。少シ寝テ『陰』養ウ、好イ。OK?」
だが、守はすぐにそれには従わずに状況の説明を求めた。仕方ないと話し出した皓華の言葉を育が通訳してくれる。
「あんたは景色を見ているうちに深い入静状態に入った。これ以上入り込んだら帰って来られなくなるほど深く――」
「帰って来る?」
「そう。それに……えっ、何? 一本の柱が――天を擎げる?」
怪訝な表情で見返す育に、皓華は説明してニッコリ笑った。
育が途端に顔をしかめる。
「何だよ?」
「それが……」
育は凄く困っている。しばらくして小さくため息をつくと、覚悟を決めて話し出した。その声はこころもち上擦っているような気もする。
「『一柱擎天』。つまりその――勃起しなかったかって。性的な快感があったはずだって、皓華が……」
今度は、守が困る番だった。
我に返ったあの時、確かに下半身の違和感には気づいていた。今でもまだ、少し普通じゃない感覚が残っている。皓華がいなければ、育と二人きりだったのなら、まずい状況に陥っていたかもしれない。
けれど、それを正直に言うことは憚られた。
「うん、まあ……」
と、返事はひどく曖昧なものになった。ところが皓華は特に突っ込みも入れずにあっさりと次の説明へと移っていく。
「どんなに気持ちがよくたって、『行ったら、帰ってこなければならない』って。『人間でいたかったら』――」
「人間で?」
「そう。あたしたちは人として、人の世に生きてるんだから」
女たちの話し声で目が覚めた。
どのくらい眠っていたのだろう。気持ちはずいぶんと落ち着いて、体の違和感も消えていた。守は改めて、皓華の言うことを素直に聞いてよかったと思った。
そのまま様子を見ていると、育と皓華は込み入った話をしているのか、まだ守が起きたことには気づいていない。さっきのように気を使わせるのも悪いと思うと、守もあえて声をかけたりはしなかった。
中国語の中に日本語の単語がちりばめられた不思議な会話が続いていく。守にはほとんど理解できなかったが、時たま零れ落ちてくる日本語の単語から、どうやら武志の話をしているらしいことだけは判った。
武志の暗い顔が、守の脳裏に浮かび上がる。
(あいつは、いつだって暗い顔をしていた)
けれど――
(ちびマルの話をしている時だけは、あいつの顔は穏やかだった)
たぶん、あれが武志の本質なのだろう。
(けっこういいヤツなのかもな)
あの時、守はそう直感した。
ならば――
友達になれるかもしれない。
去年の夏からの様様な出来事で、守は自分がいかに家庭的に恵まれていたのかがよく解った。それは父や母が護ってくれているお蔭なのだ。
幸せな人間は、残酷なもの――
武志がそんな守を覚めた目で見ていたわけも、今なら十分に理解できた。




