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そらつかい『虚』  作者: カルヰアオ
第七章 乾坤交媾―大周天―(天と地が交じり合う)
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乾坤交媾 大周天 16

移動します。

 目が覚めて、守が身支度を調え一階に下りた時には、太陽はすでに南中しようとしていた。

 昨夜一晩、守は眠れぬままに時を過ごした。あの氷柱(つらら)のように冷たい育の視線を思い起こすと、残暑が厳しいにも関わらず、心が凍てつき、さらに体まで凍えそうになってしまう。それでも陽が昇り始めた頃にはそれも少しずつ溶け出して、守はようやく微睡(まどろ)めるようになり――

 そしてうっかり寝過ごした。


 リビングには人の気配はなく、食堂には育しかいなかった。手際よくテーブルのセッティングをしている育に、守は「あのさ」と遠慮がちに声をかけた。さすがに謝った方がいいというのが、夜通し考えた結論だった。「おはよう」と応じた育の態度は、いつもと変わらないようにも見える。

「昨日は……」

含明(がんめい)さんは、朝早く電話があって出かけたから」

「え? マジで?」

「うん、それから――」

 守が話そうとすると、その言葉に育は言葉を被せてくる。どうもまだ怒っているようで、守とは話したくないらしい。そのうち育は、戸惑う守を置いてキッチンへ入って行った。同時に高温の油に何かを放り込んだような豪快な音が聞こえ、香ばしい匂いが漂ってくる。

「あれ? 含明さんがいないってことは……うっ!」

 前菜にスープに饅頭(まんとう)にお粥。出来上がったものを育が次次と運んでくる。最後にメインディッシュの蘇州名物、川魚の餡かけの大皿を手に皓華(こうか)が現れた。

「何? 守?」

 守の顔を見た途端、何か言いたいことがあるか、と皓華が挑戦的な視線を送ってきた。守から視線を外さずに、山に盛られた皿をテーブルに置く。その拍子に餡かけの餡が跳ねて白いテーブルクロスに薄茶の染みを作った。

「文句アル。食ベナイ、イイ」

「な、ない、です」

 皓華はこの上もないほど満面の笑みを浮かべ、満足そうに頷いた。

「けどさ、こんなに食えんのかぁ?」

 皓華はそれには答えずに、無言で早く食べろとせっついてくる。

「守、後片ヅケ」

「解ってるよ。皿ぐらい洗うさ」

「OK。ソレカラ…………」

 皓華が早口の中国語で話し出し、守は育の通訳を待った。

「その後ゴミをまとめて、終わったらシーツを洗って、自分が使った部屋の掃除をして欲しい、って」

「え~っ、掃除? 今日じゃないとダメなのか?」

「ダメ」

 短くきっぱりと皓華が言った。

「何で?」

「あたしたちも、夕方には上海に戻るから」

 育が皓華の後を引き継いだ。


 すべてを終わらせ帰路に就いたのは、まだ日が傾く前だった。皓華の運転に助手席に育が座り、守は後部座席に一人陣取った。

 女たちは、夢中で中国語の会話を楽しんでいる。育の通訳は全然ない。判る単語もあるのだが、早すぎて初心者の守にはほとんど意味が取れずに、独り寂しく取り残されたかたちになった。

 やがて中国語の音声がいい子守歌となって、守に睡魔が訪れた。昨夜よく眠れなかったからだろう、引きずり込まれるようにあっという間に眠りに落ちた。


 爆睡していた守が皓華に叩き起こされたのは、含明の家の前だった。着いたのは夜の七時近く。どうやら帰宅の混雑に巻き込まれてしまったらしい。

 到着予定より遅れたはずなのに、食卓にはできたての温かい食事が並んでいた。遅れまでも計算に入れる含明の洞察力に、守はただただ感嘆するばかりだった。

 美味しそうな匂いに、思わず腹の虫がグウと鳴く。昼にあれだけ食べさせられたにも関わらず、皿洗いに洗濯、掃除など、その後の作業のお蔭できちんとお腹は空いていた。

 守は早速席に着き、熱熱の小籠包を口に入れた。熱い肉汁と生姜の香りが口いっぱいに広がっていく。皓華の料理では満腹感はあっても、これほどの満足感は望めない。あらかた食事がなくなった頃、「とてもいい知らせがあるのです」と含明が話し出した。

武志(たけし)は、吉林(きつりん)にいるそうです」

「吉林?」

「ええ。中国の東北地方で、朝鮮半島の北に位置する所です」



 その夜、リビングのソファーに横になっていた守は、なかなか寝つけずにいた。いろいろ話していて遅くなったので、守と育は留学生楼の自分の部屋には戻らずに、含明の家に泊まったのだ。色むらのない真っ白な壁が、月明かりを受けぼうっと明るく光っている。

「中国のマンションは、コンクリートの打ちっ放しで売り出されるのです」

 含明は、前にそう言っていた。

「内装は家を買った者が、各各自分の手で自分の好みに作っていきます。住む者の趣味がそのまま反映されるので面白いですよ」

 含明の家は白い壁に、落ち着いた色合いだが光沢のある中国風の家具が置かれ、床にはブルーと焦げ茶を基調とした高そうなペルシャ絨毯が敷いてあった。

 マンションの外観や薄暗い階段室を見た限りでは、想像がつかなかないほど立派な家だ。驚く守に「中国人、外ヨリ中、大切二スル」と皓華が胸を張ってみせる。「要は、外見よりは中身ということです」と含明が簡単に補足した。



 そんなことを考えながら何度目かの寝返りを打った時、女たちが寝ている部屋の扉が音もなく開いた。一瞬漏れ出た光の中に、青白い育の顔が覗く。

 守は自分の足元を、月明かりを浴びて通り過ぎて行く育の姿を目で追った。

 暗く翳った顔。

 力のない細い肩。

 育がキッチンへ入ると電気が点き、パタンと冷蔵庫を閉める音、続けてトクトクとミネラルウォーターを注ぐ音が聞こえてきた。

 守は体を起こして、キッチンまで移動する。

「眠れないのか?」

 声をかけると驚いたのか、育の肩がビクリと震えた。

「わりぃ、驚かしたか?」

 振り向く育に少しおどけたように守が言うと、小さく「大丈夫」と返ってきた。居間に面する、二つの扉の向こうで寝ている含明と皓華を気遣ってのことだろう。

「あのさ……」

 守はキッチンの入り口のから一歩近づいて、育に倣って声をひそめる。

「見つかってよかったよな、維名(いな)

「うん……」

 だが「うん」と答えたわりに、育は全然嬉しそうじゃない。

「何を心配してるんだ?」

「え?」

 ほんの一瞬守を見、育はすぐに視線を逸らせた。瞳は左右を漂うが、けっきょく「何でもない」と育は答えた。守には話さないと決めたのだろう。一気に水を飲み干すと軽くコップを洗い「もう寝るから」と去って行く。

 守は、とうとう昨夜のことを謝ることができなかった。



 育が部屋に戻っても、守はやはり眠れなかった。それは車の中で爆睡したせいだけでなく、育の態度が解せなかったからでもない。夕食の時の含明の言葉が、妙に気になっていたからだ。


「武志が吉林にいることは何も不思議なことではありません」

 夕食の後、含明は確かにそう言った。

「吉林は、上海よりもずっと安全ですからね」

 守はその『安全』というところに引っかかりを感じた。あんなに食事を美味しく頬張っておきながら、守は昨日から、含明の言葉を素直に受け取ることができないでいる。

「どうして、上海より吉林の方が安全なんですか?」

 守が改めて訊く。

「吉林は四神相応(しじんそうおう)、つまり、風水(ふうすい)的に護られた土地なのです」

「『風水』ですか?」

「そうです。四神のことはご存じでしたね」

 守は「はい」と言い、育は黙ったまま頷いた。

 風水とは、大地を流れる気脈(きみゃく)である龍脈(りゅうみゃく)を観、それを利用する方法だった。


祖山(そざん)から流れ出た龍脈の気は龍穴(りゅうけつ)というパワースポットから吐きだされ、その周囲に大いなる発展をもたらす優れた土地を形成します。風水はそんな場所を探し出し、判断するための方法で、単なる占いではありません」

 さらに、家や都市を造るよりも、祖先を祀る墓である『陰宅(いんたく)』を造るため、より風水は活用されていた、という。儒家の思想が広く定着している中国では、祖先を明堂(パワースポット)に祀ることで、転じてその子孫にも繁栄をもたらすという考え方だった。


明堂(めいどう)の周りは、気が散じてなくならないように、『()』というものに囲まれてる必要があります。東西南北にある『砂』を特に『四神砂』と呼び、青龍(せいりゅう)白虎(びゃっこ)朱雀(すざく)玄武(げんぶ)の四方を守護する四神で表しているのです」

「その、『砂』というのはどんなものなんですか?」

「北の玄武は主山と呼ばれ、必ず山でなければなりません。東西の青龍、白虎は、主山よりも低い山。南の朱雀は山であれば、大きさや位置によって案山(あんざん)朝山(ちょうざん)と呼び分けられます。ですが、やはり主山を凌いではならないのです。また、河川や池、湖であれば、水朱雀といい特に吉相とされています」

 水場には、龍脈の気を溜めて活性化する作用があるという。

 動かぬものの代表の山と動くものの代表の水。その陰と陽が和合して、すべてを生成するエネルギーになるのだ。

「それが、四神相応ということなんですか?」

 確認するように訊く育に、「そうです」と含明。

 また別の説によると、四神は、北の山、東の川、西の街道、南の湖に住んでいるという説もあった。

「私が今説明した条件はかなり大まかなものです。実際に判断を行うには、さらに様様な条件を、事細かに見る必要があります」

 そして、これらの条件に見合った場所を『風水的に護られた土地』といい、そんな場所はなかなか存在しなかった。

「それで、吉林は四神に護られてる、と?」

「吉林の場合、(かわ)の流れが南北に逆転していますが、概ねあっているのです」


 食後のお茶として、含明は八宝茶(はっぽうちゃ)を用意していた。今回は蓋つきのカップではなく、耐熱ガラスのポットからそれぞれの湯飲みに注ぐ形で、前に育に供した物とはブレンドが違っているという。薄いオレンジ色の、水色(すいしょく)の中に浮かぶ小さな白菊は、すでに湯の色に染まって沈み、元の色を留めていなかった。


「中国の国土には三つの龍脈が流れています。すべての源である崑崙山(こんろんざん)から流れ出る龍脈は、北龍、中龍、南龍と三つに分かれて中国大陸を東へ向かいます。黄河の北を通った北龍は、東の果てまで来ると南へと進路を変え、吉林の南方、北朝鮮との国境にある長白山(ちょうはくざん)に到達します。この長白山は韓国では白頭山(はくとうざん)と呼ばれ、朝鮮龍脈の祖山(そざん)とされているのです」

 吉林は、まさにその龍脈上にあるという。


「前にも言いましたが、武当派(ぶとうは)の武術はここより西の武当山で成立しました。長い歴史の間に、様様な理由で武当派の各門派が各地へ散って行きました。我我の門派は、北の吉林で発展したのです。それは吉林が中央から離れた、山深い辺境にあるだけでなく、風水的にも優れていたからでした」

 この武当派の一門派は武術的な訓練、主に筋肉や筋、内臓等、肉体の目に見える部分だけでなく、体内の気脈や十二経絡(じゅうにけいらく)内丹(ないたん)など、目に見えないものの鍛錬をも行い、さらには、道、仏、儒という三家の思想を取り入れ、心をも修めていく。

 その方法は多岐に亘り、非常に複雑ですべてを修するのは困難に等しいという。


 含明は八宝茶を一口口に含んでから、「守には龍井(ロンジン)の方がよかったようですね」と少しだけ眉をひそめた。

道家(どうか)の養生の思想は、まず場所を選ぶことから始まります。気場を見るのはもちろんですが、環境もまた重視されます。上海も風水的には決して悪いわけではないでしょう。そうでなければ、これほど発展することもなかったはずです。ですが、たとえ風水的に優れていたとしても、人が多く雑念の強い場所は、鍛錬を行う環境としては適切ではないのです」

「吉林は、そんなにいいんですか?」

「吉林はいいのです」


 そして、含明は意味ありげに微笑むと最初に、これは本当かどうか判らない、と言い置いた。

「実は、吉林は大きな丸い銅板の上に形成された街だと言われています」

「銅板ですか?」

「そうです。地下に埋まっているらしいのです。ですが――」

 吉林で実際に銅が採掘されているという事実はないという。

「ただの言い伝えの類いでしょう。単に、木火土金水がすべて揃っていて、暗に『優れている』と言いたかっただけかもしれません」

 それでもそんな言い伝えができるくらいなら、多くの人が『良い場所』と認識していたということになる。


「まあ、いくら言葉で言っても実感は湧かないでしょう。ですから一度行って体験してみるといいですよ。実際にその地に立てば、今のあなた方ならきっと解るはずです」

「オレたちがですか?」

「ええ。あなた方なら、必ず」


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