乾坤交媾 大周天 15
「そういえばさ――」
重苦しい沈黙に耐えきれずに、話し出したのは守だった。窓から離れたせいなのか、あれほどまで騒がしかったカエルの声は、もう耳に入ってこなかった。
「玄明のお母さんって、どんな人だったんだ?」
話の繋ぎに何気なく訊くと、育は困ったように俯いた。
育の反応が意外だったので守は少し驚いた。だが、そのまま黙ってじっと待つ。
少しして、育は顔を上げると重い口を開いた。
「あたし、母のことをあまりよく憶えてない。母を知ってる人は、最初にあたしを見ると必ずびっくりして、『よく似てる』って言うの。でも、そのうちに言わなくなる」
「何で?」
「母は微笑むだけで人を幸せにする人。でも、あたしは――」
育は小さく「そうじゃないから」と言って目を伏せた。
(参ったな……)
状況を好転させるどころか悪化させてしまった。度重なる失言に、自分はやはりバカだったのか、と守はほとほと嫌気が差す。
けれど同時に、自分の心が別の方向へ動き出すのも感じていた。
守は父よりも母に似ている。子供の頃からよく人に、お父さんに似ていれば、と言われていたのだ。
父の元生は、眉目秀麗を絵に描いたような男だった。甘からず、渋からず。濃くもなく、薄くもなく。さらに顔だけでなく全身が驚くほど絶妙なバランスで整っていた。また頭もいいし、体も利く、どんなこともそつなく熟し、何をやっても様になる。含明曰く『爪を隠した能ある鷹』だ。
だが、母に言わせれば『性格だけは、玉に傷』らしい。けれどその性格だって、ちょっと変わっているというだけで、そこまで悪いとも思えない。
そんな父に、背の高さ以外は人並みの守は密かにコンプレックスを抱いていた。
『少しはお父さんに似ればよかったのにね』
実の母でさえもそう言った。
けれど――
(似てて比べられるのも辛いもんなんだな)
守はしみじみそう思う。
(子供が悪いわけじゃないのに。そんなことは、自然が勝手に決めることだ)
そんなことを考えていたら、育が突然「けど……」と言った。
「あたし、母が優しく微笑んでいる姿を一つも憶えていない。いつも思い出すのは寂しそうに誰かを待っている姿。それに――」
「それに?」
「母が亡くなった時のこと」
何もない空虚な空間に、育は視線をさ迷わせた。やがてさ迷っていた視線は光を失い、深い淵を覗くかのように育の内側へと向けられた。
「あの時、急にあたしの体の中で何かがざわざわとざわめき出した。水面に小石を投げ込んだように、最初に小さな波紋が一つ起こった。それが立て続けにいくつもいくつも増えていって、波紋と波紋が重なって、互いと互いが干渉し合って、さらに大きな波ができた。その波はどんどん大きくなって最後には荒れ狂うほど。息ができないくらいに苦しくって、波に飲み込まれて死んでしまうかと思った。けれどそれはある時を境に急に止まったの。あたしの中の湖は、何の音も発することなくシンと静まり返った。表面もガラスの板みたいに固まって、微動だにしなかった」
育が突然顔を上げた。
その目には輝きが戻り、焦点は守に合わせられていた。
「ねえ、あんたは? あんたは、何も感じなかった?」
縋るような視線だった。
「夏芽さんは、突然体の中に風が吹き荒れたって言ってた。急に横殴りの風が吹いて、ガラス質の砂が渦巻いて、舞い上がって、やっぱりとっても苦しかったって。苦しくて苦しくて、それが収まった時に、物凄く充実してるのを感じたの」
その時、夏芽は伯母の珪沙が死んだのを知ったのだという。何の根拠もないはずなのに、確信に近いほどはっきりと。
「皓華は、自分の中に金色の光が満ち溢れていくのを感じたって言ってた。それが中でいっぱいになると、急に固まりだしてどんどん重くなった。立っていられなくて座り込んでしまうぐらい苦しくて。そしたら、やっぱり突然終わったって。含明さんには訊いてないけど、きっと何かがあったはず。あんたは? あんたは、どう感じたの?」
「そ、そんな。うちの親父はまだ生きてんだぞ。だから、あんたたちとは全然違うよ……」
けれど守は思い出していた。育と石窟に閉じ込められていたあの時。体中が熱くなって、炎が猛り狂っていた。あれはいつもの冬至とは違い、とても激しく苦しいものだった。
燃え盛る炎は体の内側を舐め尽くし、脂の焦げる臭いさえしてきそうな――
守はそこで無理やり考えを打ち切った。たった二人きりのこの状況で、これ以上あの時のことを思い出すのは危険だった。
「それより――」
守は急いで話題を変えた。
「力の継承ってヤツは、自然に起こるもんなのか?」
「うん。自分では選べないんだって。継いで初めて判るの」
「それは受け手のほうだろ。そうじゃなくてさ、継がせるほうは選べるんじゃないのか? どのタイミングで、誰にとか。直系の子孫とか言ってるけど、本当は自分の意思で選べるんじゃ……」
「それは、違うと思う」
「何で?」
「だって、元生さんはあんたに継がせたいと思ってなかったもの。『できれば誰にも継がせたくない』、そう言ってた。だけどあんたは『守霊』だもの――」
育のその言い分は、守をひどく不快にさせた。
何故か守は、育が自分の父の名を呼ぶのが好きではない。それに、思った以上に育は父と親しいようで、それも何だか気に入らない。
「オレが継いでるかどうかなんて、どうして判んだよ」
だから、ついつい口調がきつくなる。愚かなことだと解っていても、守はそれを止められなかった。
「あんたの中の力は心神そのもの。それは腎神のあたしが一番よく知ってる」
いきなり決めつけるように断定されてムッとした。
と同時に、突然守の頭の中にある言葉が思い浮かぶ。
『心腎相交』
時に『火』と『水』の交わりは、男女の交媾にたとえられる。
(――って、冗談じゃない……)
閃いた結論を、守は気のせいだと無理やり頭の中から追い出した。そして動揺する自分を立て直そうと、育に「あのさ」と声をかけた。
もう、バカだと罵られようとも構わなかった。このまま負けっぱなしでは自分の気が収まらない。
そして――
守はこれ以上負けないよう、さっきからずっと気になってたことを訊くことにした。たぶんこれを訊いたなら、勝てるだろうという質問を。
「何?」
今までと違い不機嫌さを隠そうとしない守に、育も対抗するように短く応じる。
「オレの親父に会ったことあんのかよ? それにさ、何であんたがオレが知らないオレんちの事情を知ってるわけ?」
育は急にハッとすると、途端に「それは――」と口籠もった。
守の質問は、何かよく判らない的のど真ん中を射抜いたようだった。育の反応に気をよくした守は、心の中で小さくガッツポーズを作るとさらに畳みかけた。
「なあ、まだ何か、隠してんだろ」
「別に、隠してたわけじゃないけど……」
「『ないけど』、何だよ?」
「言ってないことはある」
(そういうのを、『隠してる』って言うんだろ)
だが思っただけで口にはせず、守は早く言えと言わんばかりに「で?」と短く先を促した。
「あんたのお祖父さんのこと」
「うちの祖父さんが、どうしたんだよ?」
「玄明の家にいるの、知ってる?」
「えっ? 生きてんのかぁ?」
守は、父方の祖父はもうとうの昔に亡くなったものだと思っていた。急いで記憶を点検しても、祖父に関する情報はほとんど出てこなかった。
「維名の祖母が事故に遇って亡くなった時、あんたのお祖父さんも同じ車に乗ってたの。一命こそ取り止めたけど、全身不随になってしまって――」
「全身不随?」
「あんたのお祖母さんは、そんなご主人を引き取らなかった。だからうちの祖母が引き取って玄明の家で面倒を看てる」
「ふ~ん」
そういうことなら、父が育の家に出入りし、育と顔を合わせていてもおかしくはない。育は親友の娘なのだから、直接話をすることもあっただろう。
けれど――
「何で引き取らなかったんだ?」
「え?」
そこだけはよく解らなくて、守はしきりに首を傾げた。
「祖母さんのほうの事情は知らないけど、そっちがダメなら長男の親父が引き取って面倒を看なきゃいけないはずだろ。親父が十四の時で、今年で四十七ってことは……はぁ? 三十年以上も預けっ放しなのか? そりゃ、まずいよ」
「それは……」
確かに父は仕事であまり家にいず、母は持病のある弟の世話もあって、動けない祖父の介護をする余裕はなかったかもしれない。だが、だからといって血の繋がった家族がいるのに、よその家に預けっぱなしでいいわけがなかった。
「いくら家が狭いからって、親父は何をしてたんだ?」
父の不手際を非難する守に「違う」と育は反論した。「元生さんが悪いわけじゃない」と慌てたように言い繕う。
そんな育に、守は険呑な目を向けた。
「じゃあ、誰が悪いんだよ?」
「え?」
「うちのお袋か?」
自分はマザコンではないつもりだったが、やはり母が悪く思われるのは、面白くない。いままで押さえつけていた怒りの炎が、瞬く間に燃え上がった。
「親父が悪くないのなら、うちのお袋が面倒を看たくなくて、反対してたってことだろ」
「違う――」
だが、育はそれ以上言うことができなかった。何度か口を開きかけたが、言葉が口から出てこない。
そんな育を、守はこれでもかと睨みつけた。
やがて、育はごまかすのは無理だと諦めたのか、ポツリポツリと話し始めた。
「その……、昔から……関係があったから」
「関係? ああ、そうだよな。親戚以上の関係なんだよな」
「そうじゃなくて……」
困ったように言葉を濁す育を、「何だよ、はっきいり言えよ」と急き立てた。
「お祖母様は――」
「玄明のか?」
「うん。あんたのお祖父さんの……愛人、だった……」
「え……」
あまりのことに、守は言葉を詰まらせる。
そして――
大きな家の威厳ある祖母の姿を思い出していた。
迷路のようなあの家で、寂しく暮らす小柄な老女。
同時に、艶やかな志穂の姿が脳裏を過ぎる。
育や櫻子が志穂似なら、若い頃はさぞかし美しかったことだろう。
(なら、勝てるわけがないのか――)
守は、大きく一つため息をついた。
「結局、オレたちって……」
あの、抗い難いまでの欲求を。
あの、狂おしいまでの快感を。
皆が皆、体験してきたということなのだろう。
「だから、お祖母様は結婚させたかったの。あたしたちのこともそうだけど、元生さんとうちの母のこと」
もし、父の元生が育の母の櫻子と結婚していたら――
守は父の隣に、櫻子の姿を並べてみようと試みた。
守は、櫻子の姿を見たことはない。
だが、含明や育の話から察するに、櫻子は育に酷似しているという。
そして、微笑むだけで人を幸せにするという。
育をもっと可憐で優しい感じにして、志穂の艶やかさを足してみた。
と――
世にも稀な絶世の美女ができあがった。
それを少し若くした父の隣に並べてみる。
(……っ)
恐ろしいほどよく似合っている。
けれど――
絵面だけならいいのだが、どうもいま一つ現実味に欠けるような気がした。
あの変わり者の父の隣には、やはり何事にも動じない母の姿が相応しい。
それに、もし元生が櫻子と結婚していたのなら――
武志ではなく、守が育の弟になっていたのかもしれない。
「そんなのは、嫌だ!」
突然声を上げた守を、驚いて育が見る。
警戒しながらも、小さく「何?」と訊いてくる。
「な、何でもない」
さすがに話すわけにはいかないだろう。
自分の未練がましさなど。
何よりも、自分自身が認めたくなかった。
認めてしまったら、きっと――
(冗談じゃない!)
絶対に思い通りにならないと、守は何とか踏み留まった。
話も気も逸らすため、皓華の様子を訊いてみる。
「含明さんの部屋。今日は一緒にいたいんだって」
「はぁ?」
守の目が点になった。
「ちょ、ちょっと待てよ。あの二人って、そういう関係なの?」
言いながらも、またか、と守は呆れていた。この集団は、あまりにも男女関係が入り乱れ過ぎている。
すると――
「何、誤解してんの? 含明さんは皓華の親代わり」
冷え冷えとした育の声と視線が氷柱のように突き刺さってくる。何が拙かったのか知らないが、棘が氷柱に育つほど逆鱗に触れたらしい。
「あの後、皓華は含明さんのお母さんの柳青老師に引き取られた」
含明はすぐに日本の大学院に行くことになり、忙しい柳青は、珪沙の手を借りながら、二人で協力して皓華を育ててくれたのだという。
そして、皓華が十一の時に含明が帰国した。
「それから忙しい二人に代わって、含明さんが皓華の面倒を見てくれてたの」
「で、親代わり、かよ」
「そう。あんたとは、全然違う」
「は?」
育の最後の言葉には侮蔑という名の毒があった。
まさか、氷柱に毒まで塗ってこようとは――
どれだけ怒っているのだろう。
瞬時にそれを感じた取った守は、身も心も一気に臨戦態勢に入っていた。
「何がオレと違うんだよ」
「あんたは、女だったら誰でもいいってこと」
「はぁ? バカなこと言うな」
育の目がさらに冷たく眇められた。
「な、何だよ?」
「留学生楼の女の子、あんたが本気かどうか、何人あたしに訊きに来たと思う?」
「え?」
「それに夏芽さんのことも気にしてたし、小さい皓華にもちょっかい出して――」
「あれは、そんなんじゃないだろ!」
「うそ、いじめて喜んでたくせに!」
「なっ……」
「サドのロリコン!」
「はぁあ?」
育の言い分に、守は納得がいかなかった。
場所が変わったせいなのか、最近妙にモテ始め、少少調子に乗っていたのは確かだった。夏芽と出会った最初の頃、気にかけてもらえる嬉しさから、色めき立ってたのも確かだ。
だからそれはいい。
小さな皓華にちょっかいを出したのも確かだが、それは前の二つと全然意味合いが違う。
同じだったら犯罪だ。
そんな不名誉な汚名を着せられて、黙っているわけにはいかなかった。
やたらに癪に障るのも、多少その気があったからでは決してない。
だのに――
まるで痛いところを突かれたかのように、守は「うるさい!」と逆切れした。
「何だよ。おまえこそファザコンのくせに。含明さんのこと好きなんだろ? 見え透いたお世辞言われて喜んでんじゃねーよ。それに皓華が一緒だからって、オレに当たんな。それからうちの親父のことを名前で呼ぶなよな。ファザコンのおまえが言うと、何か、すげぇやらしく聞こえんだよ!」
途端、これまでに見たこともないほど育の表情が硬くなった。
まずい、と守は直感したが、一度口から飛び出した言葉を回収することは不可能だった。
凍ってしまったのかと思うほどの表情は――
初めて遇った時のように。
いや、それ以上に厳しかった。
そして――
育は黙って、守の部屋を出て行った。
ざ・しゅらば回でした。
修羅場大好きなんですけど、上手く修羅場っていたでしょうか?




