乾坤交媾 大周天 14
外はまだ蒸し暑かったが、除湿をしている室内はそれなりに快適だった。
夜空はきれいに晴れ上がり、周りの水田からは室外機の駆動音に紛れて何種類かのカエルの声が聞こえてくる。
守は大きく息を吐き、自分の下丹田を意識した。上に上がっていた気を下ろし、意念を軽くそこに留めたまま、枕元の脇のサイドテーブルに手を伸ばす。レポート用紙を手に取って表紙を捲ると黙黙と文字を書きつけていった。
「何してるの?」
少し落ち着いたのか、育が声をかけてきた。
「とりあえずここまでの事実関係だけでも整理しとこうと思って。何処で、何が、どう繋がってるのか、当事者には判んないことがあるだろ。だから客観的に見られるように、思ったことは何でも書くことにしたんだ」
「……そうだね。何か見えてくるかも」
育から賛同を取り付けた守は、罫線を無視して書かれている乱雑な文字を拾っていく。
「維名がいなくなったのは三回だ。明日香だろ、多田、それに上海。――で、一度目は六歳の時。明日香から多田に移動しただけだから、厳密に言えばいなくなったわけじゃない。父親の実家に引き取られたんだから理由もはっきりしている。判らないのは、誰が連れて行ったかだ。心当たりは?」
「ない」
簡潔な答えと共に育が左右に首を振った。
「二度目の多田から上海は、直接移動したんじゃなくて他に中継点がある。連れて行ったのは虎丘で会ったあのおばさんだけど、場所も目的も判らない。いなくなったのは中二の時で、およそ一年後に上海の含明さんのところに来るまでは、誰と、何処で、何をしていたのかは不明だ。そういえばさ、含明さんが頼まれた知り合いって――」
「違う。黄老師じゃない。それは含明さんにも確認した」
「ふ~ん。そうか……」
いつそんなことを、と思わないでもなかったが、守はあえて口に出したりはしなかった。確かに中国に連れて来て、育を含明に会わせたのは守だが、必ず守を通せと言うつもりはないし、育にだって何もかもすべて報告する義務はない。
義務はないのだが――
「なあ」
育にかけた声が、自分の耳に思いの外不機嫌そうに響く。改めて、守は下丹田に力を込めると気を引き締めた。
「その知り合いの人が、誰から維名を預かったのかは判るのか?」
「それは、黄老師かもしれないし、違うかもしれない。だから中継点は一箇所以上と考えたほうがいいかも」
「そうだな」
守は頷いて、『中継点は一箇所以上』と書き足した。
「で、三度目は上海の郊外の花鳥市場だ。この場合は、行き先も目的も判らない。目撃者はオレだけど、実際にいなくなる瞬間を見てたわけじゃない。だから連れ去られたのか、自分の意志で立ち去ったのかは不明だ。印象としては、いつの間にかいなくなってた、って感じだ。――ここまではいいか?」
「うん」
「他に、何か判ってることってあるか?」
含明から他にも何か聞いているかもしれない。そう思って訊ねてみたが、育は首を横に振るだけでそれ以上の情報は出なかった。
「なら、とりあえずこれはここまでだな」
守はレポート用紙の最後のページを一枚剥がし、罫線のない白い方を上にして、そこにも文字を書き始める。
「オレの前が親父だろ」
最初に『守』と自分の名前を書き、その上に線を引いて『元生』と書く。
「何、してるの?」
「人間関係の整理。えーっと、玄明の前が玄明のお母さんで、維名の前が玄明のお父さん、と」
守は同じようにして、育の名前の上に『櫻子』、武志の上に『蒼』と入れる。
「んで、含明さんの前が、角……あれ?」
「柳青老師に、皓華の前が秋成虎老師」
「字は?」
育は守のほうに手を伸ばした。
口で言えば解る、と言おうとしたが、すでに丑の刻といわれる時間帯だ。皓華もそろそろ夢の中だろう。たとえ戸や窓は閉めてあったとしても、さすがに今までの調子で話しているわけにはいかなかった。
守は覚悟を決めて立ち上がり、ローテーブルまで移動した。育の前に紙と筆記具を置くと、ソファーには座らずに育の斜向かいの床に腰を下ろす。
育は筆記具を手に取って素早く文字を書きつけていく。書き終わって戻された紙を見てみると、『含明』の上に『柳青』、『皓華』の上に『成虎』と書かれ、さらに『元生』、『櫻子』、『蒼』の上に『朱明』、『志穂』、『紫』と書き足してあった。
(え?)
守は受け取った紙をしげしげ眺めながら、「なあ」と育に声をかけた。
「何で玄明がうちの祖父さんの名前まで知ってんだよ。それも漢字も。オレなんか今初めて見たぞ」
にわかに湧き上がった疑問を素直にぶつけると、「それは」と育が言い淀んだ。すぐに「お祖母様から、聞いてたから」と続けるが、その言葉はとてつもなく歯切れが悪い。
「ふ~ん。まぁ、いいけど」
疑わしそうに横目で見たが、守はそれ以上の追求はせずに作業に戻った。それぞれの上に姓を入れ、さらにその上に五臓神と膽神の字、そしてその属性を加えていく。名前と名前、文字と文字の間は線で結んだが、武志と蒼、蒼と紫の間だけは点線にした。
そうやって完成した簡単な表は、残念なことに、『脾』の部分だけがポッカリと抜けている。
「脾神は、あのおばさんだったよな。確か……」
「黄珪沙老師」
育の説明に従って、守が『珪沙』と漢字を書き入れる。
「で、黄珪沙の――」
「黄老師でしょう。ずっと気になってたんだけど、凄く失礼だと思う」
育の苦言に、「あー、はいはい」と守はどうでもいいと言わんばかりに頷いた。たとえ皓華の両親を殺めていなかったとしても、武志を神社の境内から連れ去ったのは、間違いなく珪沙だろう。だから、守は信用する気も敬う気もまったくない。
「んで、その黄珪沙――老師は、うちの親父よりも年上ぽかったから、誰かが跡を継いでるんだよな」
「うん、夏芽さん」
「えっ?」
突然出た意外な名前に、守はこれでもかと言うぐらい目を瞠った。
「黄老師には、お子さんがいらしゃらなかったから、弟さんの娘の夏芽さんが跡を継いだの」
淡淡と語られた真実に、守は筆記具を投げ出して、トスンという音と共にそのまま後ろにひっくり返った。
育が不思議そうに首を傾げる。
と――
「バカみたいじゃんか」
「何で?」
守は、ムクリと起き上がった。
「だって、夏芽さんに訊けばいいんだろ! 維名がどこへ行ったのか。『威明』が誰なのか。知らないなんて言ってたって、絶対知ってるさ!」
「違う。本当に知らないの……」
育の表情は真剣だった。
「黄老師は急に亡くなったから、夏芽さんは何も聞いてない」
守は大きくため息をついた。
「それって、いつ頃の話だよ」
「夏芽さんが二十三の時だから、五年前?」
「ウソ。夏芽さんって、そんなに歳、いってんの?」
「もっと若いと思ってた?」
「ん? ま、まあ……」
守を見る育の視線が冷ややかだった。氷の棘のように突き刺さってくるその中に物騒な気配を感じた守は、さらに何か言われる前にと慌てて話題を変えてみた。
「そ、それより、何で姉弟なのに別別の所に引き取られたんだろうな」
「それは……」
苦し紛れに出た言葉だったが、育の雰囲気はすぐに変わった。一瞬躊躇いを見せた後で、夏芽の時と同じように淡淡と話し出す。
「たぶん、継がなければならなかったから。あたしはお母さんの跡を、そして武志は、本来ならお父さんが継ぐべきはずだったものを」
よほどのことがない限り、五臓神は直系の子孫に受け継がれていくという。
守は、三分の一ほど埋められた白い紙に視線を戻した。
心神『守霊』(火)丹下 朱明――元生――守
腎神『育嬰』(水)玄明 志穂――櫻子――育
膽神『威明』(?)維名 紫 ……蒼 ……武志
肝神『含明』(木)角 ? ――柳青――含明
肺神『虚成』(金)秋 ? ――成虎――皓華
脾神『魂庭』(土)黄 ? ――珪沙――夏芽
やはり、両家の存続のために一人ずつ分けたということなのだろう。
「でもさ――」
だからといって、生きてることぐらい知らせてもよかったのではないだろうか。
「たった二人きりの姉弟なんだぞ」
あくまでもありきたりな感想のはずだった。誰がどう考えても、この不自然な行いには何らかの意図が働いてるとしか思えない。
ところが――
「知らせないほうが、都合がよかったから。後で面倒なことにならないように」
育からあっさりした返事が返ってきた。それはとても当事者とは思えないほど、ひどく冷静なものだった。
育も武志ほどではないが、感情的に妙に冷めた部分がある。その生育過程を考えれば、致し方ないのかもしれないが――
守は何故かそんな部分に苛立ちを感じた。
「そんな、人事みたいにあっさり言うなよな」
守の抗議に、「だって、よく判らない」と育は唇を噛んだ。
「あたし、ずっと考えてた。知ってたらどうだったんだろうって。でも、知ってても、やっぱり一緒には暮らせなかったと思う。それに、もっと哀しかったかもしれない。武志がいなくなった時、きっと、もっとずっと哀しかった」
「………」
守は自分の思慮の足りなさに頭を抱えたくなった。おそらくその理由を知りたいと切実に思っているのは、守よりも育のほうなのだ。
武志が生きていると知ってからの六年間、育は哀しみに飲み込まれないように、努めて客観的にものを見ようと無理をしていた。
(それなのに――)
幸せな者は、なんと残酷なのだろう。
「ごめん」
素直に謝る守に「ううん」と育。「それより」と守をじっと見詰めてくる。
「武志はいつ助けられたのかな?」
「えっ?」
「あんたはどう思う? 武志は泥の中から救出されたわけじゃない。なら、あたしが家に帰った時には、もういなくなってたってことでしょ」
「そ、そう、だよな」
もし可能性があるとしたら、それは家が沈む前。
けれど――
「なあ、家にいなかった、ってことはないのか?」
六つなら、育が学校に行って無事だったように、武志も幼稚園に行っていた可能性がある。ならば、そこから誰かに連れ去られたということも。
ところが、育はすぐに「ない」とその可能性を否定した。その日、武志は具合が悪いと幼稚園を休んでいたらしい。
「雨も降っていたから、母と家にいたのは確か。近所の人もそう言ってた」
隣人は急な雨で家に帰る途中、家の中にいる二人を見たという。
「会釈だけだったけど、目が合って挨拶したから間違いないって」
「そうか……」
育の家が沈んだ時、武志もそこにいた可能性は高かった。
ならば連れ去られたのは、沈む前か、沈む最中。
けれど母親が、そう易易と子供を手渡すとは思えない。
(何か、予感みたいなものがあったのか?)
育の勘のよさが母親由来のものならば、育の母が危険を察知していたとも考えられる。それで、何とか武志だけでも助けようと――
(いや)
守は即座にその考えを否定した。
もしそうならば、自分も一緒に逃げるはず。
(ん? そういやぁ――)
「なあ、お父さんも仕事を休んでたのか?」
一緒に亡くなっているのだから、育の父もその時には家にいたことになる。
「ううん。朝、父はあたしと一緒に家を出て仕事に行ったの。それで、午後は早退したみたい」
(なら、勘がよかったのは、父親のほうか)
育の父が危険を察知し、助けに行ったということか。
もうほとんど手遅れだったが、何とか武志だけは助けられた。
そして、武志を自分の実家に連れて行った。
(でも、それだったら――)
何故、育も一緒に連れて行かなかったのだろう。
そもそも、武志だって預ける必要はなかったはずだ。
父子家庭でも、子供を立派に育て上げている人はたくさんいる。
現に守の父も、弟が入院して母が付きっきりだった時には、守と二人で――
(二人? いや、確かあの時はもう一人いたな……)
不安だった守の手を、ギュッと握ってくれたのは誰だったのだろう。
あれは父の手ではなく、もっと小さくて柔らかい――
(そういやぁ、家政婦さんが来てくれてたんだっけ)
守がそこまで考えた時、育がこちらを見ていることに気がついた。
「お父さんは助けに行って、巻き込まれたんだろうな」
もし育の父が生きているのなら、育と武志、二人の姉弟が離れて暮らすことなどなかったはずだ。
「……うん。そうだね」
育も哀しげに頷いた。
武志を助けたのは誰か判らない。
だが、武志を連れて行ったのは、確実に第三者なのだろう。
だとしても――
かなりひどい土砂降りの中で、その場に居合わせた人物が、ただの通りすがりとは思えない。
その人物は、何か目的があってその場にいた。
そして、武志を連れ去った。
(だったらそいつは……)
誰だ。
けれど、やはりそれ以上は判らなかった。
あまりにも情報が不足している。
結局のところ、二人は行き詰まって押し黙った。




