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そらつかい『虚』  作者: カルヰアオ
第七章 乾坤交媾―大周天―(天と地が交じり合う)
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乾坤交媾 大周天 9

(脱げた)


 最初に感じたのは、それだった。

 (かえ)った(ひな)が卵から抜け出るように、門の外に『何か』を置いてきた感じだった。

 だが、よくよく考えれば『脱げた』というのは、的確な表現ではない気もする。どちらかというとみっちり詰まった体の密度が、半分なったような――

 全身から『何か』が抜け落ちたような感じなのだ。

 その抜け落ちた『何か』を探すように、守は後ろを見返った。

 けれど当たり前だが、そこには何の痕跡もない。

(いったい何が起こったんだ?)

 身だけでなく、心も軽くなっていた。

 あれほど燃え盛っていた怒りの炎が、綺麗さっぱり消えている。

 訳が解らずに守は辺りを見回した。


 冷静な目で見てみると、ここは門というよりも、かなり奥行きがある広間のような空間だった。

 入り口の真正面には、(くだん)の仏像が大きく口を開けて笑っている。

 けれど如来に必須の螺髪(らほつ)はなく、菩薩(ぼさつ)に必須の飾りもない。丸めた頭と丸まるとした太鼓腹を突き出すそのさまは、仏というよりも恰幅のいい羅漢(らかん)のようだ。

 説明を見ると『弥勒仏(みろくぶつ)』と書いてあるが、日本でよく見る同じ名前の菩薩とは、似て非なる風体だった。

 その弥勒仏を挟むように、持国・広目・増長・多聞と思しき四天王が左右に二体ずつ並んでいる。同じ四天王でありながらも、戒壇院で観たものとは違い、畏怖を秘めた神神しさというものはほとんどない。キラキラ輝く黄金ボディの所所を白や赤に彩色され、厳めしい顔のデホルメされた姿は、どちらかといえばユーモラスな印象だ。それと少し前のめりに多い被さってくる威圧感が、ちょっと鬱陶しい。

(戒壇院の方が静かな凄みがあった。けど、ここの四天王もいい感じだ)

 姿はまるで違うのだが、そこから発している『もの』は同じようだった。


 弥勒仏の後ろには背中合わせになるように、甲冑を身に着けた、涼やかな面立ちの武将が立っていた。左腰前方で先を地に着けた剣の(つか)を両手で支え、視線は右下に流し、微笑んでいる。武将なのにS字曲線を描く金色(こんじき)の立ち姿はとても美しく、麗しい。こういうのを美丈夫というのだろう。ガラス張りの黒い厨子(ずし)の脇には金の毛筆体で『韋駄(いだ)天将』と刻まれていた。

(って――韋駄天のことだよな)

 韋駄天は足が速い者のたとえだが、本来は増長天の眷属で『法を護る守護神』と以前父は言っていた。仏陀の遺骨の仏舎利(ぶっしゃり)を盗んだ悪鬼を追いかけ、奪い返したのが韋駄なのだという。

(何か、ちょっと似てるかも)

 守は性格は暑苦しいくせに、見た目は全然暑苦しくない自分の父を思い出した。面立ち云云(うんぬん)というよりも、父と韋駄は怜悧な感じがよく似ている。

(そういやぁ、どうしてんのかなぁ)

 留学前に実家に顔を出した時、年度末で忙しいのか父は家に居なかった。こっちに着いて電話をした時は、出張で行った時に顔を出すと言っていた。けれど四ヶ月過ぎた今も、未だ父の訪問はない。

(ま、うざいからいいけど)

 その時ふと何の根拠もなく、父だったら今起こったこの現象が何なのかを、説明できるかもしれないと思った。だからといってあの父なら、たとえ知っていたとしても素直に教えてくれるはずもない。

『自分で考えろ』

 そう言うに決まっている。


 守はもう一度、ぐるりと部屋の中を見渡した。

 奥行きのある部屋の入り口付近に固まって、弥勒仏を護るように四天王と韋駄がいる。五柱の護法(ごほう)が揃うこの場所は、チケットの半券によれば、門ではなく天王殿となっていた。

 通常日本の寺院なら、門にいるのは阿吽(あうん)の相の仁王像だ。睨みを利かせて『悪いもの』が入って来ないよう防いでる。ならば護法が護るこの場所も、『善いもの』と『悪いもの』を選別する門と同じ機能があるということになる。

 不意に、守の脳裏に『結界』という言葉が浮かんだ。

 昔観た妖怪がでてくるアニメでは、人が結界の中にいる限り、人に害なす『悪いもの』の妖怪は、人を見ることも近づくこともできなかった。

 ならば――

 結界には『悪いもの』を通さない機能があるということだ。


 ところが今回の場合は、『怒り』に囚われ『悪いもの』になっていた守自身ではなく、守の中の『怒り』の感情だけが排除された。

 いつもなら、一度怒り出せば『怒り』はある程度持続し続け、一瞬で消えてなくなるということは絶対になかった。だのに一歩この場所に足を踏み入れただけで、本当に脱ぎ捨てたように『怒り』だけが抜け落ちた。

 そして当の本人の守は、阻まれもせず、そのまま中に入ることができたのだ。

 では、守が善い人間ということか――

(いや――)

 もしかしたら、人間そのものに善悪はないのかもしれない。

 あるのは、その時時の感情が生産的か、破壊的かの違いだけなのかもしれない。

 つまり結界が排除したかったのは、悪い人間でなく、一般的に『()』に分類される悪い感情だけ――

(マジかよ……)

 守はもう一度正面に回って、軽く手を合わせてから弥勒仏を見た。満面に広がる笑顔を見ていると、守は自分の愚かさを笑われているようで、居たたまれなくなってくる。本当に、身悶えしたくなるほどの恥ずかしさだ。

 考えなしの言動を大いに反省し、守は闇雲に八つ当たって迷惑をかけてしまった育を探した。

 守がまずしなければならないのは、自分の非をきちんと認めて謝ることだろう。


 広間の奥の部分は土産物売場になっていた。正式な門の体裁を採っていなくても、この雑多さは日本では考えられない。そんな中、いくつかあるショーケースの一つを育は興味深げに眺めていた。その視線の先にあるのは、ケースの上に乗っている、光り輝く弥勒仏の小型版だ。

 守は足早に育に歩み寄って、左隣にそっと並ぶ。

 育の肩がピクリと揺れた。

「さっきは、ごめん。その……悪かったよ」

「え?」

「オレさ、何かおかしかったんだ。ホント、ごめん」

「あ……」

 一瞬息を呑んだ育は、すぐに「こっちこそ、ごめん」と謝ってくれた。

 体を動かし、横に並ぶ守を不思議そうに見上げる。

 と――

 ワーッ、ハッ、ハッ、ハーーーッ。

 突然誰かの笑い声が、部屋いっぱいに響き渡った。

「な、何だ?」

 止むことなく立て続けに起こる笑い声は、人の生の声というよりもかなり人工的なものだった。背後にはサーッというホワイトノイズも混じっている。

 音のする方に目をやると、金色の小さな体を揺らめかせ、弥勒仏が笑っていた。

 どうやら、育が身動ぎした際にショーケースに触れたらしい。

 揺らぎを止めようと、守が慌てて手を伸ばす。

 すると、反対側から育も同様に手を伸ばした。

 左右から二人に押さえられ、笑い声がぴたりと止まる。

 けれど――

 手を離した拍子に揺らめいて、また大きな声で笑い出す。

 小型の弥勒仏は、笑い袋入りの起き上がり小法師(こぼし)だった。

 皆の視線が集中する。

 守は育の手を取って、逃げるようにその場を後にした。


 木立が疎らに散らばる中庭には、何組かの団体客と個人の旅行者の姿があった。

 さらに右手前方の、芥子色の壁の鐘楼(しょうろう)の前にたくさんの人が列をなしている。一定の間隔で硬質な音が聞こえることからも、鐘を撞くことができるらしい。

 それなりに人がいてざわめきも聞こえるのに、広場の空気には何人(なんぴと)も犯すことのできない静けさがあった。

 守は、人のいないところを選んで立ち止まると手を離し、育の方を見返った。

「びっくりした」

「ホントに」

 境内の隅で守と育は顔を見合わせて笑い合った。育は、ここ最近見たことがないような、屈託のない晴れやかな笑顔だった。

「それにしても、何だよアレ。センス、凄すぎんだろ」

「でも、あたし、前にもらったことがある」

「は? 土産でか?」

「うん。北京の。昔だけど」

「そんな……あんなの、あちこちで売ってんのか? つか、誰だよ、そいつ?」

「え……」

 どうやって持って帰って来たのだろう。誰もいない貨物室で、ただただ金属的な笑い声が鳴り響いている情景は、シュールを通り越してホラーだった。

「そりゃあ、ちょっと面白いとは思うけどさ。わざわざ買うか、普通。それも女子の土産に――ん?」

 育の表情が曇っていた。どうやら何かの地雷を踏んだらしい。

(何だよ。めんどい……いや――)

 贈ってくれた相手は、育にとってよほど大切な誰かということだ。

「ごめん」

「え?」

「たぶんそいつはさ、きっと、いつも育に笑っててほしかったんだよ」

「あ……」

 育は目を見開いて、守をじっと見つめている。守はぐっと言葉に詰まった。


 確かに、自分に似合わないキザなことを言った自覚はある。

 咄嗟(とっさ)とはいえ、ここに来るまで手を掴んでいたことも思い出した。

 思わず『育』と名前を呼んでしまったことも――

(でも、何もそんなに驚かなくたって……)

 守は急に恥ずかしさが込み上げて、「でさ」と、ごまかすように話題を変えた。

「さっき、変なことがあったんだ」

「変なこと?」

 守は、門での一連の出来事を育に話した。

「で、何にもしてないのに、怒りだけが消えたんだ。悪い人間を入れないってことじゃなくて、浄化するって感じかな。心の悪い部分だけ取り除いて『悪』を無効化したって感じだった」

「だから、結界のことを考えたんだ」

「ああ」

 育はしばらく考えて、口を開いた。

「『魔』についての話を聞いたことがある」

「『ま』?」

「うん。『魔が差す』の『魔』」

 ならば、人を悪しき方向へ連れていこうとする力、ということだろう。

 そう訊くと、育は「うん」と頷いて「『魔』には外魔(がいま)内魔(ないま)がある」と続けた。

「外魔は自分の外から働きかけるもので、内魔は自分の中から生じるもの」

「外魔と内魔か――」

 それがさっきの『悪いもの』の正体なのだろうか。

「例えば外魔の代表的なものは、自分以外の他人かな。自分が嫌いな人とか、自分を嫌っている人とか。それ以外にも親兄弟や配偶者、果ては天魔、つまり神や仏も入ってくる」

「待てよ。他人が『魔』になるのは解るさ。気に触るイヤなヤツはいっぱいいる。けど、愛情を向けるべき対象の肉親が、何で『魔』になるんだよ」

 守が納得できずに文句を言うと、育は少しだけ眉をひそめた。

「愛していれば愛してるだけ、近しければ近しいほど、相手の動向が気になるのはどうしようもないこと。心配したり、悲しんだり、喜んだり、怒ったり。常に相手によって心を動かされ続ける。それは他人の比じゃない」

「それは、そうだけど……」

 守は、武志のことを思い出した。

 確かに、育はずっと長い間いなくなった弟のことを気にかけていた。両親の事故や武志のことが、育の心に暗い影を落とした原因の一端を担っているのは紛れもない事実だろう。

 それに――

 守は自分の父のことを考えた。

 比べられるのは不愉快だが、守は決して父が嫌いではなかった。

 それでも心を動かされるという点では――

(否定できないのか)

 守は渋渋ながらも納得し、「じゃあ、神は?」と育に訊いた。

「神が見えたことで人は心を動かされる。見える自分が偉いと思う人もいる」

「慢心するってことか」

「うん。たとえそれが幻覚であっても、本当かどうかの区別はつかない」

「また、幻覚か……」

「そう。不動であるべき心を動かそうとするものは、皆『魔』」


 理屈は解らなくもないが、守の中には、育の言葉をどう受け取っていいのか判らない自分がいた。愛がなければ思い遣りもない。そんな殺伐とした世の中に、いったい何の価値があるというのだ。

 育は、納得しきれない守に構わずに続ける。

「けど、内魔は自分の心の中にいる。あんたが怒ったのは何故?」

 育に訊かれ、守は改めて、自分が何故あんなに腹を立てていたのかを考えた。

「そうだな、あん時オレは、玄明がちゃんと訊いてくれなかったんじゃないかって疑ってたんだ」

「あたしが、原因?」

「う~ん。つか、あんたがオレの思う通りに動かなかったのが、気に入らなかったんじゃないのかなぁ」

「やっぱり、あたしが原因なんだ」

 そうはっきり言われると、素直にそれを認めることは(はばか)られた。心の中の何かがそれは違うと言っている。

「そうじゃないよ」

 一度否定してから、もう一度あの時の自分の状態を考えてみる。

 暑くてイライラしてた。

 皓華のことが気になった。

 二人だけなのも不安だった。

 とにかく、普段と違う情況というのがまず前提にあった。


「突き詰めて考えれば、オレは単純にあの塔に行きたかっただけなんだ。それが、塀がじゃまして行けないと判った。とても残念だっだ。だから、何とかして行く術を見つけたかった。誰かに訊くか。けど、オレはまだ込み入った中国語なんて喋れないにも等しいだろ。どう訊いたらいいのか全然思い浮かばなかったんだ。自分の想いを伝えることが、どうすればできるのか判らなくて、それがもどかしかったんだと思う。そしたら――」

 守は育を見た。

「そこにあんたがいた。だから代わりに訊いてもらった。結果は思わしくなかったけど、本当はそれが正しかった。なのに自分で勝手に『違う』と判断した。間違ってるって。自分で訊けたらもっといい結果を出すことができたはず。そう思った」

 守は、眉をひそめて腕を組んだ。

「結局オレは自分の不甲斐なさに腹を立てていたんだと思う。玄明のせいじゃないよ。けど、それを認めたくなかったんだ。自分が悪いと思いたくなかった。だから人のせいにした。そういうことは、往往にしてよくあることだろう?」

 守は中学の保健体育の教科書の中にでてきた、『投射規制』という言葉を思い出していた。簡単に言えば、自分を護るために逆切れして他人や物に当たることだ。


 育は、守の言葉に頷いてから、仰仰しく言った。

「内魔は人間の欲望から発生する。あんたはあの塔に行きたかった。けどそれだけではただの欲望。行けないと判って、どうしても行きたいと思った。あんたがあの塔に執着した瞬間、内魔が発生し、そしてそれに囚われた」

「囚われた?」

「うん。あたしはあんたの『怒り』が理不尽だと思った。そこにあたしの『怒り』が生まれた。外魔はあんた。でも心を動かして内魔に囚われたのは、あたし」

 育に『外魔』と言われ、守は面白くなかった。だが、不思議と『怒り』は湧いてこない。

「あたしとあんたの違いは、自分以外の人間に対して悪意があったかどうか。こうしてみると内魔は外魔の干渉があるなしに関わらず、自分の心次第ということ」

「なるほど」

 外魔と内魔のことは何となく解った。

 けれど、それが結界とどう関わってくるのだろう。

 そう訊くと――

「自分で言ったじゃない。人間の心の悪い部分だけを取り除いて無効化するって」

 守は「ああ」と答えたが、まだ育の言いたいことの見当はつかなかった。

「中国では『()』は幽霊のこと。だから悪鬼や悪霊も人の心から生まれた『魔』」

「なら『悪鬼』や『悪霊』は、内魔が具現化したもの、ってことか――」

「結界は『魔』を通さない。だから、あたしたちの『怒り』だけが排除された」

「ふ~ん。じゃあさ、あれも似たようなもんだな」

 肩越しに守の右手の親指が、鐘楼を指し示していた。

「日本じゃ大晦日に鐘を撞くのは、百八つの煩悩を払うことが目的だろ。ならさ、煩悩も『内魔』だよな」

 育は、ふと表情を緩める。

「うん。そうかも」

 二人は互いに顔を見合わせ微笑み合うと、団体客を避けて奥へ進んだ。


 書や筆、墨や(すずり)などが並べられた、土産物屋の脇の板戸に、B全の大きさの紙が貼ってあった。守は何が書いてあるのか気になって、その漢字だけの達筆な文章を育に大まかに訳してもらう。それには『中で修行をしているので、関係者以外は入らないでください』と書いてあるという。

 守と育はまた顔を見合わせて、節度よく微笑んだ。

 もしかしたら、と守は思う。

 本当に排除したいのは――

 正負の違いなど関係なく、過剰になった感情なのかもしれない。


 塔へ向かう手前でもう一度チケットを買って先に進んだ。

 張り巡らされた塀の向こうには五重の塔が迫っている。塀が切れた入り口には、螺鈿(らでん)細工で描かれた、弥勒仏の立て屏風が置いてあった。子供に囲まれた弥勒仏は、相変わらずの笑顔だが――

 もう嘲笑っているような感じはしない。


 屏風の脇を抜けると視界が開ける。

 守はやっと、青い芝生に囲まれた五重の塔と対面することができたのだ。


やっとここまで来たという感じです。これが一番書きたかった。これのために今まで文字数を費やし、怪しげな単語を駆使して、よく解らない理屈を捏ね回してきた次第です。


事の起こりは「もの凄く怒っていたのに、門に一歩足を踏み入れた途端、『怒り』が綺麗さっぱり消えてなくなった」という、この実体験だけです。自分的にはとても不思議だったので、ちょと怪しげな方向に、捏ねたり膨らませたりしていろいろ理屈をつけてみました。


というわけで――

ここまで個人の趣味に走りまくったものにも関わらず、広い心でお付き合いいただき、本当にありがとうございます。

もっと臨場感に溢れたものをお届けしたかったのですが、私の力量ではこれが精一杯でした。


そんな拙い作品ではありますが、これからも読んでいいただければ幸いです。


次回からは、皆の事情がいろいろと明かされていきます。

とりあえずは皓華から。武志がいなくなった遠因にもなっています。

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