乾坤交媾 大周天 7
これはあくまでも創作です。
特に最後の部分はかなり盛ってます。
上海に戻るとそのまま留学生楼に入り、中国での学園生活が始まった。
学校が始まると、朝の練功と週末以外はほとんど育に会わなくなった。中国語ができる育は、一般の中国人学生と同じ授業を受けていた。守はといえば、含明が受け持つ、留学生が最初に通う中国語教室に入っている。
含明の大学は、武志や皓華の大学と違い日本人の留学生がたくさんいた。最初にここで言葉を覚え、転校する者が数多くいるからだ。守と同室の男も簡単な中国語を覚えたら、他の大学に転校すると言っていた。
「どうですか? 少しは慣れましたか?」
一か月ほど経ったある日、守は授業の後で含明に声をかけられた。
「はい、お蔭様で」
「お蔭様ですか。日本独特の言い回しですね」
含明曰く、中国人は『お蔭様』という概念が、よく理解できないのだと言う。
「自分は何もしていないのに、何故感謝されるのだ。そう思うのです。慣れたのは守が努力した結果で、他人の私がしたわけではない」
「そうなんですか?」
「でも私は好きですよ、そういう考え方が。優しい気持ちになれますからね。だから実際に自分でも使います」
そして含明は「ああ、そういえば」と急に話題を変えた。
「一緒の部屋の人は転校するようですね。どうします? 新しい人を受け入れますか? 費用はかかりますが一人部屋にもできますよ」
「いえ、二人部屋でいいです」
「そうですか。ならよかった」
「はい?」
「いえ、せっかくこちらに来ていても、上手く馴染めずに孤立してしまう人たちがいるものですから」
そして、含明は「経験者の守には無用の忠告かもしれませんが」と言ってから、なるべく友人を作るようにと勧められた。
「言葉の解らない国で孤立するのは、思った以上に寂しいものです。私もそうでした。そういう時は、最悪の事態も考えなければならないのです」
「最悪の事態?」
「ええ。ついこの間も市内のとある大学で――」
自死した留学生がいたという。
「本当ですか?」
「ですから、留学生を迎えた時には必ずこのことだけは言うようにしています」
毎朝有志を集め、含明が簡単な武術教室を開いているのは、そういう意味もあったのか、と守は改めて感心した。
「ですが、だからといって日本人だけで固まっていてもいけません。言葉は使わなければ上手くならないですからね。せっかく費用もかけてここまで来たのに、覚えずに帰るなどという体たらくは、教える側としてはできるだけ勘弁してもらいたいものです」
渋い顔していた含明は言い終わった途端に微笑んだ。
含明の後ろ姿を見送りながら守はしみじみと思う。
(いい先生なんだ)
守はこの一月の間、含明の教師としての資質の高さを実感していた。
だのに――
何故武志はいなくなったりしたのだろう。
やはり、守に遇ったせいなのだろうか。
「はぁ………」
守は大きくため息をつくと、左右に首を振って暗い気持ちを振り払い、自分の部屋へと歩き出した。
留学生楼は、様様な国の人間が狭い建物に押し込められている。習慣の違いから生まれるトラブルも多かったが、慣れてみると守は意外に快適で楽しいと思った。
夕方になると「夕方だ」と声をかけ合うイスラム教徒。インスタント焼きそばがお気に入りのアメリカ人。シャワーばかり浴びているチベット自治区の女の子は、チベット語の数字の読み方が日本語のそれに似ているのだと教えてくれた。
「いち、に、さん!」
擦れ違いざまに声をかける。と、チベット娘たちは一瞬不思議そうな顔で守を見た。すぐに合点がいくとキャッキャと笑い、立てた人差し指を天へと突き出す。
「イッチ、ニッチ、サンチ!」
それから、守と彼女たちの間では、それが挨拶代わりになっている。
ところが、いろいろな国の友人が増えるにつれ、守は育とはさらに疎遠になっていった。二月経つと、朝の練功以外ほとんど顔を合わさなくなった。育も気の合う友人ができたのか、独りでいるということはほとんどない。英語と中国語が話せる分、下手をすると守よりも交際範囲は広そうだ。
けれど――
あれからずっと武志は帰って来なかった。そのことに関しての育の落胆は酷く、蘇州の時のような元気はない。最初の頃は週末に皓華と三人で近場を探しに行ったが、やはり手がかりは見つからず、今はもう出かけていない。
時時見せる寂しげな顔が気になるが、皓華も忙しいらしく、話し合って夏休みまでは生活に慣れることを優先することにした。
中国での生活を三か月ほど続けた頃、守は不思議なことに気がついた。毎日行われる練功は、初めの頃とは違い、段段に同じ内容をこなすことがなくなっていた。
守は同じことを反復する練習には慣れていた。それが今までの日常だった。
ところが、含明は何日かに分けてメニューを組み立てていても、その時になると大幅に予定を変えてしまう。守は最初、含明の気紛れなのかと思っていたが、人柄を知るにつれ、どうやらそれは違うのではないかと思うようになっていた。
すると皓華が、少し上手くなった日本語で教えてくれたのだ。同じ日が一日たりともないように、伝統の功法は、その日の天気、健康状態、季節などその他様様な要因で練功の手段が変わるのだ、と。
それは以前、含明も話していた養生の考え方だった。
そして――
夏休みも近づいたある日、皓華が守と育を呼びに来た。久し振りに四人で夕食を摂ろうと、含明に誘われたからだ。
「蘇州ですか? いいですね」
以前借りた別宅が借りられることになったので、四人でまた蘇州へ行かないか、と含明は言った。
「避暑も兼ねて一月ほど滞在するつもりでいます。基本功の功夫はついてきているので、そろそろ普段はできないような、もう少し専修的な内容を集中的に行いたいと思っているのです。こればかりは、他の人がいたらできませんからね」
「どうしてですか?」
「私たちと彼らでは、もともと持って生まれたモノが違い過ぎるのです」
「それって――」
夏芽が言っていた、生まれる時に親からもらった『元気』ということだろうか。
「両親から受け継いだ、先天の力が大きく関係しています。守のお父さんも、育のご両親も、とても優秀な方方です」
「えっ、うちの親父もですか?」
「もちろんです」
「でもうちの親父って――」
確かに大学を卒業するまでは、父は、ただ見た目がいいだけの男ではなかった。良い大学にも行き、実家も裕福で普通とはかけ離れた生活をしていたらしい。
ところが社会に出てからは、これと言った特筆できるようなこともなく、コネも使わずに就職した先は中小企業で、守が生まれたあと大企業の傘下に入ったとはいえ、ついこの間までそこの万年係長だった。今年になってやっと課長代理に昇進したものの、四十も半ばを過ぎていることを考えると、せいぜい課長になれるかなれないかで、それ以上の出世は望めそうもない。
そう話すと――
「いえいえ。能ある鷹は爪を隠す、と言いますからね。今回の昇進も、やっと爪を出す決心をつけたからでしょう。それは、守の成長があってのことです」
「オレの、ですか?」
含明はにこやかに微笑んで頷いた。
言われてみると父の人生は、大学までとそれ以降では別人のように違っている。それに、本当ならそれなりの地位にいて然るべきだ、と夏芽も言っていた。
ならば、本当に父は『能ある鷹』ということなのだろうか。
守はふと育を見た。育はその顔に、寂しさだけでなく、何とも言い表すことができないよく判らない感情を滲ませていた。
育の両親は育が八つの時に突然亡くなった。守は去年の暮れから三月ほど一緒に暮らした中で、育がまだそのことから立ち直っていないと感じていた。だからこそ失ったものを取り戻そうと、唯一残った弟を探し続けているのだろう。
そう思うと、父が出世できないことなど大したことがないように思われる。
両親と弟がそろっている自分は、両親と弟を失った育から見れば、きっと誰よりも幸せなのだ。
守はもっと含明に聞きたいことがあったが、この場では、もう何も訊かないことにした。何よりも育の傷にこれ以上、塩を塗りたくるようなまねはしたくない。
けれど――
何故父は急に爪を隠すことにしたのだろう。
守は独り部屋に戻るとどうしても考えずにいられなかった。
父に、いったい何があったのだ。
(でもそういえば――)
以前、母は言っていた。『維名くん』のことがちょっと好きだった、と。
その育の父の『維名くん』は、大学を卒業してすぐに、親友だった父の婚約者と駆け落ちしたという。
ならば父が変わったのは――
(親友に婚約者を寝取られたからか?)
信頼していた二人に裏切られたなら、人が変わっても仕方がない。
守も香子に一方的に振られた時には、思い切り落ち込んだ。
あの時何とか乗り切れたのは、武志のことと、金銭面が逼迫していたからだ。
けれど――
母はこうも言っていた。
駆け落ちに一番『ノリノリ』だったのは父だった、と。
そしてその頃にはもう、父と母はつき合っていたのだ、と。
守はわけが判らなくなった。
何が正しくて、何が間違っているのか全く見当もつかなかった。
*
青青とした稲は、午後の陽射しをいっぱいに受けて、天を貫くかのように真っ直ぐに伸びている。稲の間から覗く水面は、耐え切れぬ暑さを忘れてしまうほど涼しげだった。
夏休みに入ると、守たち一行は蘇州へと向かった。蘇州への道程は、窓から見える風景が夏のものになっている以外、前の時と大して変わりはなかった。部屋割りも同じで、着くとすぐに掃除をし、食事の支度をして昼食を摂った。
前にも経験しているから生活に対する戸惑いはない。
ただ今回違っているのは、含明も休みだから常に一緒にいることだ。だが、その変化すら歓迎に値するものだった。
半月も経つと、守は練功において、以前には感じられなかった様様な感覚を得ることができるようになっていた。
数多くの練功方法の中で、毎日必ず行えるものには限りがある。あるものは一時期集中的に行って、その後全く行えないものもでてくる。
通常、一度中断していたものを再び始める時、レベル的には本来なら中断していたところまでか、その前の段階まで戻ってしまうものなのだが、この功法に限っては、決してそういうことにはならない。それどころか実に面白いことに、知らない間にレベルが上がっていることがある。守は三時のお茶の時間に、肉汁がたっぷりの肉饅頭を片手に、含明にこのことを訊いてみた。
「面白い現象ですが、それほど不思議なことではないのです」
含明は嬉しそうに笑いながら、表情とは裏腹なあっさりとした答えを口にした。
「全ての功法は、まず、経絡に気を通すことを目的としています」
経絡とは、気の流れる通り道のことだった。十二正経、奇経八脈など、いくつも種類があるという。
「初め、それぞれの功法によって流れて行く経絡は違うのです。ですが、どの方法も最終的には全身くまなく、経絡などの枠組みを超えて、本当に微細なところまで流れて行きます。ですから、同じものを行っても初心者と熟練者では享受するものは同じではありません。いろいろな説があるのですが――」
自分たちの門派では、気血が全身くまなくごくごく微細なところまで流れる状態を『大周天』というと言い、さらに功夫を積めば積むほど、その感覚が変わっていくのだと付け加えた。
「それに、多くの功法を同時に行うのは、それぞれが優先的に流れる経絡の順番が違うというところが大切なのです。何種類もの方法を組み合わせることで、全ての経絡を速やかに開くことができます」
経絡が完全に開いていれば『気』は何を行っても、すぐに、滞りなく流れることができるという。通して行く過程がないから、その先の状態へとより早く入ることが可能なのだ。知らない間に進歩してると感じるのはそのためだった。
「それに、脳に対する血流量が上がることで、様様な『知能開発』が可能になってくるのです」
この『知能開発』とは、単に頭が良くなることだけでなく、特殊な能力が身につくということで、育が以前言っていた、『竅が開く』とほとんど同意語だった。
また、守が考えていた『超人』を作るということとも等しかった。
「ですが、それはあくまでも副産物でしかありません。我我が目指しているものはもっと高い次元のものです」
含明はそこまで話して言葉を切った。ゆっくりと渋みのある鉄観音を飲んでから、「まだ、早いかもしれませんが」と口を開く。
「話が逸れたついでに、一つだけ注意しておきましょう」
「何ですか?」
守は、肉饅頭を頬張りながら、モゴモゴと聞き返した。
「以前、静功の鍛練を始めた時に、私が言った注意事項を憶えていますか?」
守と育は、前回、初めて蘇州に来た時に、含明から静功の手解きを受けていた。それは意念を用いずにただ坐っているというものだった。
「内景に心を動かされない、ってことですか」
守の答えに、含明はにこやかに頷いた。このことは前にも育に散散言われていたから、守の耳にはタコができている。
「静功には、意念を用いるものと用いないものがありますが、そのどちらも内景に心を動かされてはいけません。意識をそちらへ向けてはならないのです。映画を見るようにただ観るだけ。そうしていれば、気血は全身くまなく、微細なところまで流れて行くでしょう」
「それは、『意識』が気血の流れを阻害する要因、ということですか?」
「そうです。『意識』が気血の流れを阻害しなければ、やがて肉体の感覚は消え、自分すらも消えてなくなってしまったように感じることができます」
守は、戒壇堂で起こったあの不思議な感覚を思い起こした。
「実はあの時に言わなかったことがあるのです」
スーッと意識が引いていき、含明の声が遠くに聞こえる。
「静功をしている時には、何も望んではならないのです」
卵の黄身の入った、蓮の実の餡の月餅を持った手を止めて、「何故ですか?」と育が訊ねた。
「功を積んだ者が望めば、それが叶ってしまうからです」
「え、叶う?」
我に返った守が復唱する。
「そうです。望みが天に通じて叶ってしまうのです。それがどんなに危険なことか解りますか?」
「危険なんですか?」
戸惑う育に、「アブナイ、アブナイ」と皓華。
「でも、望みは叶ったんですよね?」
守の言葉に、含明は神妙に頷いた。
「例えばこんな話があります。昔巨額な借金をして『お金が欲しい』と望んだ者がいました。彼の望みは天に通じ、彼はお金を手にすることができたのです。ですがその代償は大きかった。彼が手にしたお金は、大切な息子が亡くなっておりた保険金でした」
守と育が顔を見合わせた。皓華は腕を組んだまま渋い顔をしている。
「望むことは簡単です。けれど全てが自分に都合良くいくとは限りません。また、たとえ自分に都合良くいっても、他の誰かが不幸になることもあるのです」
含明は、「それに」と言いかけて口を噤んだ。
「何ですか?」
「いえ、いいんです。これはまだ言うべきではありません。今のあなた方には関係ないことです。とにかく『修心が大切』とだけ言っておきましょう」
含明はイスから立ち上がった。
「さあ、一時間ほど食休みをしたら日蔭で武功の練功をしましょうか」
皓華がすぐにそれに倣う。キビキビとした様子で「行コ」と育を部屋に促した。
含明は手際良く食卓を片付けながら、まだ納得がいかない様子で手伝う守に声をかけた。
「時が来たら、必ずその話を聞くことができるでしょう」




