乾坤交媾 大周天 6
説明回です。
個人研究、似非科学要素あり。ご注意ください。
*環境、機種によっては表示できない字を使っているところがあります。
站樁
『樁』は、春の『日』の部分が『臼』で、『くい(杭)』という意味です。
「眩しい……」
窓の外には広大な田園風景が広がっていた。木木は天に向かってその枝を広げ、さらに色を深めようとここぞとばかりに陽の光を受けている。道路を横切る小川の水面がキラキラ光り、夏の訪れを今か今かと急かしていた。
(これが、『卯』や『辰』が表す状態なのか――)
あの後、何故か『えと』の話になった。
本来『えと』とは、十干のことで、十二支のことではなかったという。
「養生や修心、拝師などは、道家や儒家の思想が元になっています。陰陽、五行、八卦。季節や方角、星宿や十干十二支など様様な要素が関わっているのです」
守の前に、また謎めいた言葉が出現した。
「十二支は解るんですけど、その『じっかん』っていうのは何ですか?」
含明はその問いには直接答えずに、「育さんは、解るでしょう」と話を振った。
「十干は、十に干すと書いて甲乙丙丁戊己庚辛壬癸のこと。そして甲が『木の兄』乙が『木の弟』、というように、五行をさらに陰陽に分けたものです」
すらすらと答えた育に、守が「へえ」と感心したように声を漏らす。
甲が『きのえ』、乙が『きのと』なら、そのまま訓読みということだ。
「でもさ、陰陽はどこにあるんだよ?」
「最後の部分。兄が『陽』で、弟が『陰』」
「つーことは――甲が『木の陽』で、乙が『木の陰』ってことだよな」
「そう」
守はカバンからB6版のノートを取り出すと、育に聞きながら十干を書き記す。
甲が『木の兄』、乙が『木の弟』。
丙が『火の兄』、丁が『火の弟』。
戊が『土の兄』、己が『土の弟』。
庚が『金の兄』、辛が『金の弟』。
壬が『水の兄』、癸が『水の弟』。
「五行の順番が判れば、訓読みが判るってのは、便利だな」
「うん。そして十干の『干』と十二支の『支』で、併せて干支になる」
「えっ、『えと』って、十二支のことじゃないのか?」
「それは――」
今まで二人のやりとりをニコニコしながら眺めていた含明が口を挟んだ。
「『えと』とは、本来は『兄弟』と書いて『えと』と読み、十干のことだけを指していました。十二支は全く関係なかったのです。ですから、十干十二支を表す時は『えと』と読まずに『かんし』といったほうが解りやすいかもしれませんね」
育が少しだけ目を瞠った。どうやら育もこの話は知らなかったようだ。そして「ちなみに」と含明は続ける。
「実は、甲が十番目だったという説があるのです。その説では、甲は先祖の位牌で一番下では失礼だから一番上に持ってきた、ということでした」
「はい?」
一気に胡散臭くなって守が首を傾げると、含明は笑みを漏らした。
「まあ、乙が一画で『一』と同じ音というのが大きいでしょう」
確か、夏芽も前に『一』と『乙』は同じ意味で使われると言っていた。
「中国では同じ音の漢字には、共通の意味があるとされることが多いのです。例えば、八卦で天を表す『乾』は『健』に通じているというように――」
含明が挙げた例は、守には全然役に立たなかった。けれど育には思い当たる節があるようで、うんうんと頷いている。
「位牌の話は置いておくとして、育さんは、このことについてどう思いますか?」
育はまず、甲が十番目かどうかは判らないが、と前置きした。
「確か――乙は、植物が曲がりくねりながら生長する様子を表した象形で、甲は、発芽した芽の先に種子のカラが載っている象形とされていました。ならば先に芽が出ていないとおかしいので、甲が先になったのではないでしょうか」
育の説明に「ああ、なるほど」と守は納得した。しかし含明は――
「乙の場合は、土から出る時に曲がってしまった形とする説もありますよ」
指摘され、育は「あ……」と言い淀んだ。
「それだと、どちらが早い段階なのかは、微妙ですね」
眉をひそめる育に、「これは、あくまでも私の考えですが」と含明は個人の意見だと強調してから話し出した。
「亀甲文の甲はただの『十』で、周りの『口』の部分がないのです。それが今の形になったのは何故だと思いますか?」
「それは――数字の十と区別するためですか?」
「確かに、それもあるかもしれません。ですが今の甲の意味は、固い外皮、つまり『口』の部分です。では『十』の部分はいったい何の象形だったのでしょうか?」
「え……」
育は、甲が『発芽した芽の先に種子のカラが載っている象形』と言っていた。
ならば――
(『十』は、種に入った亀裂……だよな)
守が隣の育を見る。
育もそれに気がついたのか、明らかにがっかりしていた顔が輝いていた。
「地表にでる前にカラが破れた段階なら、甲が先でもおかしくないです」
「そうですね」
含明はにこやかに頷いた。
「実は、私は位牌説が嫌いではありません。少し強引かもしれませんが、地表に芽が出て人の目に触れた段階が『乙』ならば、『陰』も『陽』も零にならないこと、すべてのものが循環していることからも、地下の目に触れていない段階が十でも、あながちおかしくない気がしてくるのです」
含明は苦笑しながら付け加えると、「せっかくなので十二支についても少し話しておきましょう」と話題を変えた。
子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥。
十二支を表すそれらの字には、その動物の意味はなく、発生した陽気が広がっていく様子を表すことから、草木の生長の過程という説があるという。
それは含明が日本に留学している時に図書館で借りて読んだ本にあった内容で、本の貸し出しカードには、守と育、それぞれの父親の名も記されていたらしい。
「その説では、『子』は種子の意味。『丑』は指を広げている手の象形で――」
含明は右手を出すと、全部の指を少し曲げて大きく広げた。
「本義は爪とされていますが、鍬の形に似ていることから『耕す』の意としていました。また『寅』は、甲骨文では鏃が上を向いた矢の象形ですが、植物が『芽』を出し伸びていく形に似ているということです」
さらに『卯』は門を開け放つ象形、『辰』は蜃気楼を出す大蛤の象形とされているが、『説文解字』では共に陽気が広がると解釈されていることもあり、植物が繁茂する様子を表し、本義が母体で成長する、胎児の象形の『巳』は、終わるという意味の『已』と同源ということから、草木が生長しきった姿とされていた。
含明がそこまで話し終えた時――
「皆、何、シテル?」
皓華が顔を覗かせた。皓華はすでに二階に上がって窓を開け、自分の荷物を部屋に運び込んで解いてきたらしい。
「育、アタシ、一緒。守、二階。来テ」
手招く皓華に、三人は顔を見合わせた。
「言うことを聞かないと、後が怖そうですね」
含明は「『午』からは自分たちで調べてください」と話を打ち切って、だいたいの昼食の時間を決め、それまでは自由時間とし、守と育を解放した。
この家の二階にはベッドルームが二部屋あり、階段を登りきってすぐの北西の部屋は女たちが占領していた。守の部屋はさらに奥、位置的には玄関の真上にある、二十畳ほどの広さの主寝室だった。
入ってすぐのところには、洋風の革張りのソファーに大理石の天板のテーブルが置かれている。中央の窓の下にはキングサイズのダブルベッド。その奥の南東側には家具はなく、ストレッチなど軽い運動ができそうな空間がある。
「ここは広いけど、あいつらは涼しいほうを選びやがったな」
陽が射し込んで暖まった部屋の中は、春とはいえ暑いくらいだ。
その時カチリと音を立ててドアが開き、皓華が顔を覗かせた。
守を見てニヤリと笑う。
「育ト一緒、イイ? アタシ、代ワルネ」
「止めて――」
皓華の後ろから、育の声が聞こえてきた。
「結構です」
守ははっきり断って、皓華を追い出すように扉を閉めた。
正直、ここに来ることになってほっとしていたのだ。さすがに密室で二人だけは辛過ぎる。もしかすると含明はこういうことも考慮して、ここに来ようと言ったのだろうか。
(それなら凄いな)
荷物を、造りつけのクローゼットの脇に置くと、すでに少し開いていた正面の窓を大きく開いた。清らかな水を張った田んぼを渡ってきた風が守の頬を撫でる。
「まっ、いいか。気持ちいいから」
せっかくここへ来たのだから、もっと楽しまなければ意味がない。
荷を解いて守が一階へ下りると、居間に含明はいなかった。
白と緑と茶で統一されたこの居間は、日本のリゾート地によくあるホテルのように、壁紙や家具、装飾品などは洋風で、中華風のものは一つもなかった。
皓華と育はすでにソファーでくつろいでおり、含明は昼食の支度に取りかかっているという。
「手伝わなくていいのか?」
「アタシ、育。後片ヅケ。ダイジョブ」
話しかけた守に、皓華があっさりと答えた。
「でもさ――」
「ジャア、守。運ブノ手伝ウ。イイ?」
「そりゃあ、もちろん。だけどさぁ――」
「含明さんのほうが上手なんだって、料理。いろいろこだわりがあるから、却って邪魔になるから手伝わないほうがいい、って皓華が。それに――」
育が何かを言いかけたところに、皓華が割って入った。
「アタシ、育、美味シイ、食ベタイ。守、食ベタイ、ナイ。変ネ」
「そういうことじゃ――」
守の反駁など聞く耳持たぬというように、皓華は「守、変ネ」と繰り返した。
「皓華は、いくら教えてもできないのです」
含明の料理は見事なもので、プロの料理人にも引けを取らないほどの腕前だった。下拵えが大切なのだ、と含明は言った。材料の切り方一つにもこだわりがあるのだ、と。
「哥哥、執着ダメ、言ウ。アタシ、執着、ナイ」
「だから、日本語も上手くならないんだ」
含明が呆れたように注意した。
「せっかく育さんと同じ部屋なんだから、育さんから日本語を習いなさい」
小さい子に言い聞かせるように含明がはっきり言うと、皓華は面白くなさそうに立ち上がり、空いている皿を手にキッチンへ向かった。育が慌てて後を追う。
「いいんですか?」
「大丈夫ですよ」
含明は、全然慌てない。
片付けを終えて育と皓華が戻ってきた。中国風の焼き菓子とお茶を手にした皓華は、鼻歌交じりですっかり機嫌を直している。
含明は、守に耳打ちした。
「ね。三歩歩いたら忘れてしまう。そこが皓華のいいところです」
ところが、皓華は全部忘れてしまったわけではなかった。含明に言われた内容はちゃんと憶えている。その証拠に育に教わったばかりの日本語を、さっそく披露して見せた。
「美味シイ、オ茶ト、オ菓子ヲドウゾ」
食後のお茶も終わり、含明は部屋へ戻って各自休むよう言った。
「あの、オレは大丈夫ですけど……」
戸惑いながらも守。自分は大したことをしていないので、旅の疲れはない。
「食事をしたら休みを取る。これは全世界共通のものです。日本には『親が死んでも食休み』という言葉まであると聞いています」
「そうかもしれませんが――」
遠くまで行かないまでも、せめて庭ぐらいは探索したい。そう言おうとした時、「これも『養生』なんですか?」と育が訊ねた。
「そうです。けれど、もう一つやって欲しいことがあるのです」
含明は、守と育に臥功の方法を説明した。
「臥功にもいろいろありますが、これから行うものは休息の方法として用います。仰向けに寝て、足は肩幅ぐらいに開き、脇は拳一つ開け、手のひらを上に向け腕は体に自然に沿わせます。目を瞑って安静にすることで、陽気を採り入れ補うことができるのです」
「採気法の一種なんですね」
育の言葉に、「そうです」と含明は頷いた。
「せっかくですから、まずどんなものなのかやってみてください。そのほうが言葉で説明するよりも何倍も実感できるはずです」
「そんなにすぐに、解るものなんですか?」
今度は守が訊いた。
「あなた方の真気の充実度は、一般の人とは桁違いですから、気感は十分に得られるはずです。ですがそれだけではだめです。練功者としてはまだ足りません。ですから、最初は採気と気血の循環を促すための導引や站樁などから始めましょう」
含明は、ここでこれからの練功のスケジュールについて簡単に説明した。
「他のものもおいおい教えていきますよ。按摩法に呼吸法、様様な自己調整の方法に、煉丹や知能開発のための静功、そして武功も行いましょう」
「『武功』――」
それは、前に皓華が守に教えると言っていたものだった。
「簡単にいえば、中国武術のことです」
もともと中国には武術という言葉がなく、日本で武芸一般を武術と呼んでいたことから、中国でも使われるようになったらしい。
「今でも武術よりは、まだ武功のほうが一般的です」
武功の功夫を積むことにより、真の力である内力が発生し、さらに功が進めば『発勁』や『寸勁』もできるようになるという。
それを聞いて守は俄然興味を持った。
何故なら『寸勁』とは、早世したカンフー・スターが得意とした『ワンインチ・パンチ』のことだからだ。
「発勁というのは、本来は『力を出す』という意味です。今言われている『発勁』は、どちらかといえば爆炸勁といわれるものに近いでしょう。あとは『寸勁』だけでなく、『尺勁』と『分勁』があります。『尺勁』は尺骨の長さから、『分勁』はほとんど触れている状態から発勁をします」
「本当に、できるようになるんですか?」
期待に胸を高鳴らせて守が訊いた。
「もちろんです。守なら『尺勁』や『寸勁』だけでなく、『分勁』もできるようになるでしょう。育さんは、内功を中心に行っていきましょう。二人とも良い資質を持っていますから、私も教えがいがあるというものです」
育が「お願いします」と頭を下げた。守はまだ内容が掴めていなかったが、とにかく含明の言う通りにやってみることにした。
そして、蘇州での生活が始まった。
含明の指導に従って、初めの二日間は様様な種類の練功を行った。
三日目からは大学の講義があると、含明は朝の練功を終えると蘇州から上海へと出勤していった。蘇州上海間は高速鉄道で二十分ほど。駅への車の送り迎えがあれば、十分通える距離だった。
含明の留守中は皓華の監督の下、今まで教わったことの復習をした。その合間に近くの農家で食料を調達したり、蘇州の街へ生活必需品を買いに行ったりと忙しく過ごした。
含明が上海から戻ってくると、夕食の後にそのまま雑談形式の講義に突入する。そしてその後で、守は含明から中国語を習い、皓華は育から日本語を教わった。
育は蘇州に来てからずっと明るくなっていた。体調も良く、皓華とも気が合うようで、日本にいた時よりも楽しそうだ。
よかったと思う反面、守は少し寂しくも思う。
守たちは一週間の予定を二週間に延ばして、上海へ戻った。




