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そらつかい『虚』  作者: カルヰアオ
第七章 乾坤交媾―大周天―(天と地が交じり合う)
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乾坤交媾 大周天 4

上海の街に関する感想は、個人的な創作です。

『魔都』という名称と、たまたまそう言っていた人がいただけです。

「オハヨー」

 翌朝早く皓華(こうか)がやって来た。晴れ晴れとした顔で朝の挨拶を済ませると、これ以上ないくらいにニッコリと笑う。

 寝入りばなを起こされて、(まもる)はひどく不機嫌だった。すでに起きて朝の支度を調えていた育も、何だか疲れているように見える。

「守、育、ドシタ。元気ナイネ」

 皓華は真面目な顔でそう言って、二人の顔を見比べると今度はニヤリと笑った。育に近寄って中国語で何かを囁き、また守に意味ありげな目を向ける。

「何だよ、皓華?」

「『若いからって、無理しちゃだめ』って」

 育が皓華の言葉を通訳する。

「『たくさん食べて、エネルギーを補給しなさい』って」

「なっ……」

 皓華の言いたいことに思い当たった途端、守は思い切り顔をしかめた。そうならないためにどれだけの労力を使ったのか、声を大にして訴えたい。だが文句も言い訳もする間もなく、支度を済ませ、急かされるまま部屋を出た。食堂で含明(がんめい)が待っているから早くしろ、というのが皓華の言い分だった。


 すでに注文を済ませていたようで、大して待つことなく料理が並べられた。睡眠不足で食欲のないところを、皓華に無理やり食べさせられ、胃を擦りながら食堂を後にした。食堂の前で含明と別れ、残りの三人で一度招待所に戻る。この後は武志と皓華の大学へ行く予定になっていた。

 少し休むよう言われたが、さすがにベッドに横になる気にはなれなかった。消化を助けるというお茶を飲み、早早に部屋を後にする。校門の前でタクシーを拾い、国術大学へ出発する。動き出すとすぐに守は爆睡し、学校に辿り着いた頃には胃も気分もすっきりしていた。


 タクシーを降り、守は大きく一度伸びをしてから歩き始めた。広大な敷地の中を皓華の案内で進んで行くのは前と変わらない。しばらく行くと劇場が見えてくる。初めて来た時と同じように、相変わらずの威風堂堂っぷりだった。育も思わず立ち止まって見上げていたほどだ。

 今回は体育館には寄らずに直接留学生楼に向かった。屋内に入りエントランスを進んで行くと、階段手前にある売店のおじさんに呼び止められた。皓華が応対するが、おじさんはなかなか納得しない。

「何だよ。前に来た時は、こんなことなかったぞ」

 少し良くなった守の気分が、途端に悪くなった。

「『旅券(パスポート)を見せろ』って言ってるけど」

「はぁ? 何でだぁ?」

「さあ?」

 とりあえず、守と育はカバンから旅券を取り出した。おじさんはそれを受け取り散散眺め回した後で、何か言いながら返してよこした。

「何だって?」

「『疑って悪かった』って。『でも、これも仕事だから』って」

「何のことだよ」

 エレベーターに乗り込んだ途端、皓華がいきなり中国語で捲し立てた。どうやら怒っているらしい。

「何だよ」

「早過ぎてよく聞き取れないんだけど。『失礼』だって」

「『失礼』? 何が?」

 育は、皓華の言葉をじっと聞いている。

「ああ。あのおじさん、あたしのこと……」

 育は、そこで言葉を切って少しだけ言い淀んだ。

「『商売の人』だって思ったらしい」

「商売? こんな手ぶらで、何売るっつうんだよ」

「そうじゃ、なくて……」

(はっきり言えよ、はっきり)

 言い出さない育に、守は心の中で毒突いた。

 育は皓華に中国語で話しかけ、答えを聞き出してから通訳する。

「『そういう人は多いの?』って訊いたら、『連れ込もうとする人はけっこういる』んだって」

「『連れ込む』? 何を?」

「……街娼――」

「え……」

 守は、開いた口が塞がらなかった。


 武志のいた部屋には、すでにイギリス人の留学生が入っていた。頼んで部屋の中を見せてもらうために、皓華の中国語を育が直接英語に通訳する。「英語も話せるのか?」と驚く守に、「少しだけ」と小さく育は答えた。

「武志は、ここにいたんだ」

 育はしみじみと周囲を見回している。部屋の中の家具の配置はほとんど同じで、印象は最初に来た時とそう変わっていない。

「そういや、ちびマルはどうしたんだろう?」

 守が皓華に話しかける。と、「『チビまる』、何?」と皓華が訊いた。

「カメだよ、カメ。うんと――烏亀(ウークイ)?」

「アア、剋蛇(かーしゃ)

 皓華はすぐに納得し、中国語で何か言った。

 守が育を見る。

「『いなくなった』んだって」

「マジで? あの入れ物かなり深かったぞ」

「『どうやって出たのか知らないけど、脱走した』って言ってる」

 礼を言い、三人は武志が三度目に消えた場所へと向かった。


 去年の夏とは打って変わって、花鳥市場は明るく賑わっていた。暗くて重い雰囲気は微塵もなく、守を助けてくれた土産物屋のお爺さんもいなかった。

 せっかくなので、少し店を見て回り、昼食と報告を兼ねて大学へ戻った。すでに昼を過ぎてはいたが、含明は待ってくれていた。

「どうでしたか?」

 皓華が手早く注文を済ませている間に、含明が午前中の成果を訊いてきた。

「目新しいことは何もなかったです」

「明日は、どうしますか?」

「行くべきところは行ってしまったので特に予定はありません。それに――」

「育さんの調子がよくないようですね」

 守の視線を追った含明が、心配そうに育の顔を覗き込んだ。

「すみません。何だか、疲れるんです」

 また誤解されるのかと思うとうんざりしたが、含明は守の予想とはまったく別のことを育に訊ねた。

「ここの『気』は、合いませんか?」

「ここはまだいいんですけど、市街の方は、苦手です」

「守は、大丈夫ですか?」

「えっ? オレは平気ですけど――って、気場が悪い、ってことですか?」

「その人の目的によってですね。まあ、我我練功する者にとっては、あまり芳しいとは言えませんが――」


 守は改めて育の顔を見た。白い頬が青ざめてさらに血の気が引いている。含明は皓華に何を注文したか確認し、服務員(ウエートレス)を呼ぶと、さらに口当たりのさっぱりした、消化のよい、滋養のあるものを育のために追加した。

「育さんは食後に少し部屋で休んだ方がいいでしょう。守はどうしますか? 行きたいところがあるのなら、皓華に案内させますが」

「昨夜あんまり寝てないんで、オレも休みます」

「そうですね。慣れない場所で無理は禁物です。それからよかったらですが、明日から蘇州の方へ行ってみませんか? 知り合いの別宅があるのでそこを借りることにしましょう。私も、明日と明後日は授業がありませんから、よければ四人で行きましょう」

 せっかくの含明の申し出を育は「でも……」と躊躇った。迷惑を掛けたくないということなのだろう。だがいつも青い顔をして心配させられるくらいなら、素直に甘えてくれた方がましだとも思う。

 守がそれを柔らかく言おうとした時、「大丈夫ですよ」と含明。

「武志のことは、何か動きがあったら連絡してくれるよう頼んでおきます。それにここよりもずっと気場はいいですから、育さんにもきっと合うと思いますよ」


     *


 皓華は、含明のセダンを校門の少し手前に横付けし、待っていた二人分の荷物をトランクに詰め込んだ。含明は事務手続きのため育を連れて管理棟に行っている。

 少し雲があるが、天気は上上だった。

「遅いなぁ。何してんのかなぁ」

(ソウ)哥哥(オニイサン)、牛、歩クヨリ遅イ」

 皓華は含明のことを哥哥と呼ぶ。中国では血が繋がっていなくても、年上の人には尊敬を込め、名前の後に『哥哥』や『姐姐(おねえさん)』をつける習慣があった。

「ふ~ん、牛が歩くより遅いのかぁ」

対対(ソウソウ)。出カケヨウ。哥哥、アレヤル、コレヤル。アタシ、行コウ、言ウ。哥哥、チョト待テ。デモ、チョト、違ウ」

 皓華は身振り手振りを混ぜながら、『チョト』のところを強調して言った。

「あはっ。含明さんは、ずいぶんと慎重な性格なんだなぁ」

「『シンチョー』、何?」

「う~んと、気をつける、っていうか。あっ、そう、そう」

 守はボディバックからメモ帳を取り出すと、『慎重』と書いて運転席側のドアに寄りかかる皓華に見せた。皓華は「(ソウ)(ソウ)」と何度も大きく頷いた。


 青い空を白い雲がゆったりと流れて行った。上海は奄美大島と同じ緯度なので、春といっても暑いぐらいだ。眠気を催した頭で、守は漠然と考えた。

(含明さんはともかく、玄明(げんみょう)を行かせたのはまずかったな)

「あいつも、けっこうマイペースだからなぁ」

「アイツ、誰? 『まいぺーす』、何?」

 皓華に訊かれたが、言い表す上手い漢字が思い浮かばない。

「来タ!」

 考えているうちに含明と育が戻って来た。質問したことなどすっかり忘れ、皓華はさっさと運転席に乗り込んだ。含明が言う以上にさっぱりとした性格だ。

「お待たせしました。行きましょう」

 含明が助手席に乗り込み、守はドアを開けて育に先に入るように促した。


 蘇州への旅は快適だった。

 上海市内を少し離れ、広広とした田園風景が広がり始めると、空気の感じが少しずつ変わっていくのが判った。戒壇院(かいだんいん)の『気』にも似た、さわやかさと透明感。

 守はさらに、上海にいる時にははっきりと感じ得なかったものをも感じていた。

 あの街はたくさんの人が成功を夢見て集まってくる。だから街の『気』はとてもエネルギッシュだ。けれど、それは多くの欲望の集積でもある。

「あそこは、殺気立ってるから、嫌」

 育は、そう表現した。

「不特定多数の誰かが、不特定多数の誰かのことをいつも出し抜こうとか、貶めようと考えている。争って、怒って、憎しみになって、憎しみが憎しみを呼んでさらに膨れ上がって、それが果てしなく続いていく――」

 育は「だから、嫌」と眉をひそめ、そして具合が悪くなった。

 よく解らない守でさえ、前回の、夏の上海の熱気と騒騒しさには、辟易したのを憶えている。少しのことで苛ついて、ちょっとしたことで爆発しそうになった。

 気をつけていないと、知らず知らずのうちに怒りに浸蝕されてしまうのだ。

 今も時折、体の中を下から上へと突き上げてくる何かを、守は感じていた。その上昇に乗ってしまったら、何か取り返しがつかないことになるかもしれない。

 そんなそこはかとない不安に囚われる。

 守でさえそうなのだから、より感覚が鋭い育は、きっともっと大変なのだろう。

 それに――

 含明が武志のことを言い出すまで、育が何故蘇州行きを躊躇っているのか、守は全然気づけなかった。本当なら自分が先に気づいて何とかしなければいけなかったのだ。そのために、わざわざここまで来たはずなのに――


 『怒り』が『怒り』を呼んでさらに増殖する。

 眩まされた目や頭は、客観的な事実さえも歪めてしまう。


(『魔都』というのは、言い得て妙だな)

 守は、声を出さずに呟いていた。


『々』が入っている単語にルビをつけると、前に『|』をつけないと表記が正しく出ないようなので、この回から『々』を使わないことにしました。申し訳ありません。

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