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そらつかい『虚』  作者: カルヰアオ
第七章 乾坤交媾―大周天―(天と地が交じり合う)
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乾坤交媾 大周天 3

これはあくまでも創作です。

実在の場所で起こった現象は、すべて作者の妄想の産物です。



「ねえ……」


 薄目を開けた(まもる)の前に、儚げな女の顔があった。

 長い睫に、濡れた唇。

 細く白い(かいな)が闇に浮かび上がる。

 その腕を取ろうと、守が手を伸ばした。

 目の前の唇に、細い裂け目ができた。

 その裂け目の奥の暗がりに、七つの――



「なあ、夏芽(なつめ)さんは、ちゃんと話してないんじゃないのか?」

 別棟(べつむね)にある留学生用の食堂で夕食を取り終えた後、居間の窓際にベッドを据え置き、借りてきた掃除機で簡単に掃除をしてから、含明(がんめい)皓華(こうか)は帰って行った。

 ドアが閉まり、階段を下りる足音が遠ざかるのを待って守は声を荒らげた。

「うん。そうだね」

「だよ、な」

 (いく)の方をできるだけ見ないようにして、守は答えた。

 育に八つ当たってもしょうがない。そんなことは守にも解っていた。だのに怒りが収まらない。

 だがよく考えれば、それは本当に怒っているというよりも、もっと別の感情を隠すための代償行為だった。

 他に人がいればいいのだが、二人きりだとどうしていいのか判らなくなる。近くで温もりを感じただけで、柔らかい肌を思い出した。隣にいると思うだけでも辛いのだ。ましてやあの七つの星を見てしまったら――

 守は、自分の意志とは関係なしにそういう状況に陥ることだけは、何が何でも避けたかった。


「じゃあ寝室のほうを使ってくれ。カギがついてるから、寝ている時には、かけておけばいいさ」

「うん」

 育はそう答えたが、動く様子もなくその場に立ち尽くしている。

「何だよ?」

 我慢しきれずに守は訊いた。

「どうして?」

「何が?」

「あんたは、絶対に来ないと思った」

 守はチラリと育を見て、それから小さく頭を振った。

「約束したろ。『オレが維名を見つけてやる』って」

「でも……」

「もう決めたんだよ。それから――」

「何?」

「オレは一時間ぐらい出かけるから、早く風呂入って、帰って来るまでには寝ててくれ、いいな」

「でも――」

「一緒にいるのが、ヤなんだよ。それぐらい察しろよ。それに遠くには行かない。敷地内にいる。そうじゃなかったら、来た意味がないからな」

「………」

 守はルームキーを手に取り、育を残して独り外に出た。

 適当に構内を走って戻ってくると、育は言われた通りもう部屋に入って寝ているようだった。守も簡単にシャワーを浴びて、ベッドに潜り込む。

 運動をしたのがよかったのか、そのまますぐに夢の中へと落ちて行った。



「ま…る、…もる」

「……ん?……」

 守の肩を遠慮がちに揺すっている手の温もりは、よく知っている者のそれだった。守はその手を掴み、体をずらしながら引っ張った。

「キャッ」

 不意をつかれたのか、小さく声を上げて倒れ込んでくる。守は、素早く体を入れ替えると、いつものように華奢な体に覆い被さった。

「ダメ……」

 右耳の下の柔らかい部分に、吸いつこうとしたその時、胸を手の平で押し返された。それでも構わず舌を伸ばす。

「守――」

 突然誰の声で、誰の温もりか思い当たった。ここ数ヶ月毎日のように聞き、感じていたものだった。

 育から体を引き剥がした守は、急いでベッドの端まで飛び退いた。

 勢い余って落ちそうになる。

「な、何してんだよ!」

「ごめんなさい」

 白いTシャツに薄墨のフリースのカーディガンを羽織っている育が、済まなさそうに俯いた。

「ざけんな! ()(くず)しにオレを懐柔しようたって、ダメだからな!」

「違う!」

「何が違うんだよ。現にこうやって、寝込みを襲って来てるだろ。それとも違うのは、『済し崩し』の使い方か? 徐々に進めていく、って意味だから、無理やりなかったことにしようとしている今の状況には相応しくないって言いたいのかよ!」

「そうじゃない……」

「じゃあ、何だ!」

「ちょっと、あたしの部屋に来て」

「はぁあ?」

「来てほしいの」

 守はさらに体を引いて、冷たい視線で育を睨みつけた。

「ごめん。何か、いる」

「あ?」

「部屋に、何か……」

「え?」

 育の言葉が脳内にやっと実を結び、守は途端に恥ずかしくなった。結局自意識過剰だったのは、育ではなく守のほうだった。

「ネ、ネズミじゃないのか?」

 さっき構内で見かけたことを思い出し、守は慌てて訊いてみる。

「たぶん、違う」

「イヤな感じは?」

「しない。でも……」

 育はそれ以上言わなかったが、判らないから落ち着かない、ということだろう。

 育の視線があちこちにさ迷って、守に不安が伝染する。演技ならこんな感じにはならないと、三月一緒に暮らした経験が言っていた。

 守は大きく息を吐き「解ったよ」と立ち上がった。

「見ればいいんだろ。見れば――」

 育をベッドに残し、電気もつけずに部屋の境の扉に向かった。ネズミだったら逃げないよう、気休めに扉の下をスリッパの底で塞いでみる。ノブをゆっくり捻って音を立てないよう隙間を作った。

 そこからそっと中を覗く。

 闇の中に、ベッドが白く浮かび上がっていた。

 ついさっきまで、育の体が横たわっていただろうシーツの上には、僅かな捩れが見て取れる。そのベッドの下辺りに、微かにボウっと何かが青く光っていた。

 目を凝らして、よく見る。

(ない、な。気のせいか……いや――)

 ベッドの向こうに青い光。

 今度は消えずに残っている。

 その細い光は真っ直ぐに、窓際ににじり寄って行った。

(ヘビ? ん……違う。あ、あれは――)

 音を立てないよう慎重に、守はゆっくり扉を閉めた。

 振り返るとすぐそこに、育の心配そうな顔があった。



 ベッドに戻るよう囁いて、守は育を促した。育に腰を下ろさせて、その左隣に自分も座る。だが守は、月明かりの差し込む薄暗い空間に目を向けたままだった。

「守?」

 育が問いかける。

「あのさ――」

 重い口を開いたものの、守は眉間にシワを寄せ、なかなかその先を話さない。

「何?」

 育が重ねて訊いた。

「……龍を――見たこと、あるか?」

「えっ、龍?」

「ああ」

 育の方を見返ってた守の顔は笑顔だった。興奮しているのか、我を忘れているようで、先程までの警戒した様子は微塵もない。

「小さな青い龍が、ベッドの周りを回っている」

「ヘビ、じゃないの?」

「横じゃなくて縦に波打ってんだぞ。それにヘビに手足はついてないだろ。おまけに(ひげ)(たてがみ)まであるんだぜ。ウソじゃないから見てみろよ。ホントにちっちゃいんだ。んと――二十センチぐらいかな」

 扉の前まで育が進むと、守が後を追ってきた。後ろにぴったりくっついて、育の耳元に顔を寄せる。

「いいか、音は立てるなよ。ベッドの周りにいなかったら、窓の方にいる」

 育はそっと扉を開け、隙間から中を覗き込んだ。

 暗い部屋の中は、さっきと何も変わらないようだった。

 不意にベッドの下辺りに、ぼうっとした青い光が浮き上がった。

 ゆっくり移動している。

 その光の中心に、確かに小さな青い龍がいた。

 青い光は、カーテンの裾まで行き着くと、中央を上に昇り始める。

 それは天井に到達すると細い髭を揺らし、方向転換して下降し出した。

 小さいながらも、優雅な動き。

 と――

 龍は突然スピードを増し、下りの中程で何かをパクンと飲み込んだ。

「『何か』食ったぞ」

 育の耳元で守が興奮したように囁いた。

 ボウっとした青い光の中で、最後に垣間見た『何か』は、闇とはまったく質感の違う黒い小さな固まりだった。

 あの時の黒い『靄』に少し似ている。

 龍はさらに下って床に至ると、方向を変えた。

 龍の髭が細かく揺れる。

 どうやらこちらに気づいたようだ。

 黄色い目がギロリと睨む。

 八方睨みの黄色い(まなこ)

 どこかで見たことがあるような目だった。

 睨み合ったままで時が過ぎていく。

 不意に、育の後ろで守が動いた。

 と――

 龍は一瞬のうちに掻き消えた。

 青い光は跡形もなく、ただ薄暗い闇だけがそこに残った。

「消えたのか?」

 守が扉を開けて中に入り電気をつけた。

 明るくなった部屋を一通り調べている。

 何も、いない。

「なんか、護ってくれてるみたいだな」

「うん」

「どうする、ここで寝るか? 怖いんなら、オレんとこで――」

 育が目を瞠ると、守はそこでハタと止まった。

 視線を反らせ、すぐに慌てたように付け加える。

「い、居間のほうで寝るか? ――替わるけど」

 育は首を横に振った。

「もう、大丈夫。起こして、ごめん」

「いや、起こしてもらってよかったよ。そうじゃなかったら、こんなに珍しいもん見逃すとこだった」

「そうだね」

「じゃ、じゃあな――」

「うん」

「あっ、カギかけんの、忘れんなよ」

 守は強く言い置いて、「おやすみ」と扉を閉めた。



 ベッドに横になった守は、窓の外の、今は朧に霞む月を眺めていた。

 あの時『オレんとこで』と言った後に、自分は何と言うつもりだったのだろう。

(たぶん――『一緒に』、だな)

 結局、無理にでもなかったことにしたいのは、育ではなく守自身ということだ。

 守はもう一度月を見た。

 ガラス越しの蚊帳の網目からは、(かすみ)に隠れて朧気に光る丸い月が見えている。あの月と同じように、幾重にも張り巡らされた問題が、守と育を包み込んでいた。

 何も知らない頃のように、もっと単純だったなら。

 クリスマスの後のように、ただ傍にいるだけでいいのなら。

 けれど、もう二度とそんな風には戻れないのだ。

 守は、育の滑らかな肌の温もりを恋しく思った。

 華奢でいて、柔らかな体を抱きしめたかった。

 そして、さらにきつく締め付けてくる感触を――

 守はそこまで考えて、「はあ」と一つため息をついた。

 こんな状態で、育と一緒にいるのは辛すぎる。

(風呂場で――、いや、やっぱ、止めたほうがいいな)

 守は無理にでも、記憶の中から夕食前の含明の言葉を引きずり出した。


『それらのすべてが、きっと守の疑問の答えとなるでしょう』


 あれは、どういう意味なのだろう。

 それに含明は――

 自ずと判るかもしれない、とも言っていた。

 ならば、自分で答えを出せということか。

 何が何だかさっぱり解らない今の状態で、答えを出すことなどできるのか。


 モヤモヤと、すっきりしなくて腹が立った。

 去年の夏から、ずっとそうだ。

 本当に、何時か判る日が来るのだろうか。

 途端に、おかしさが込み上げてきた。

(あん時も、やっぱりそう思ったんだ)

 石窟に閉じ込められたあの時――

(あ……)

 育とのことを思い出しそうになって、守は、勢いよく頭を振った。

 眠ってしまったほうがいいだろう。含明はそう教えてくれたではないか。

 けれど今夜は頭が冴えて、とうてい眠ることなどできなさそうだ。


 守はベッドを軋ませながら、大きく寝返りを打つ。

 冷ややかな月が霞む春の夜は、まだ当分明けそうもなかった。


この日は満月の設定ですが、2000年4月は、5日が新月で実際には月はほとんど見えなかったらしいです。


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