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そらつかい『虚』  作者: カルヰアオ
第七章 乾坤交媾―大周天―(天と地が交じり合う)
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乾坤交媾 大周天 1

今回から中国編になります。

作者の妄想で補完している部分が多々あります。ご注意ください。

「あなたが、(いく)さんですね?」

 振り返った視線の先に、痩せた長身の男が立っていた。

「そうですけど……(かく)教授、ですか?」

 男は微笑んで頷き、遅れたことを詫びてから、「(まもる)は?」と訊いた。

「五分ほど前に探しに行ったんです」

「なら、そろそろ戻って来そうですね。行き違いにならないように、ここで待っていた方がいいのかもしれないな……」

 含明(がんめい)は上に目を向けて、最後は独り言のように呟いた。視線を戻し真顔になると、今度は育をじっと見つめる。突然のことに、育はどうしていいか判らずに目を伏せた。



 様々のことが発覚した後、留学用にあらかた用意を終えていた荷物を手に、守はマンションを出て行った。それきり戻ることはなく、何の連絡もなく時が過ぎた。

 ただ独り空港で待っていた育は、搭乗手続きを促すアナウンスに、もう来ないかもしれないと席を立った。後ろ髪を引かれるようにノロノロと移動し、カウンター近くで顔を上げる。

「あ……」

 人混みの中に背の高いよく見知った男が立ち止まっていた。父のお下がりという朱色の大きなスーツケースの脇で、辺りをあちこち見回している。目線は斜め上方に向けられているから、育を探しているわけではなさそうだ。

 育が急いで歩み寄ると、向こうも育に気がついた。

「………」

「どこにいたの? 携帯にかけても通じないし、実家にも帰ってないって聞いたけど――」

「…………」

「ねえ?」

「……夏芽(なつめ)さんに聞いたのか?」

「うん」

「約束は守る。それでいいだろ。それから――」

「何?」

「もう話しかけてくんな。不愉快なんだよ」

「………」

 守は冷たく言い放ち、育の先に立って搭乗手続きを始めた。取りつく島もないというのはこういうことをいうのだろう。結局、隣同士の席に座りながらも、上海の虹橋(こうきょう)空港に到着するまで、二人の間に会話らしい会話はなかった。

 入国手続きを終わらせて、到着ロビーに出るとすぐ、二人は含明との待ち合わせ場所へ向かった。だがその場所には、迎えにきてくれているはずの含明の姿は見当たらない。飛行機は定刻通りに到着したが、荷物の受け取りに手間取って、おおよそで決めた約束の時間を二十分ほど過ぎていた。

「ちょっと、見てくる」

 育と荷物を置き去りにし、止める間もなく守はその場を離れて行った。



「含明さん!」

 守の声に、育の前にいたすらりと背の高い男が振り向いた。

「すみません、守。事故で道が渋滞していて遅くなりました」

 相変わらずのにこやかさで、含明が詫びを入れる。

「そんな、いいですよ。オレたちも今さっき出て来たばかりです。それより、よく玄明(げんみょう)が判りましたね」

「お母さんの櫻子(さくらこ)さんに、よく似ていらっしゃいますからね」

 その言葉を聞いて、育が目を瞠った。

「母をご存じなんですか?」

「ええ。日本に留学している時にとても親切にしていただきました」

 含明が育の母に初めて会ったのは、中学に上がる前の年の一九七三年。現在から数えて二十七年前の春だったという。

「櫻子さんはとても優しく美しい(かた)でした。四月から高校三年生だと仰って、十年ほど前に流行ったという歌を教えてくださいました。夕日、校舎、クラス、仲間。そんな日本語はその歌で覚えました。気がつくと今でもたまに口ずさんでいる時があります」

 古き良き時代を思い出し、含明は実に懐かしそうだった。

「玄明は、そんなに似てるんですか?」

「生き写しですね。前から似ているとは聞いていましたが、まさか、ここまでとは思いませんでした。それに小さい頃の育さんにもお会いしたことがありますよ。武志(たけし)や守が生まれる前で、それはそれは可愛らしい赤ちゃんでした。そして今は、櫻子さんに負けず劣らずとても美しくなられた」

「………」

 守が育に目を向けると、いつも青ざめている頬がほんのり(あか)く染まっていた。

(何だ、こいつ)

 守は何だか面白くなかった。


 含明の人柄をそんなによく知っているわけではないが、育に対する褒め言葉の中に、一切のお世辞が含まれていないだろうことは、守にも判った。

 確かに育は美しい。

 守も心の中ではずっとそう思っている。

 だがいくら心で思っても、さすがに口に出すのは恥ずかしかった。こんな台詞が無条件で似合いそうな父でさえ、ここまで面映(おもは)ゆいことを臆面(おくめん)なく口にしたりはしないはずだ。

 そこまで考えて、守は急に含明が日本人でないことを思いだした。


 父は前に言っていた。母語(ぼご)とそうでない言語との違いとは、一つの単語に対し、本来の意味とは別の『感覚』や『想い』がどれだけ湧き起こってくるかだ、と。

 守の場合、『美しい』という単語から湧き出る感情は、ただ単純に『姿形が優れている』という意味だけではなかった。

 きれいより改まった感じの『美しい』は、無闇に使うべきではない。

 という、特別感。

 こんなことを言っても信じて貰えないかもしれない。

 という、恐れ。

 騙そうとしていると疑われないだろうか。

 という、躊躇い。

 キザっぽくて自分には似合わない。

 という、嫌悪感。

 本当に思ってない方が、さらっと言えそうだ。

 という、本音。

 こんなこと言って調子に乗られたらどうしよう。

 という、警戒感。

 そしてただ単純に、自分の気持ちを素直に伝える恥ずかしさ――

 等々だ。

 これが、英語の『beautiful』だと、裏に特別な意味もなく軽く言えそうだし、中国語の『漂亮』だと、ほとんど感覚や感情が湧いてこない。

 ただ――

 含明は外国人といってもかなりの上級者だった。日本に何年もいて日常的に日本語を使用し、さらには日本人留学生相手に今も普通に使っている。ならば日本語であってもそれなりの感覚や感情は湧いてくるはずなのだ。

 とはいえ、やはり母語として使っている者に比べれば、それには遠く及ばない。

 母語とは、思考する時に使う言語とも言い換えることができるだろう。その人のアイデンティティーは、その母語によって確立しているとも言えるのだ。

 ゆえに母語以外の言語では、感覚や感情が湧いても、何か薄いベールがかかっているようで、肉薄するリアリティに欠けるともいう。『(なま)』の持つグロテスクさが足りない、と前に父は言っていた。

 ならば――

 含明の場合、リアルな切迫感がない代わりに、素直に感じたままを伝えようと、ただ純粋に辞書に載っているそのままの意味だけで使っているということになる。

 言葉に載せた気持ちの純度が高いからこそ、育は素直に受け取り、頬を染めたのだろう。それは含明が日本人でないからこそできることだった。


 守はそこまで考えて、

(別にいいか)

 と、思い直す。

(もう、関係ないんだ)

 たとえ話の間中、育がずっと含明を見つめていたとしても、もう自分とは、何の関係もない。

 その時――

()~ッ!」

 雑踏のざわめきが溢れる中、ロビーに突飛な声が響き渡った。

「守~ッ!」

 駆け寄ってきた皓華(こうか)が、いきなり守に飛び付いて来る。

「ちょ、ちょっと待てよ、皓華!」

 キスさえしそうな勢いに、守は大いに慌ててしまう。

「許してあげてください。皓華は守のことを、弟みたいに思っているんです」

「ソウ。アタシ、弟、欲シカッタ」

 そして皓華は、続けて中国語で捲し立てた。

「何て言ってるんですか?」

「武志が育さんの弟なら守は皓華の弟なんだ、と主張しています。ですから、今日から『皓華姐々(おねえさん)』と呼びなさい、ということらしいです」

「そんな、無茶苦茶な」

 皓華はひとしきり「弟々(テイテイ)」と自分よりも背の高い守の頭を撫でてから、突然育に目を向け「コノ美人、誰?」といまさらながらに訊いてきた。

「育だよ」

「オオ、武志ノ、オ姉サン。アタシハ、秋皓華(シュウコウカ)デス。ドゾ、ヨロシク」

「玄明育です。こちらこそよろしく」

 皓華はニッコリ微笑むと、「行コ」と守の腕に手を回し、「車、コッチ」と荷物ごと守を駐車場へと運び去った。



 初め、呆気に取られて見ていた育は、強引に引きずられて行く守を見て、最後には少しだけ笑っていた。含明はそんな育をずっと静かに見つめていた。

「その方がいいですよ」

「え?」

「笑っていた方が、あなたには似合う」

「あ……」

 含明が優しく微笑むと、育は自分の頬が熱くなるのを感じて俯いた。

「さあ、私たちも行きましょうか」

 含明は育のスーツケースを手に、守と皓華の後を追った。



 一時間後、守たちはあの虫除けの網に囲われた『団地』の一室にいた。

「すみません。留学生楼(りゅうがくせいろう)が空いていなかったので、招待所を取っておきました。空き次第、移れるようにはしてあります」

 そこは以前守が泊まったことのある、大学の招待所だった。

 十畳ほどの居間と同じ大きさの寝室、ミニキッチンとランドリー、そして八畳と無駄に広いバスルームで構成され、寝室にはシングルベッドが二台、並んでいる。

(ダブルじゃないだけマシだけど――)

「あ、あの――」

 守が含明に声をかけた。

「何でしょう」

「オレたち、同じ部屋なんですか?」

「不味かったですか? 一応そう聞いていたものですから」

「違います!」

 守が強く否定すると、「それは失礼しました」と含明は頭を下げた。

「困りましたね。空いている部屋はあるとは思いますが、今すぐもう一部屋となると――たぶん難しいと思います」

「そうですか……」

「皓華は別の大学の寮なので、育をそこへというわけにはいかないですし、皓華をここに泊まらせて、守が私の家へという方法もありますが、私の家は市街地にあるので、日本租界(にほんそかい)のあったこの辺りからは結構離れているのです」

 何があるのか判らない。たとえ皓華がいたとしても、守には、育をここに残して自分は別の所へという選択肢はなかった。それでは、わざわざ中国まで来た意味がなくなってしまう。自分が育を護ると決め、はるばるここまでやってきたのだ。

「どうしますか?」

「解りました。ここでいいです」

「では、こうしたらどうでしょう。私も手伝いますから、後でベッドを一台、こちらの居間の方に運びましょう」


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