坎離交媾 小周天 16
自分の人生を得体の知れない『もの』が絡め取ろうとしていた。
すでに一部を捕らえられ、さらに引きずり込もうとするソレを、どうすれば振り切ることができるのだろう。
そこまで考えた守の脳裏に、不意に端正な顔が思い浮かんだ。
同じ立場にいた父は、いったいどうしていたのだ、と。
そして疑問と共に父の言葉も思い出す。
『恐怖を克服したいなら、詳らかにすることだ』、と。
そうだった。
あの時、たった一つ小さな電球を点けただけで、すべてが明るみに晒された。
板戸はただの板戸だったし、縁側もただの縁側だった。
闇に隠れ、はっきり見えないからこそ怖いのだ。
あとそこにあったのは、オモチャや遊具を入れたミカン箱に、母の嫁入り道具の足踏みミシンだけだった。
そして――
守は『仲間』の意味を考えてみた。
夏芽は、『わたしたちは、同門の徒』と言った。
中国の『仲間』である含明と皓華は、同じ武術を学ぶ兄妹弟子だった。
守や育の祖先は、中国の皇族の護衛として日本にやって来たらしい。
ならば夏芽が言う『仲間』とは、前に含明が言っていた『同じ門派の武術を学ぶ門人』ということだ。
けれど――
守は今まで、父からそれらしきものは教わったことはない。
育や志穂が武術家かと問われれば、すぐに違うと否定できる。
さらにその集団は、『煉丹』に関係してるという。
それに――
育が『靄』を退けた例のアレだ。
アレは武術というよりは、呪術や方術の類いではないのか。
そんなことを、あれこれ考え合わせれば自ずと答えは見えてくる。
夏芽の言う『仲間』とは――
武術に特化しているのではなく、『煉丹』を行う『仲間』ということになる。
つまり人為的に人を超えた人、『仙人』を作ろうとしていたのだ、と。
(マジかよ)
辿り着いた結論に、守は軽い目眩を覚えた。
そんな御伽噺のようなことを、とうてい信じることはできない。
だが――
自分が危機に陥った時に発した、朱い光のこともある。
守は、未だにアレが何かが判らない。
自分自身のことでさえもこうなのだ。
まだまだ判らないことは山積みだった。
ならば――
守は、夏芽からさらなる答えを引き出そうと口を開いた。
「オレと育がしなければいけない『義務』って何ですか?」
再開された守の問いに、珍しく「それは……」と夏芽が言い淀んだ。
「ごめんなさい、わたしの口からは言えないわ。わたしも詳しくは知らないから。だから、それは元生さんに訊いてちょうだい」
「育は、知ってるんですか?」
「さあ? 本人に直接訊いてみたら?」
夏芽が自分の隣に視線を流す。育は暗い顔で俯いたまま、守と目を合わせようとしなかった。守が声をかけようとしたその時、夏芽が香子の名を呼んだ。
「あなたはもう帰りなさい。都合のいいところまで、車で送ってあげるわ」
香子はコクリと頷くと、言われるままに立ち上がった。
「……マモちゃん、ごめん。アタシ、帰るね」
守を残し、自分だけ退場することに躊躇いがあるのだろう。香子はすまなさそうに守に言い、育に軽く頭を下げてから、夏芽と白い居間を後にした。
「詳しくは聞いてない」
守が二人を見送って、育の斜め前、最初に自分が座っていた場所に腰を下ろす。
と、育が問われる前に話し出した。
「あたしは、ただお祖母様にあんたと結婚するよう言われただけ」
育が語った答えは、とうてい守を満足させるものではなかった。守が知りたいのは『義務』の内容と、それを行うために何故結婚しなくてはならないか、だ。
守は抗議をするかのように大きくため息をついた。
「それ、いつの話だ?」
「え……」
「つか、おまえさ、いつから知ってんだよ? オレたちのこと」
「………」
「初めて遇った時にはもう知ってたんだろ。なら、何でオレに言わないんだよ?」
育は、その問いにも答えなかった。
「また、だんまりかよ」
今度は言葉に出して抗議する。
「それは……」
育がやっと口を開いた。
「……『火』の男は束縛されるのを嫌がる。そうお祖母様に言われたから」
夢はもう終わりだ、と言われたようなものだった。育の言葉の中には、想い合う男女の間に存在すべき、誠意がまったく見られない。
だが、よく考えれば最初から判っていたことだった。
育は別に守のことが好きなわけではないのだ、と。
つきあうことになったのも、守が強引に押し切っただけなのだ、と。
それが育だけでなく、周りに都合とも合致した。
『こればかりは理屈じゃない』
そう言うほど欲の部分は共有できても、ただそれだけだ。
おそらく、それがつきあっていると実感できない、最大の理由だったのだろう。
「何だよ、『お祖母様』って。おまえには自分の意思ってもんはないのかよ」
自然と言葉がきつくなる。
「仕方がないの」
「チッ!」
守は強く音を立てて舌打ちした。
夢の終わりを惜しむよりも、ただただ無性に腹が立った。
「おまえもかよ! どいつもこいつも、『仕方がない』、『仕方がない』、ってどういうことだよ!」
怒りにまかせて罵ると、育が顔を上げた。
燃え盛る炎を映すように、昏い瞳の揺れる光が黒い影を踊らせている。
「あたしはお母さんの代わりなの! そのためにあの家に引き取られた――」
せめぎ合う光と影は溢れ出し、雫となって柔らかな頬を滑り落ちる。
熱く滾った守の全身が、冷や水を浴びせられたかのように急速に冷えていった。
「だから、自分じゃ決められないのか?」
落ち着きを取り戻した声で守が訊いた。
「そうじゃない!」
育は左右に首を振った。
「なら、ちゃんと言えばいいだろ、こんな大事なこと。オレに言わなくていいってことにはなんないよな」
守が「違うか?」と問うと、育は「でも」と反論した。
「知ってたら? 最初から知ってたら、どうした?」
「――そんなの、判らないよ」
「でしょ」
「そうじゃないさ。知ってたらどうしたかなんて、その場になってみなきゃ判んないってことだ」
「だったら、どうするの? もう、判ったんだから決めてよ」
体を大きく後ろに引き、守はソファーの背に凭れ込んだ。
最初から知ってたらどうしたか――
おそらく、結果は同じだったはずだ。
あの衝動は、それほど抗いがたいものだった。
けれど、それを素直に認めたくはなかった。
どうしても思ってしまうのだ。
石窟の時は無理だったとしても、せめてイブの夜に話してくれたら、と。
そして自分に選ばせてくれたら、と。
ならば、たとえ同じ結果になったとしても、ここまでの拒否感はなかったはず。
だが、育がそれをしなかったのは――
どんなに答えを探しても、出る結論は同じだった。
そしてその答えに行き着く度に、小さな傷が一つ付いた。
こんな状態で続けていても、明るい未来は見えてこない。
けれど、すでに周りを固められつつある現状では、ちょっとやそっとのことでは逃げることなどできなさそうだ。
頼みの綱は父だけだが――
父の弱みを握っているだろう母は、すでに向こうの手に落ちていた。
(もう、勝てないじゃんか)
守は、絶望的な気持ちになった。
一瞬、すべてを棄てて遠くに逃げることも考えた。だがあまりにも非現実的すぎて想像が及ばない。それにやられっぱなしで逃げるのも悔しい。それ以上に逃げてはいけない気がひしひしとしている。
守が逃げて自分の子供に背負わせることになったなら――
いやこの分なら、きっと弟が犠牲になる。
それは、どうしてもイヤだった。
ならば、すべてを受け入れて育と結婚するしかないのだろうか。
気持ちのない女と一緒になって、想い合うことなく一生過ごすのか。
お手本は両親だけだが、育との生活は、それとはかけ離れたものになるだろう。
それでもそれしかないのなら――――――
(――冗談じゃない)
諦めかけたその時、何かがいきなり切り替わった。
守の中にムクムクと反抗心が湧いてくる。
育がどんなに可哀想な境遇でも、それがいったいなんだというのだ。
どんな理由があったとしても、こんな理不尽なことは絶対納得できなかった。
「無理だよ」
どれくらい経ったのだろう。長いような短いような時間だった。
守の口から吐き出された言葉は、最初は育の耳を通り抜け、白い居間の、白い壁に空しく吸収されていった。
「え?」
「無理だ。決められない」
「――どうして?」
育が訊く。
「だって何も判ってないじゃないか。親父と育のお母さんがしなきゃならなかったことって何だよ? 何でそれをオレと育がしなきゃなんないんだ。それに――」
守は言葉を切って育を見た。その眼には朱い光が宿っている。
それは閉じ込められていた石窟を満たしていた、あの朱い光だった。
「維名は、何処へ行っちまったんだ」
育は言葉を詰まらせた。
「オレは何も解ってない。説明を聞けば聞くほど、どんどん解らなくなる」
「守……」
「なあ、教えろよ、育。オレはどうしたらいいのか教えてくれ。それがオレが果たさなけりゃならない義務なら、果たしてやるよ。だから、オレにもちゃんと理解できるように、納得できる答えを――」
「上海へ行きなさい」
守の「くれ」と言う言葉に被さって、女の声のが聞こえてきた。
守が声の方を振り返ると、白い扉の前にオレンジベージュの女が立っていた。
「あなたが知りたいことは、きっと角師兄が教えてくださるわ」
次回から中国編になります。
中国に関する情報はかなり古いので、全然参考になりません。
現在とはまったく違うこともあると思いますが、ご了承ください。




