坎離交媾 小周天 15
いろいろなことが判明します。
理屈が通っていないところがあったら済みません。
銀色に輝くケトルが、ガスの青い炎に炙られている。育はお茶の支度をするためにキッチンに立っていた。
「んなこといいから、こっちに来いよ。訊きたいことがたくさんあるんだ」
育は自分では動かずに、カウンター越しに「何?」と訊いた。守は立ち上がってカウンターまで行き、手を突いて前に乗り出した。
「おまえさ、どこまで知ってんだよ」
守が正面から睨みつけると、「何のこと?」と育。
「オレたちのことだよ」
何のことだか判らない。そういう答えを待っていた。
だが、育はまったく別の回答を諳んじ始める。
「でも、ちゃんと決まってたわけじゃないから。お祖母さまたちはそうしたがっていたけど、元生さんが反対して……」
途端に、守は嫌そうに顔を歪めた。
「また、親父かよ。親父が何だって言うんだ!」
「元生さんは――」
守の背中越しに、育の代わりに答え始めたのは夏芽だった。
「『自分のせいで息子の将来を決められてしまうのは嫌だ』って仰ったの。それに元生さんも、櫻子さんと結婚するつもりはなかった。わたしはそう聞いているわ」
「ふ~ん。夏芽さんは、何でもかんでもご存じなんですね」
守の嫌味に、夏芽の表情が硬くなる。
「でも、夏芽さんだけじゃないんだよな。みんな、グルなんだろ」
居間を見渡した守は、険を含んだ自分の声でさらに怒りを増幅させていく。
「知らなかったのは、オレだけ。オレだけなんだ!」
ピーーーーーィーーーーーッ。
けたたましい音と共に、ケトルの口から水蒸気が立ち昇った。驚き、気勢を殺がれた守の体から一瞬のうちに力が抜ける。育がノロノロと移動して、カチリとガスの火を止めた。
「熱いから気をつけて」
来客用の湯飲みを配り終え、育は夏芽の横の、ソファーの空いている場所に腰を下ろした。夏芽は守にもこちらに来るよう促したが、守はそれには従わなかった。スツールに腰を下ろしたままでカウンターに肘を突き、不貞腐れたように頬杖をついている。
夏芽は大きく一つため息を零すと、熱いお茶を手に取った。少し吹いて冷ましてから、オレンジベージュの唇を、薄い鶯色の液体で湿らせる。
「育もすべてを知ってるわけじゃないの。あなたと似たり寄ったりよ」
「信じられないな」
「そうよね。それも仕方がないのかもね。でも、話だけは聞いてちょうだい」
夏芽は湯飲みをテーブルに戻し、守の方に向き直った。
「わたしは、今日まで育と会ったことはなかったのよ。もちろん存在は前から知っていたわ。それに育だけじゃなくて、あなたのこともずっと前から知っていたの」
「だろうな。でなきゃ、いろんな小細工だってしなかったんだろ」
「そうね」
夏芽はあっさりと肯定した。
「確かに体育大の推薦が決まりそうだったあなたに、『一緒の大学に行きたくないか』って、香子に言わせたのはわたしよ。上海に行かせて武志に遇わせて、奈良で育と遇うように調整したのもわたし。どうしてもあなたと育を会わせたかったの」
「それに、どんな必要があるって言うんだ?」
「それは、もう、判ってるんじゃない?」
(そうだ。一度会ってしまったら――)
離れられなくなるだけ。
けれど守は「判らないな」と否定した。夏芽は「そう?」と軽く疑問を呈してから、「いいわ。そういうことにしておきましょう」と見透かしたように言う。
「ただ、ここで言いたいのは、わたしは『道を示しただけ』ってこと。ほんの少し切っ掛けを作っただけなのよ。何も特別に分刻みの綿密なスケジュールを組んで、仕向けたわけじゃないわ。それにあなただって、止めたかったらいつでも止められたはずでしょ。違う?」
挑戦的な夏芽の視線を、守は真っ向から受け止めた。
「ああ、そうだな。それは認めるよ」
夏芽は「でしょ」と頷いた。
「あんな杜撰な計画で普通だったら会えるわけがないの。会えたほうが奇跡なの。でもあなたと育は出遇ったわ。それは、あなたたちがそういう星の下に生まれついているからよ」
「『そういう星の下』?」
「蛾が光に引かれるように、わたしたちは引かれ合う」
「だったら維名は? 維名のことはどうなんだよ? あいつがいなくなったのも、あんたが仕組んだってことなのか?」
「それは、違うわ」
夏芽は慌てて否定して、悲しそうに眉をひそめた。
「その件に関してはよく判らないの。わたしだってまさか武志がいなくなるなんて思ってなかったのよ。あの時、わたしがちゃんとあなたについてさえいたら――」
京都で会った時の様子からも、夏芽の言葉に嘘偽りはなさそうだった。
守は、夏芽に対する自分の態度を少し改めることにした。
「だったら、親父が育の母親と結婚しなかったからって、何でオレと育が結婚しなきゃならないんです?」
「『義務』って知ってる?」
「え?」
嫌そうに顔をしかめる守に、夏芽は慌てて手を振った。
「別に、馬鹿にしてるわけじゃないのよ。人は生きていくために義務を果たさなければならないでしょ」
「回りくどい言い方ですね。それは、オレと育に義務があるってことを暗に言いたいだけでしょう?」
「そうね。本当なら元生さんと櫻子さんが負うべきことだったの。けれど、あんなことになってしまって、その役目があなたたちに回ってきたの。なのに元生さんは反対したわ。『守の人生は守に選ばせたい』って。だからわたしたちは考えたの。どうすれば、あなたが育を選ぶのかを――」
「『わたしたち』って?」
夏芽は少し戸惑ってから、「わたしと会長よ」と答えた。
「誰です?」
「さっき会ったでしょう。わたしの会社の会長で、玄水グループの現社長の母親。そして鴛鴦学園の理事長で――」
「育の祖母さん」
「そうよ」
玄水というのは総合商社で、確か守の父の勤め先も、そのグループの傘下の一つだったはずだ。
「あなたは聞いたことがあるかしら、丹下の祖先は、玄明の祖先と一緒に中国から渡って来たってことを」
「中国ですか?」
「ええ。明から清に変わる頃よ」
当時日本は江戸時代の初期。鎖国になって十年くらいの頃だったという。
「日本に亡命した、中国の皇族の護衛として来たという話なの。でも実際のところはよく判らないわ。日本に来てからは、関東の周辺に集落を作ってそれぞれ暮らしていたそうよ」
自由に行き来できない時期もあったが、交流は細々と続いていた。やがて明治になって、日本が本格的に貿易を始めるようになった時に、玄明の祖先もそれに便乗し、成功を収めたという。それが今の玄水の前身だった。
「みんなで協力して会社を大きくしていったの。わたしはあまりお会いしたことはないのだけど、先代の会長はあなたのお祖父様よ」
守は自分の実家のこぢんまりとした建売住宅を思い出していた。四LDKの我が家には、猫の額ほどの庭と車一台をやっと止められるスペースがついていた。
「そんなはずないですよ。確かに鴛鴦を創ったらしいことは聞きましたけど。もしそうだったら、今頃はもの凄い豪邸に住んでるはずでしょう。だいたいうちの親父なんか、四十五過ぎてやっと課長代理になったばかりですよ」
「そうなのよ。本当なら元生さんは、本社の役付きの役員か、せめて子会社の社長ぐらいになっていてしかるべき人なのよ。なのに、どうもそういうのが嫌みたいなのよね、あの方は――」
ため息交じりに改めて言われてみると、守にも心当たりがないわけではない。
父が祖父と不仲だったことは、前にどこかで聞いたことがあった。だから守は、物心ついてからは一度も祖父に会ったことがないし、父の実家にもほとんど行ったことがない。それでも広い家で迷子になりそうになったことは、微かに記憶として残っていた。それに祖母の残したあの遺産だ。さらに父の姉は鴛鴦の理事で、守が鴛鴦大学に進学したのは、その関係が大きかった。
それに、父の性格的なものにも思い当たる節がある。守の父は何よりも、縛られたり決めつけられたりするのが大がつくほど嫌いなのだ。
「じゃあ、夏芽さんはどういう関係なんですか?」
「わたし? わたしはみんなが日本に渡ってくる前の『仲間』よ」
「『仲間』?」
その言葉の中に、守は普段は感じることのない怪しい響きを感じ取った。
「秘密結社、みたいなもんですか?」
「『幇』のこと?」
夏芽は非常に綺麗な中国語で発音してから、「そんなに凄いものじゃないわ」と守の考えを否定した。もともと『幇』という字は『補助』の意で、同郷や同業の者の相互扶助を行う団体に付けられた名前なのだという。
「『幇』は、単に『派』とか、『会』って訳すこともできるの。そういう意味でならわたしたちも『幇』よ。けどもっとずっと小規模だし、閉鎖的よ。滅多なことでは増やさないし、増やせない」
「繁栄することが目的ではない、ってことですか?」
夏芽は「そう」と頷いた。だが、これさえあれば無条件で仲間になれる、というものもあるらしい。
「何です?」
「血よ。もっと詳しく言うのなら、両親から受け継いだ『元気』ね」
子供の『元気』は、両親双方から分け与えられたもの。京都で遇った時、夏芽はそう話していた。
「『元気』が、ある一定レベルよりあれば、ってことですか?」
「それだけじゃなくて質も大切よ。でも、それもある程度まで。そこから先は訓練次第かしら。まあ、普通の人に比べたら断然有利なのは確かだけど。それに倫理観というか、人間性? そういうものも大切ね。どんなに才能や実力があったって、滅多な人には教えることができないの」
夏芽は、前に育が言っていたのと同じことを繰り返した。
「悪用される、ってことですか?」
「それもあるわ」
「『も』?」
「その人をね、ダメにしてしまう可能性があるのよ」
「ああ――」
『本当に頭がおかしくなる人がいる』
育は確かにそう言っていた。
つまり親がどんな人間かが判ることが、子供が『どんな価値観を持っているか』『どれだけの負荷に耐えられるか』の目安になるということだ。
「それって前に言っていた、『煉丹』に関係してますか?」
「そうよ」
夏芽は嬉しそうに目を輝かせ、「わたしたちは同門の徒よ」と含明と同じ言葉を口にした。
「それでわたしの家は、中国に残った『仲間』と日本の『仲間』の連絡係みたいな位置にあるの」
「中国の? ――って、もしかして、皓華と角教授も?」
「もちろんよ。含明師兄の角家と皓華の秋家、それからわたしの祖父の黄家が中国に残った『仲間』なの」
「なるほど……」
何故、含明があんなに親切だったのか。
何故、皓華があんなに親身だったのか。
それにもやはり理由があったということだ。
「で、連絡係で、さらに会長の秘書もやってる、と?」
「だからそれは肩書きだけ。言ったでしょう。本当の職務内容は『何でも屋さん』よ。海外に行って買いつけもすれば、お客様にお茶も出す」
「ついでに、『遣り手ババア』みたいな真似もする」
「まあ、失礼ね。宮子さんに言いつけてやるから」
守は、頬杖をついていた手を外した。
「何で夏芽さんが、お袋のこと――」
そして少し考えて、「どうりであの締まり屋のお袋が、融通してくれたわけだ」と誰にともなく呟いた。
「宮子さんはね、元生さんと櫻子さんのことはご自分にも責任がある、って――」
バン。
大理石のカウンターを守が勢いよく叩いた。
「マジ、みんなグルなんだな。結局オレの味方は親父だけ、ってことかよ!」
守のあまりの剣幕に、空気だった香子がフルリと肩を震わせた。守はそれを目敏く見つけ「ごめん」と香子に謝った。
「気の毒だとは思うわ。でもね、仕方がないのよ」
「仕方がない……」
「決められたことなの」
だが――
そんなことを言われても、守はとうてい納得することはできなかった。




