坎離交媾 小周天 13
すっかり陽は昇りきり、雲も疎らになっていた。
春の陽だまりにあるベンチはポカポカと暖かい。
そんな長閑な風景の中、香子の守に対する容赦ない追及は続いていた。
「玄明先輩と、いつからつきあってるの?」
「それが……」
守は言葉を濁してごまかそうとした。だが香子は上目遣いに睨みつけ、話し出すのをじっと待っている。こういう時の香子は、驚くほど粘り強い。
逃げられないものと観念し、守はポツポツと話し始めた。
「べ、別に、『つきあってる』って、わけでもないみたいなんだ」
「どうして? だって一緒に住んでるんでしょう? 凄いマンションに」
香子は『凄い』のところに力を込め、さらに「『みたい』ってどういうこと?」と突っ込んできた。
「それがさ、オレも最初はそのつもりだったんだけどさ……」
「『けど』、なあに?」
「それがな――」
冬休み中に引っ越しを終え、大学が始まると、守と育の関係は一変した。
一時期あれほどまでに離れがたかった二人の間も、新学期が始まって数日経つ頃には落ち着きを取り戻した。何よりも、昼夜を問わず見境なくということはなく、次第に規則正しい生活パターンが生まれつつあった。
特に守の場合、昼間は学校、夕方には図書館で調べものをし、家に戻って夕食の後、生活に伴う雑用その他を終わらせて、十一時からの二時間を育の部屋で濃密に過ごした。その後自分の部屋で就寝し、夜明け前に起き出して朝のロードワークと、皓華から教わった、基本功と呼ばれる簡単な基礎練習を行う。
家に帰ると、育が朝食の準備を調えてくれているという具合だった。
朝のロードワークを再開したのは、留学先で含明や皓華から、武術を習うことになったからだ。基礎的な訓練が終われば、その先のことも望めるようで、そのための体力作りと柔軟は入念にやっておかなければならなかった。
ただ必要以上の筋トレ、特にマシーントレーニングは禁止された。
それは武術の動作によって使う筋肉が違っていて、使う必要がない筋肉を鍛えても結局は無駄になってしまうか、かえって邪魔になるからだ。
またマシーントレーニングで局所的に付けた筋肉は、必要があって付いた筋肉と違い落ちやすい。それに基本功などの武術に必要な一連の動作を繰り返し、各所を同時に鍛え上げたものに比べると、全体の筋力のバランスが取れにくく、各筋肉の協調性や連動性も悪いので、力の伝達がスムーズにいかないこともあるという。
体調がすこぶるいい今の守なら、もっと負荷のかかる練習を行うことも可能だった。だがこの時期はもともと状態が不安定だったことを考えると、ロードワークと基本功ぐらいに押さえておくほうが無難というものだろう。
育の的確なアドバイスのお蔭で、後期の試験を難なく乗り切った守は、金銭的な余裕もあって春休みになってもバイトは再開しなかった。朝は、たまに練習に行かずに育の部屋から出ないこともあったが、連続して何日もということはなく、日中は中国語の日常会話の練習や、音になれるため、育が録りためた中国語のニュースを聞き流しながら、ストレッチを行ったりとのんびり過ごした。
今は細々(こまごま)とした準備も終わり、後は出発を待つだけになっていた。
などということを、守は本当に極々個人的な事情を除いて香子に話した。
「何か、けっこう勉強してるんだね」
「試験があったってこともあるんだけどさ、この三ヶ月間、留学関係と勉強のこと以外の話はしてないんだ。まあ、他に共通の話題もないんだけどさ」
「え? 家族の話もしないの?」
「家族か――」
守は「それが一番の禁句なんだ」と言い、
『両親は事故死』
『祖母に引き取られた』
『弟が行方不明』
と、育の家庭の事情を三行で説明した。
「あー、それは、確かに話せないかも」
「だろ。で、おまけに一緒に遊びに行ったこともないし、メシすら食いに行かないんだぞ。たまに買い物に行って、ただ同じとこに住んでるってだけだ。なあ、これってつきあってるって言えるのか?」
「う~ん……」
逆に守に訊ねられ、香子は困ったように首を傾げた。その顔が、何か思いついたようにハッとする。
「じゃあ、Hは? Hもしてないの?」
「え……」
言葉に詰まった守に、「もう、いいよ!」と香子が勢いよく立ち上がった。
「怒るなよ」
守は帰ろうとする香子の手首をそっと掴む。「当たり前でしょ」と香子はそれを振り払った。
「だってアタシ、バカみたいじゃん! マモちゃんのこと、まだ好きなのに!」
餌を頬ばっている食いしん坊のリスのように、香子は頬を膨らました。守のことを睨みつけたその両の目から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちる。
突然の告白に、守は何が起こっているのか理解できなかった。
呆然としていると、いきなり香子が人差し指のつけ根で目を擦る。
たっぷり付けたマスカラが剥がれ、垂れ気味の目尻の縁を黒く染める。
守は立ち上がって、香子にタオルを差し出した。
「パンダみたいだぞ」
自分の手に視線を落とすと、香子は恨めしそうに守を見た。ベソをかき、スンスンと鼻を鳴らしながら抗議する。
「意地悪だよ、マモちゃん。昔はそんなに意地悪じゃなかったのに……」
懸命に文句を言う香子に、守は思わず笑みが零れた。
「ごめん」
香子も涙を浮かべたまま「もう」と泣き笑いの顔になる。
「やっぱさぁ、香子といるほうが、気が楽なんだよなぁ」
守はしみじみ言って頭を掻いた。
「え~っ、そんなこと言ったら、いけないんじゃないのぉ」
半分睨んではいるものの、香子も何だか嬉しそうだ。
守と香子は、もう一度ベンチに腰を下ろした。
「あのさ、あん時、何で別れるなんて言ったんだよ」
この際とばかりに、守はずっと疑問に思っていたことを訊ねてみた。
だが「やだ、怒るもん」と香子はなかなか教えてくれない。根気よく「話せよ」と守が繰り返すと、その度に「だってぇ」と甘えた声で香子がごねまくった。
「絶対に怒んないよ」
「ホントにぃ?」
「ちゃんと話してくれたら、な」
「じゃあ、約束して」
くどいくらいに念押しする。
「うん。約束する」
しっかり約束を取りつけて、香子は「あのね」と話し始めた。
「お姉さんにね――」
「何だよ、香子にお姉さんなんていないだろう」
「違うよ、『お姉さん』っていうのは、アタシの従姉の人のことだよ」
香子の従姉のことは、前に守も聞いた憶えがあった。確か夏の旅行の手配をしてくれたのは、香子の従姉ということだった。
「マモちゃんと友達になって、マモちゃんのこと、いろいろ教えてほしい、って言われたの。最初はね、アルバイトみたいなつもりだったんだ。洋服とかアクセとかコスメとか、買ってくれたからさぁ。あっ、怒っちゃダメだからね。『約束』したよね」
香子は『約束』という言葉を何度も繰り返した。
「でもね、アタシ、マモちゃんのこと本気で好きになっちゃったから、何か悪くって、『ちゃんとつきあうことにしたから、もうヤだ』って言ったの。それでもらった物も全部返そうとしたんだよ。でもお姉さん、返さなくっていいって言うの」
「そ、そうなんだ」
「だから、それからは報告してないよ」
「全然か?」
「うん」
「ホントに?」
「うん。ただ、話のついでに、どこに遊びに行ったとか、どこでご飯食べたとか、何の映画を見たとか、それぐらいなら――」
「話したのか?」
香子はそこで「ヘヘ」っと笑った。
守の経験では、香子がこういう笑い方をする時は、何かをごまかそうとしている時だった。
『女の世界の情報伝達の早さと、不正確さを侮るな』
守の脳裏にその教訓が響き渡った。
(ってことは――)
ほとんどのことを話していて、とんでもない話になっている可能性が高い。
守は思いきり頭を抱えたくなった。
「それでね、後はね――」
「ん?」
「大学は、鴛鴦に推薦入学が決まったから、本命の試験は受からないようにしなさい、って――」
「は? ウソだろ……」
「ごめん。アタシどうしても、鴛鴦にいきたかったんだよ」
「………」
騙されていたのもショックだったが、香子の従姉が何の目的で自分のことを調べていたのか、判らないほうが不気味だった。
香子の従姉の得体の知れなさは、黒い『靄』の得体の知れなさとよく似ていた。我を忘れて叫び出したくなるような、無理やり中まで侵蝕されそうな、そんな気持ち悪さを感じるのだ。
その時――
『判らないから怖いんだ』
そう言ったのは父だった。
子供の頃、守が住んでいた寺の、玄関の脇には長い縁側があり、その突き当たりの板戸の先に、本堂へ繋がる渡り廊下が続いていた。普段は閉められ簡単に行き来できないようになっていて、そこに住んでいた七年の間、守がそこを通ったことはほとんどない。
そんな何もない縁側の、何でもないような一角が、何故か守は怖かった。
多くの遺骨が眠る裏の墓地よりも、板戸の前に横たわる、薄ぼんやりとした闇のほうが怖かった。
ある時それを父に訴えたら、『判らないから怖いんだ』と、扉の前に電気を一つ付けてくれた。そして父はこうも言った。
『恐怖を克服したいなら、詳らかにすることだ』と。
ならば、守が香子の従姉に気持ち悪さを感じるのなら、その正体を明らかにするしか方法はない。
そのためには――
「で?」
「え?」
「まだ何かあんだろ。つかその人、何でオレのこと知りたがるんだ?」
「し、試合見て、カッコよかった……とか?」
「まっさか――ないない」
あの父ならいざ知らず、自分に限ってそんなことは有り得ない。
そして守はもう一度、「で?」と香子を促した。
「それがぁ、去年の夏の旅行もお姉さんに勧められたの。そしたら間際になって、アタシの分の飛行機のチケットはないんだって……」
「はぁ? 何で?」
「マモちゃんには『決まった人がいるから、これ以上つきあったらダメ』って言われて……」
「あ? 何だよ、それ!」
「怒らないでよ。だって、本当にそう言われたんだもん」
「………」
もしそれが本当なら、その『決まった人』というのは誰のことだろう。
守は香子に訊いてみた。すると「えっ、知らないの?」と、香子は本当に驚いているようだった。
「ああ」
「でも……」
「何だよ?」
「玄明先輩は? 玄明先輩は、何にも言ってなかったの?」
「育? 何で育が――えっ? まさか……」
香子は真剣な顔で、コクリと頷いた。
「うん。玄明先輩のことだよ」
「はぁぁぁぁあ、ウソだろ!」
守の最大級の驚きを見て、「うゎっ、ホントに知らなかったんだ」と香子が少し後退した。
「当ったり前だろ!」
声を荒らげる守に「でも――」と香子。
「一緒に住んでるんだよね」
「あ……ま、まあな」
「で、Hもしてるんだよね」
「ま……まあ、な」
「…………」
「…………」
斜め横目で睨む香子の視線が冷たかった。
気づかないほうがおかしい、ということなのだろう。
けれど、守は一度だってそれらしき話は聞いていない。
(マジかよ――。あー、でも……)
育はどうなのだろう。育はこのことを――
(知っているのか?)
香子を見る守の視線が、守を見る香子の視線とぶつかった。
「行くぞ!」
守が突然立ち上がる。その剣幕に香子はキョトンとした顔で見上げている。
焦れた守は、香子の手首を鷲掴んだ。
「行くぞ!」
「痛いよ、マモちゃん。それに、『行く』ってどこに?」
「育んとこだ」
「え? シャレ?」
恍けたことを言う香子に「違う!」と守。
「確かめるんだよ。本人に」




