坎離交媾 小周天 12
「マモちゃん……」
四月の初日、いつもストレッチを行っている公園で、守は元カノの香子に声をかけられた。育と出会って百一日目の花曇りの朝だった。
「何で……」
「ここで待ってたら、きっと練習に来ると思って」
香子は手袋をしてない手を寒そうに擦っている。四月とはいえ、朝晩はまだまだ冷え込むことも多い。
「話、あんだけど――」
去年の夏にフラれてから、香子とは学校で擦れ違う程度で話らしい話はほとんどしていなかった。しつこくして男らしくないと思われるのも癪だったし、サークルの先輩という新しい彼氏の噂も聞いていた。だから話があると言われても、今さら何故、という思いのほうが強い。
「何だよ?」
「マモちゃんの部屋に、行ってもいい?」
「え? ファミレスとかじゃ、ダメなのか――」
六畳一間のアパートは、今はもう別の誰かが住んでいた。
暮れに育のマンションに転がり込んだ守は、年末年始をそのままそこで過ごし、実家にも帰らなかった。そんな濃密な関係で交わされた会話の中で、守が一番驚いたのは、育が同じ大学の、哲学科の三年というものだった。
「もしかしたら、擦れ違ってたかもしれないんだ」
「あたしは見かけたことがある。あんたの名前は知らなかったけど、小さな可愛い女の子と一緒だった」
何気なく語られた言葉だったが、守はその中に、育があれだけ自分に冷淡だった理由を見出だした。
「もしかして、オレが二股かけてるって思ってたのか?」
育は一瞬困ったような顔をして「別に」と言って視線を逸らせた。
どうやら図星だったらしい。
誤解が解けてよかった、とホッとするのと同時に、嬉しい気持ちも湧いてきた。言質を取るよう勢いに任せて押し切ったが、つきあったからには仲良くやっていきたいと思うのは人情だ。
それに――
守は自分の意思とはまったく別のところで、育から離れられない自分がいることにも気づいていた。それは『本能』という名のもう一人の自分なのかもしれない。だがそれよりも、もっと大きな何かに突き動かされている、そんな感じがずっとしている。
そう話すと、「理屈じゃないの」と育は言った。
「こればかりは理屈じゃない――」
そして冬休みが明ける前に、守は住んでいたアパートを引き払った。
「やっぱり、玄明先輩と一緒に住んでるんだ」
香子は上目遣いに睨みつけ、唇を尖らせている。
「『やっぱり』って、何だよ?」
「だって学校で噂になってるもん。マモちゃんがミス鴛鴦とつきあってるって」
「ミス鴛鴦?」
確か、去年の五月にあった学祭で決まったミス鴛鴦は、顔よりも胸が自慢です、といった感じのイマドキの明るい娘だったはずだ。
「ウソぉ、知らないのぉ? 玄明先輩って一昨年のミス鴛鴦なんだよ。あの知的でクールで大人っぽいところが、男子だけでなく女子にも大人気、ってね。ちなみに去年は辞退したんだって。でも去年の娘は不評でさ。すぐに学校辞めて、グラビアアイドルになっちゃったでしょ。それに、どうしてそうなったのかは判んないんだけど、今度AVにも出るみたいよ。だから今年の学祭はやっぱもう一回、玄明先輩に出てもらうんだ、って委員会のみんなが言ってたよ」
守もどこかで去年に引き続き、香子が学祭の実行委員をやることになったと聞いていた。香子の彼氏が、委員会の幹部になった関係らしい。
「つか、何回も出て平気なのか?」
「うん。うちの学校は、ね」
「で、オレに『説得しろ』ってか? 断る。そんなの自分たちでしたらいいだろ」
冷たく突き放す守に、「違うよ」と香子は小さくため息をついた。
「マモちゃん、変わったよね。あたしが『一緒に住みたいね』って言った時には、『ダメだ』って反対したのに」
「当たり前だろ、高校を卒業したばっかりだったんだぞ。だいいち、お袋が許してくれないさ」
守が香子とつきあう前から、母は香子の親と知り合いだった。香子を初めて家に連れて行ったその後で、頼むから、香子のお母さんに顔向けできないような真似だけはしてくれるな、とちょっとやそっとで抜けないような、太くて長い釘を突き刺していたのだ。
「じゃあ、何で先輩ならいいの?」
守は「それが……」と言い澱んだ。
「もしかして、マモちゃんのお母さん、知らないの?」
「と、当然だろ……」
「マジで?」
驚いた香子は、マスカラをたっぷり塗った目を、これ以上丸くできないだろうと思うほど丸くした。
「理由があんだよ。別にオレだって、いつまでも育んとこに、居候してるつもりはないんだ」
「ふ~ん」
香子は、守を頭の先から爪先までジロジロと眺め回した。
「な、何だよ?」
「先輩のこと、『育』って呼んでるんだ」
「そ、そんなこと、香子に関係ないだろ」
育とのことは、香子にだけは知られたくない、と守は漠然と思っていた。それが香子に対する未練なのか、一連の情けない自分の『行い』に対する羞恥心なのかは判らない。
それに――
香子に知られるということは、すぐに母にも伝わるということでもあった。
『女の世界の情報伝達の早さと、不確かさを侮るな』
守は常々、父からそう言われていた。
『侮るからこそ、男は痛い目に遭うんだ』
とも。
「もう、いい加減にしろよ。話ってこのことかよ?」
「違うよ」
「じゃあ、何だよ。サークルの先輩と上手くいってないとか、言うなよな」
「そんなの違うもん!」
犬の散歩に来ていた中年の男が、擦れ違いざまに守を見た。守は、陽が当たっている乾いたベンチへ香子を連れて行くと、座らせた。
「一緒に中国に留学するっていうのも、本当なの?」
隣に腰を下ろした守に、小さな声で香子が訊いた。真剣な目で真っ直ぐ見つめる香子に、守はこれ以上黙っていることはできなかった。
「ああ、明後日だ」
留学の話をするために守が一度実家へ戻ったのは、アパートを解約した、次の日の午後だった。父は正月明けに海外に出張に出ており、中学生の弟も学校で、家には母しかいなかった。
「ただいま」
「お帰り。えっ……あれ? 守?」
守を見た途端、母は仕切りに首を捻った。
「何?」
「ううん、何か感じが変わったな、って思って」
「え?」
「ちょっと、お父さんに似てきたかも」
「親父に? マジで?」
帰って来る時に、ちらちらこちらを盗み見てくる人がいたのはそういうことか、と得心する。守は、自分が知らない間に指名手配の犯人にされているような、居心地の悪さを感じていたのだ。
「そうね、雰囲気とか、気配とか。そういう感じ? それに柔軟剤変えた? 石鹸かな? 何か、いい匂いがするけど――」
頬に手を当てて眉をひそめる母に、「たぶん友達にもらったヤツ」と守は適当にごまかしてから、「つか、親父、出張?」とこれ以上の追及はごめんとばかりに、話題を変えた。
「うん。今回は、香港だって」
「いつ帰って来んの?」
「そろそろかな。一応予定は明後日。それより、今日、泊まってくんでしょ」
「いや、バイトあるから」
「そう。でも、ご飯は食べていくでしょ。今日はね、牛丼なの」
「いいんじゃない」
母は、何故か守の話をほとんど聞きもしないうちに、留学の許可を出した。いろいろ説明してがんばって説得しようと意気込んでいた守は、意外なほどあっさりした母の態度に、逆に怒りを感じるという不可解な事態に陥った。
「え? ちゃんと聞いてたか?」
「うん。四月から一年休学して、中国に留学するんでしょ」
「上海にある大学でさ、夏に旅行に行った時にお世話になった教授がいるとこなんだ。で、期間は一年。新学期は九月なんだけど、短期のコースも一ヶ月からあって、半年だと春期と秋期があって――」
「で、春期から行くってことだよね」
「うん。厳密には新学期が始まるのは三月なんだけど、大学のほうでいろいろあって、行くのは四月からになる。これ、募集要項だから、ちゃんと見てよ」
母は漢字だけのパンフレットの中から、必要な分だけ含明が訳して添付してくれた、日本語のプリントにざっと目を通した。
「最初はその大学の中にある留学生向けの語学教室に通って、秋期から大学の授業を受けることになるらしい。で、費用なんだけど、バイト代じゃ足りないんだよ。でも、さらに半年バイトして九月からじゃダメなんだ」
「で、どうしても四月から行きたいから、年末年始にも家に帰って来ないでバイトしてたんでしょ。うん、いいよ」
「いや、何だったら一年じゃなくて、半年だけでもいいんだ。だからどうかお願いします。足りない分を出して――じゃなくて、貸してください」
「だ、か、ら、足りない分だけじゃなくて、全部出してあげるから」
「え?」
「帰ってきてから、バイトのし過ぎで留年なんてことになったら、困るでしょ」
「で、でも、優の入学金が必要だろ」
「やだぁ、そんなこと気にしてたんだ」
目を三日月型にして意味ありげに微笑むと、母は何も言わずに立ち上がり、一階奥の両親の部屋へ入っていった。少しして戻って来た母は「はい、これ」と、守の前に守名義の預金通帳を差し出した。受け取って中身を見ると、七桁半ばの数字が並んでいる。
「な、何、これ?」
「お父さんのほうのお祖母ちゃんが亡くなった時にいただいたの。何かの時に学費の足しにするようにって」
「マ、マジで? でも、普通は、孫にはくれないよな」
「いっぱいあったんでしょ。だから費用はその中から出せばいいんじゃない。でも一応大学が終わるまではお母さんが預かって、ここから送金してあげる」
「ありがとう」
「感謝するなら、お祖母ちゃんにね」
そう言われても、父方の祖母は大きな家で難しい顔をしていて、怖かったことしか憶えていない。
話は流れる水のごとく滞りなく進み、障害は野を焼く火に飲み込まれるように、瞬く間に消えていった。状況は凄くいい。だが、それを素直に喜ぶという気持ちに、守はなれなかった。
「でもさぁ、やっぱ、親父には訊かなきゃダメだろ」
「平気、平気。かえって話したほうが怒られるでしょ。お母さん、怒られたくないんだけど」
「ウソ。もしかして、全然話すつもりはない、ってことか?」
驚く守に、「そんなこと言ってないでしょ」と母は反論した。
「別に『反対されたら絶対に行けないから、話すな』なんて言ってないじゃない」
「はぁ?」
「それより守だって、お父さんに怒られたくないから、今頃帰ってきたんじゃないの? 今年は熱、出なかったんだよね」
「一晩だけ。つか、別に親父にどうこうとか、ないよ」
守は即座に否定したが、母の指摘は間違っていなかった。
守の父は顔がいいだけでなく妙に聡い男だった。だからこそ、ここしばらくの間に起こった、守の変化を見逃すはずがない。自分の気持ちにさえ満足にけじめがつけられない今、怜悧な父の目に晒されることだけは避けたかった。
「でもさ、ずっと隠してなんておけないよな」
「大丈夫、行くまでよ。その後はバレたらバレたでお母さんが何とかする。だから心配しないで行きなさい」
守は帰りの電車の中で考えた。あまりにも簡単かつスムーズに進みすぎて、腑に落ちない部分がたくさんある。
いつもの母なら絶対に、説得は自分でしろ、と言うはずなのだ。
だのに相談もせずに許可を出し、『バレたらバレたでお母さんが何とかする』とやけにあっさり言ってのけた。その時の母の笑みは、いつになく黒かった。
(どんな弱みを握ってるんだ?)
しばらく考えていたが、このまま考えていても結論が出ないことに気がついた。そして守は「ま、いっか」と思い直す。やらなければならないことはたくさんあった。上手くいったことはひとまず置いて、とりあえず、今は後期の試験を乗り切ることだけ考えよう。
そう思っては見たものの、新たな懸念材料が頭に浮かんだ。
守はアパートを勝手に引き払い、育と暮らしていることと、留学には育も一緒だということを、どうしても母に話せなかった。何故かは判らないが、育とつきあっていることすら母に話すことは躊躇われた。
いや――
躊躇うというよりも、してはいけないという気持ちのほうが強い。
それは年末年始に及ぶ、爛れた生活のせいなのかもしれない。
お互いに好き合って始まった交際ではないということもある。
何しろ、育の父が守の父と親友というだけでなく、母と同級生で、おまけに『ちょっと好きだった』相手ということも大きいだろう。
もし母が、今の二人の状態を知ったなら――
絶対に怒られる。
(結局、オレは怒られるのが怖いだけか)
でなければ――
(失望されたくないだけ、かも……)
あれこれ考えているうちに育の家に辿り着いた。心配だったのか、育が玄関まで迎えにやって来た。早々に「どうだった?」と訊いてくる。
「OKだ。あんまり簡単に行き過ぎて、拍子抜けだった。おまけにさ、祖母さんの遺産ってのがあって――、う~ん、何だかなぁ」
「でも、よかった」
「そ、そうだよな。そうなんだけどさ――」
割り切れない守の腕に、育の手が触れた。
「ねえ、それより……」
守を見上げる、育の潤んだ瞳の中に欲望の色が垣間見える。
「あ……う、うん。そうだな。シャワー浴びてくる」
風呂場に向かう守の後を、育もそのまま着いてきた。




