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そらつかい『虚』  作者: カルヰアオ
第六章 坎離交媾―小周天―(水と火が交じり合う)
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坎離交媾 小周天 11

 (いく)の家は、(まもる)のアパートの最寄り駅から一つだけ都心に近い所にある、オートロック式の高級マンションだった。総大理石の煌びやかなエントランスを抜けて、エレベーターで五階まで上がる。共用廊下の突き当たり、一番奥まったその場所に育の住む部屋はあった。

「ここが、ギリギリ」

「何が?」

「聞いたことない? 『地の気』が上がって来るのはせいぜい五階ぐらいまでだから、それ以上は上には住まないほうがいいって」

「陰陽のバランスが崩れる、ってことか?」

「そう。でもあたしは、あんまり下でも湿気が強くてダメ」

「あ……それでか。オレんちは、二階だからダメなわけね」

 守の言葉に、「そうじゃない」と育が慌てて言葉を挟んだ。

「あんたの所が、悪かったわけじゃなくって……」

 慌てて言い訳している育の姿に、守は思わず笑みがこぼれた。それは自分に対して気を使ってくれている表れでもある。そう思うと余計に嬉しかった。

「いいよ、別に。オレが鈍感なんだ」

「ごめん……」

 すまなさそうにする育に、また印象が変わった。

(案外いいヤツなのかもな)


 育は、玄関のカギを開けるとすぐに守を居間へ通した。大理石のカウンター式のキッチンに、二十畳ほどのリビング・ダイニング。ダイニングにテーブルはなく、カウンターにスツールが二脚並んでいる。その向こうにはL字に置かれた、白い革張りのソファーとガラスのローテーブル。南面するリビングの半分には何もなく、フローリングの床に白っぽいラグといくつかのクッションがあるだけだった。

 物は必要最低限しか置かれていない。ところどころに観葉植物はあるが、女の子らしい飾りのような物は一切ない。テレビすらないのだ。印象としては、人の住む住宅ではなく、無気質なオフィスの応接間といったところだろうか。

「ここに、独りで住んでるのか?」

 お茶の用意をしてくれている育に守が声をかけた。守はカウンターのスツールに座り、キッチンで手際よく作業を進める育を眺めていた。

「あんた、すげぇお嬢様なんだな」

「そんなこと、ない」

 育は即座に否定した。

「このマンションは、叔父の会社が投資用に買ったものを、あたしが安く貸してもらってるだけ。人を頼んで定期的に掃除してもらうより、誰か人が住んでたほうが安上がりだし、家も傷まないから」

「ふ~ん。そうなんだ」

 言いながらも、守は育の言葉を鵜呑みにしたわけではなかった。よほどのことがない限り、今の時代に中古住宅が販売価格より値上がりすることなど有り得ない。


 用意が終わり守はソファーに移動した。育はテーブルにお茶とケーキを並べている。昨日のイチゴショートは結局食べずにダメになった。守は食べて食べられないことはないと思ったが、暖房が効いた部屋に放置していたから、と育は迷うことなくダストボックスに放り込んで、朝、ゴミに出していた。その代わりにここに来る途中、美味しいと評判の店で育が改めて買ったのだ。

「なあ、留学、どうする?」

 守は色鮮やかなフルーツタルトをつつきながら、育に訊いた。

 含明の突然の提案に守は混乱を禁じ得なかった。とりあえず育の意見を聞かなければ、これから先のことは考えられない。

「あたしは、留学する。でも、したとしても来年の春以降」

「え? マジ、で?」

 迷いがない育の答えに、守はさらに戸惑いを覚えた。

「卒業したら行こうと思ってたし。だから一年半早くなっても一緒だから」

「だって、休学しなきゃならないだろ?」

「しょうがない」

 育があまりにもあっさり言って退けたので、守は悲しい気持ちになった。

 守の弟は来年の春に中三で、再来年には高校受験だ。中流の下といったサラリーマン家庭には、高校の入学金よりも、留学の費用を優先させる余裕はない。それに休学しても、授業料は払わなければいけなかったような気がする。

 今の守にとって、留学は遥か天上の夢だった。

 だがそのことを言えば、育は『独りでも行く』と言うだろう。それでは『オレが見つけてやる』と言った手前、まったくもって格好がつかない。

 けれど守は自分の家の状況を、男らしく正直に話さなければならなかった。

「行くとしたら、今以上にバイトしないと。でも、どうやったって一年以上は先になる」

 守の悲観的な話を聞き、育は黙って考えていた。守もただじっと育の判断を待っている。程なくして育の桜色の唇から出て来た言葉は、守の予想とはまったく違うものだった。

「あそこの家賃、いくら?」

 育の意図が判らずに、守はすぐに答えることができなかった。

「な、何でさ?」

「よかったらここに住めば。使ってない部屋があるから。そうすればその分が浮くし、敷金も戻ってくる。家賃と合わせれば二十万以上になるでしょ。いらない物を売って、なるべくご飯はうちで食べれば、食費や光熱費も節約できるし――」

「待てよ。あんたがオレにそこまでする義理はないだろう」

 育の突然の申し出は、守をこれまで以上に困惑させるものだった。さらに、その態度の劇的な変化は、守の理解の範疇を超えている。

 それに――

 何よりも女に養ってもらうなど、守のプライドが許さなかった。

「だって、あんた言ったじゃない。『武志を見つけてくれる』って」

「ああ、そうだよ。オレが言ったんだ。約束は守るよ。でも――」

「武志を捜すために留学するのに、どうして? 遠慮すること、ない」

「あ……」

(何だ。結局は弟のためか――)

 守は、何故か酷くがっかりした。


 あれこれ悩んでいるうちに昼が過ぎていた。外に食事に行こうと誘う守に、育はあるものでよければと昼食を作ってくれた。

(あ、美味(うま)い)

 カウンターに並んで腰を下ろし、守は味噌汁を一口飲んで気がついた。朝は何気なく口にしていて判らなかったが、育が作った味噌汁は、母が作ったものに極めて近しい味だった。

「あのさ。料理、誰に習った?」

「え?」

「いや、この味噌汁さ、うちのお袋の味に似てんだよ。前の彼女に作ってもらった時は、美味しかったけどこういう味じゃなかったし、オレが教わった通りに作っても、こういう味にはならないんだ」

「あ……て、適当だけど」

 育の雰囲気が何となく変わった。よく判らないが少し動揺しているようだった。守は引っかかるものを感じたが、ふと、死んだ母親から教わったのかもしれない、と思い至った。もしそうなら、これ以上聞くのは酷というものだろう。

「適当でこれならスゴイよな。もともとうちと味が似てたのかもな」

「うん、そうかも……」

 とりあえず褒めてお茶を濁したつもりが、育はもっと微妙な感じになった。チラリと盗み見た横顔は、焦っている顔から、寂しげなものに変わっていた。

(やっぱ、よく解んないな)

 このまま続ける、と言ったことを、守は少し後悔し始めていた。


 食事の後片づけが終わり、育が食料の買い出しに行くと言うので、守は荷物持ちとしてついて行くことにした。ついでに旅行会社に寄ってパンフレットを集めてこようと思っていた。もし留学できない場合、春休みに一度上海に行くことを考えてのことだ。守としては、やはり育の世話になることだけはどうしても避けたい。

 戻ると育は、「こっちのほうが広いから」と白いラグの上に、白い天板の座卓を出してくれた。フローリングの部分が床暖房になっていて、座っているとポカポカと暖かい。長方形の座卓の長い一辺に陣取ると、守は戦利品のパンフレットを広げ眺め始めた。

 しばらくすると守の携帯に含明から電話が来た。留学の募集要項と費用の明細を郵送したいが、何処に送ればいいか、というものだった。育の家の住所と家電(いえでん)を教えると、すぐにFAXが送られてきた。郵送もしたが早く判ったほうが相談しやすいだろう、との心遣いだった。

 至れり尽くせりの含明に、守はますます、自分は行けないかもしれない、と言い出すことができなくなっていた。


     *


 時計の針が夜の十時を回った。

 二人の間には怪しげな雰囲気が漂い始めている。

 守はまだ育の家の居間にいた。

 何度帰ろうと思ったかしれない。けれどどうしても腰が重く、なかなか帰る決心がつかなかった。

 育と離れがたいのは、昨夜のことを思い出すからだ。判っていたことだったが、あそこまでの快感は滅多なことでは得られない。

 育を見ると、育も守の方をじっと見つめていた。

 最初は向かい合わせに座っていた育が、今は左り隣の短い一辺にいる。いつもの冷ややかな視線の中に、ちらちらと熱い何かが垣間見える。その視線に取り込まれるように、守の眼前に桜色の霞がかかっていく。

 けれど――

 まだダメだ、と守は育から無理やり自分の意識を引き剥がす。

 と――

 育の手が、守のTシャツの裾を掴んだ。

 この時期に長袖のTシャツを着てるなど何年振りのことだろう。その厚手の生地が育の呼吸に合わせて微かに動く。シャツと肌が一定のリズムで擦れ合い、知らず知らずに、守の意識が触れそうで触れない育の白い指に集中した。

 空気を介して甘やかな匂いと体温が伝わってくる。

 それに応えるかのように下半身の一点がその存在を主張し始めた。

(――っ)

 育の手からそっとシャツをもぎ取った守は、後退って距離を取った。


「わ、悪い。いまさら感が強いけど、オレ……ゴム買ってくるわ」

「それなら、大丈夫」

「イヤ、きょ、今日はよくても、後で使うだろ。――つか、あるのかよ?」

 澄ました顔をして、普段からコンドームを常備してる女ってどうなんだ、と守は一瞬戸惑った。

 ところが――

「ないけど、大丈夫」

「え……」

 育の言葉を聞いた途端、守の頭の中を、十八禁ゲームやアニメでしか目や耳にしたことがないような様々な淫語が駆けめぐった。守は「イヤ、イヤ、イヤ」と頭を振って、それらの魅惑的な、にもかかわらず実際の彼女に言われたらドン引きしてしまいそうな、言葉の数々を振り払った。


「オ、オ、オレたち学生なのに、そ、それはマズいだろ!」

 守の口から出てきた声は、熱病にうなされているかのように上擦っていた。だがそれに答える育の口調は凍えるほどの冷ややかさだ。

「大丈夫。できないから」

「は?」

「あたしたちの間に生まれるのは、『(たん)』であって子供じゃない」

「え? た? ………わ、判んなかったから、もう一回――」

「ピル飲んでるから、大丈夫」

「あ? あ……ああ、了解。じゃ、心おきなく」


 育の知的で上品な容姿の中に、恐怖を覚えるほどの煽情的なエロチシズムが見え隠れする。それが守の中でくすぶっていた小さな炎を、地獄の業火のように燃え上がらせた。水は強い炎に(あぶ)られて沸騰し、熱い蒸気となって守と育を包み込む。周囲から隠され、隔絶された彼らは、ただひたすら世界に二人きりだった。


 それから冬休みが終わるまで、時々買い出しやコンビニに行く以外、二人は家から出なかった。飽くことなくただひたすら昼夜を問わずに交じり合った。

 育とのセックスは、愛する者同士の営みというよりは、どちらかというと交尾に近かった。情緒や風情といったものは微塵もなく、ただ欲望の赴くままに貪り合っている。そんな感じだった。

 けれどそれも仕方がないのだろう。二人の間に愛があるかと問われれば、即座にきっぱり肯定できるだけの自信と判断材料は何処にもない。

 その代わり二人の間にあったのは、今まで一度も感じたことのない、狂気を孕んだ絶頂感(オーガズム)だった。香子(きょうこ)の時には感じることのできなかった初めての快感に、守は我を忘れてのめり込んだ。


 そんな日々が幾日か過ぎた後で、守はふと気づいたことがあった。それは終わった後の疲労感がほとんど残っていないことだった。

 不思議なことに、あれだけの回数をこなしているにもかかわらず、心地よい気怠(けだる)さと満足感に包まれていた。さらに肌を寄せ合っていればすぐに回復し、いつしかどちらからともなく交わりを再開させる。

 一説によると男性の性欲のピークは十九歳というから、守自身、今が一番やりたい盛りなのは間違いない。だが、だからと言ってあそこまで立て続けに何回もとは、実は自分でも信じられなかった。

 前に香子と挑戦した時は五回戦が終わった辺りでもうどうでもよくなった。話をするのも面倒で、正直独りになりたかった。あの時の自分を支えていたのは、記録に挑戦という、アスリート並みの意地だった。

 けれど育とはそうではない。

 いつまでも傍にいていつまでも触れ合っていたいのだ。

 だから冬休みが明けて大学が始まる前に、一度実家に戻らなければならないことが苦痛だった。だが、父がいないだろうこの時期を逃せば、母に今までの経緯を話し、留学の許可をもらうことが困難になる。父という最後の牙城を突き崩すためにも、まずは比較的理解があり、父に強い母を攻略することが先決なのだ。


 守は、育の家に行った次の日には、もう留学することを決めていた。

 守の僅かばかりのプライドなど、熱く沸騰する女にかかったら、何の役にも立たなかった。守は育の勧めに従ってアパートを引き払い、バイトを増やし、それでも賄いきれなかった費用の不足分だけ、頭を下げてでも親に借りようと考え直した。たとえ一時的に(すぐる)の入学金を使い込むことになったとしても、日本に戻ってからの半年で、がんばってバイトをして返せばいいと切り替えた。母を拝み倒して縋りつき、父の罵倒を総受けすれば、貸してもらえる可能性は十分にある。それに一年分の費用は無理だったとしても、とりあえず半年だけという手もあった。

 だが、それすらできないのであれば――

 育は確実に、守を置いて独り旅立っていくだろう。


 守は、あの黒い『靄』を思い出していた。

 細かい粒子の固まりは、その時々で自在に姿形を変え、守に追い縋ってきた。

 欲の部分を無視しても、あんな有象無象(うぞうむぞう)の危険があるような場所へ、育をたった独りで行かせることはできない。

(オレが、護らないと)

 それに、守自身がどうしても知りたかったのだ。


 武志が何処へ行ったのか、を――


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