坎離交媾 小周天 7
またまた説明回です。
*似非科学要素あり。
*個人研究が多分に含まれていますので、通説とは違う場合があります。
どうぞ、ご注意ください。
守は、今日の昼過ぎに、ついに探していたものを見つけることができた。
偶然だった。
陽の射し込む窓際の席にいたせいで書架の間は薄暗く寒かった。午前中、大した成果もなく過ごしていた守は、ほとんどの本に目を通してしまっている中華思想の棚に、ぼんやりと視線をさ迷わせていた。
通り過ぎていこうとしたその瞬間、右目の端に何かが引っかかる。
微かな金の光。
(何だ?)
振り向くと、暗い棚の中から金色の文字が浮き上がっていた。
歩み寄った守は、躊躇うことなくその本を手に取った。
(温かい)
表紙を捲って目次に目を通す。と、整然と並ぶ黒い文字が勢いよく目の中に飛び込んできた。
『営気』
『医家』
『十二経脈』
『内丹』
『体内神』
つい昨日、夏芽に教わり、解説してもらった単語もあれば、まったく初めて見る言葉もあった。
どうして、今まで気がつかなかったのか――
守は一度本を閉じ、席に戻って表紙から一枚ずつ頁を捲っていく。すると、タイトルが印字されているとびらの次に、髭を蓄えた男の顔が現れた。髪を結い上げ冠を被った男の姿は、古い時代の、中国の文官のものだった。その頭からは雲が湧き上がり、雲の上には、笏を手にした小さな男が閉じ込められた丸い珠が乗っている。男の周りには、青龍、白虎、朱雀、玄武の四神と、逃げ惑う、奇妙な生き物の姿が。それらの脇には『七魄神』と『三尸神』の文字があった。
さらに頁を捲っていくと、頭や手足のない胴の中に、臓器がいっぱいに詰め込まれた絵や、半裸で横向きの男の全体図などが載せられている。それらの図からは、たくさんの線が引き出され、漢字だけの但し書きが付加されていた。読める字もあるが初めて見る字も多かった。多少理解できる字もあるにはあるが、印刷が不鮮明な漢字の羅列に、意味を見出だせないもののほうがほとんどだった。
「何だ、こりゃ?」
そう言いながらも、守はさらに頁を捲った。
と、その図は突然現れた。
一頁を使って上下左右と中央に配された五つの図。その一つ一つが、いくつかの特徴あるパーツで構成されている。
ボウっと朱く光る一番上の図には鳥が一羽。その横に笏を両手で持った、昔の扮装の貴婦人が立っている。
鳥と貴婦人、両者の上には上昇する金斗雲のようなものがそれぞれに立ち昇り、それらに挟まれるように下を向いた蕾のような絵があった。
蕾のすぐ上には『離之氣、火之精』という縦に二列に並んだ文字。
さらに文字の上には、長さを揃えた三本の横線。
真ん中の一本は、中央で一度途切れている。
これは、この間買った風水の本で見たばかり。
八卦でいうところの『離』の卦だろう。
(だから『離之氣』なのか)
守は妙に感心した。そして、絵の一番上に『心』という文字を見つける。
「じゃあ、この鳥は朱雀なのか?」
図の説明には、『五蔵六府図』とあるのだが、図は五つしかない。
図の頭に、肺、脾、肝、腎、という文字が振ってあるところを見ると、どうやら描かれているのは五臓神だけのようだ。
他の図の構成もほとんど同じで、鳳凰や龍などの神獣の脇には人の姿がある。性別や持っているものは多種多様で、人数に関しても一人から二十一人と様々だ。
その上には、各臓器の形を真似た絵を挟むように立ち昇る雲。臓器の上には何の気で、何の精なのか。八卦の何の卦なのか。さらにそれぞれの頭には、それぞれの臓の名前が冠され、そのどれもが微かに青、白、黄色の光を放っていた。
守は、最後に一番下の図に目を留めた。
腎と記されたその図には、五つの中でひときわ不思議なものが描かれていた。
腎臓を模したと思しき、二つの向き合う空豆の下では、袖の下に剣を隠し持った婦人と半裸の野人が睨み合っている。左手を挙げ、右足を踏み締めて髪を振り乱している野人は、挑んでいるようにも、踊っているようにも見える。
その二人の間に一匹の鹿が蹲っていた。鹿の頭部は乳房のような形に大きく膨らみ、その下には左右に二つの顔がある。
他の臓のところに描かれた動物が、青龍、朱雀、鳳凰、白虎なら。
この鹿こそが――
(『玄鹿』……)
「『玄鹿』は五臓神の一つで、腎臓に宿る神。図書館であんたはそう言ったよな。それって元ネタは何だよ?」
「『玄鹿』の記述は、『修真図』の中に見られる」
「『しゅうしんず』?」
育は、カバンの中からファイルを取り出し、畳んで挟んであった一枚のコピーを差し出した。
「これは?」
「それが、『修真図』」
A4の紙を縦に二枚張り合わせた、縦長のコピー用紙の中央には、座っている、奇妙な人の絵が描かれていた。
手はなく、体の周りの輪郭すらない。髪のない頭からは小さな道士が飛び出し、その回りを九つの文字が囲んでいる。さらに、道士の頭上には炎に包まれて座っている人が一人。さらにその上には雲に乗った三人がいる。
奇妙な人の中とその回りには、漢字だけの細かい文字に、月の満ち欠けを表した丸。様々な動物に幾人かの小さな人間の絵がみっしりと描かれていた。
「それは黄庭内景経の記述を基にして、武当派の、とある一門で作ったもの。見て解る?」
「そうだな。解る字もあるけど。ダメだ。オレ、中国語は取ってないんだよ」
守は育にコピーを返し、手に取った割り箸を勢いよく割った。
間に合わせに買い求め、今さっき準備を終わらせたばかりの晩餐に、守は「いただきます」の声と共に箸をつけた。育に何か言われる前に「悪いか?」と口をモゴモゴさせながら開き直ってみる。
「別にいいけど――」
育はコピーを畳んでファイルの上に置くと、ナイフを手にローストチキンの肉を器用に骨から削ぎ落とし始めた。
「ところで、あんたに知恵をつけたのは、誰?」
育は『誰』のところを特に強調して訊いた。守は少しだけ驚いたが、それを隠すようにウーロン茶を片手に不敵に笑った。
「何だ、気づいてたのか――」
「当たり前。そう簡単に『玄鹿』なんて言葉が出てくるはずがない」
一口サイズに削ぎ取ったチキンをレタスに包みながら、育が言う。
「オレの知り合いでさ、中国との貿易の仕事をしている人がいて、けっこう詳しいんだ。まあ、いろいろ教えてもらったよ」
「ふ~ん」
「でも『玄鹿』の話はしてる時間がなかったんだ。自分でも調べてみたけど、オレが調べられたのはここまでだ。だからあんたに教えてもらいたい」
簡単に降参した守に、箸を止めた育は、さらに冷ややかな視線を向けてきた。
「解らないからって、すぐ人に訊くのはよくない」
「あんたなら、そう言うと思ったよ」
守は再び不敵に笑う。育はそんな守を黙って見つめていた。
話し出さない。
守は、我慢しきれずに駄目押しした。
「でもさ、それを見せたってことは『教えてもいい』って思ったからだろ。なら、もったいぶらないで、早く教えろよ」
守が骨に残った肉を歯で引き千切る。育は一言何かを呟いてため息をついた。
「何だって?」
けれど育は「関係ないから」と答えようとしなかった。その代わりに箸を置き、ウエットティッシュで手を拭いてから、テーブルの上を片づけ出す。さらに空いた場所を拭き、乾いたのを確かめてコピーを広げ、守が育の前に移動したのを機に、説明を始めた。
「言葉だけなら、だいたい解る。でも、本当に意味するところは、判らない」
「何だよ。オレとそう変わんないじゃん」
「でも、普通の中国人でも、きっと本当の意味は解らないはず」
偉そうに言う守に気分を害したのか、育もきつい口調になった。
「何だよ、それ」
「専門的な文章だし、比喩とか多いし……」
「じゃあ、あんたの解る範囲で、何が書いてあるか教えろよ」
守を睨みつけてから、育はおもむろにコピーの一番上の部分を指差した。
「ここにも書いてあるように、正確には『修持真元図録』」
「で、縮めて修真図か」
「そう。でも、こういう絵はいろいろとあるらしい。名前もいろいろで。有名なのは『内経図』かな。表しているものは近いけど、でも、これとは全然違う」
「ああ、それなら何かの本で見たよ。煉丹に関係してるんだろう」
「うん。正確には『内丹』のこと。煉丹には『外丹』と『内丹』の二種類があって、『外丹』は水銀や鉛を使って丹薬、つまり金丹を作ること」
「錬金術みたいなもんなのか?」
「ちょっと違う」
もともと錬金術の『金』は比喩でなく、鉄や亜鉛から本物の黄金を作ろうとする方法で、『外丹』は鉛と汞で不老不死の丹薬を作ることだった。
「そして錬金術は金だけでなく、フラスコの中に人工生命体を錬成しようとした。でも煉丹の『内丹』で体内に生成するのは、『陽神』というもう一人の自分。似てるといえば似てるし、何らかの影響があったかもしれないけど、根本的には違う気がする」
「待てよ。内丹は、『気』を使って、体内で『丹』を煉るんじゃないのか?」
確か夏芽は、心の『火の気』と腎の『水の気』が交媾すると、黍一粒ほどの、『黄芽』という『丹』の元が発生すると言っていた。煉丹はその『黄芽』を集めて煉り固め、体内に丹薬を作ることだった。
だのに――
(『もう一人の自分』、って……)
「それも、知り合いの人に教わったの?」
守は育の言葉の中に、自分に対する侮蔑が籠もっているのを感じ取った。
それは明らかに、守の態度と知識の不均衡さに対するものだろう。平たくいえば、バカなくせに横柄だ。育はそう言いたいに決まっている。
守は反省するどころか怒りが増して、さらに口調が厳しくなった。「別に、そんなのどうだっていいだろ」と抗議する。
「それより、どうなんだよ」
守が強引に回答を求めると、育は意外にあっさり話し始めた。
「『黄芽』を集めてできた『もの』が『陽神』」
「え?」
育は、『陽』である心火と『陰』である腎水の交わりを心腎相交といい、発生した『黄芽』を集めて作った『陽神』から、濁気や陰邪を取り除いた『もの』が『聖胎』や『金丹』と呼ばれるものだ、と説明した。
「なら、両方とも『陰』と『陽』が結実したもの、ってことだな――あー、それで比喩かよ」
育があまりにもすんなり答えたので、守の気勢は大いに削がれた。だからと言って、はいそうですか、とすぐに態度を改めることもできなかった。結果、「で?」と一文字で先を促す。
「『内経図』の内経とは、煉丹を行う時に気が流れる経絡のこと。けど、それだけじゃなくて、その時に起こる体内の景色、つまり『内景』のことも表していると思う。『内景』は、気が流れることによって起こる、感覚や情景」
「『情景』?」
「そう。功が高くなると実際に見えてくる」
「それって、前にあんたが言ってた『竅が開く』ってことに関係してるのか?」
「うん。竅はたくさんあるんだけど、見ることに関しては『印堂』って穴。額にあって、第三の眼ともいわれている」
育は眉間の少し上の、自分の額を指差した。
「第三の眼? そういやぁ、仏像にも三つ目のヤツがいるなぁ」
「お釈迦様の額にある、白毫もそうだと思う。白い毛が渦巻いているって表現されているけど、たぶん、あれも竅を表している」
「なるほどな。で、あんたはそれが開いてるんだ」
「あたしだけじゃない。そんな人はたくさんいる。ただ、言わないだけ」
「何で言わないんだよ」
「見えない人には理解できないから。嘘だとか、インチキだとか、頭がおかしいって言われるだけ」
育は、少しだけ眉をひそめた。
「でも、誰でも開くことができるんだろう」
「たぶん」
「特別な方法があるってことか?」
守の問いに、育は「特別って、わけじゃないけど」と口籠もった。
「訓練の仕方は、たくさんある。『修行』と呼ばれるもの中に、特に――」
「だけどさ、それってあんまり一般的じゃないよな」
「そんなことない。みんながよく知ってる方法もある。ただ、そういう風には言わないだけ」
「何でさ?」
「その人の状態によっていろいろだけど、どれぐらいやったら開くとか、どれぐらいやらなければ開かないとか、はっきりしたことが言えないから。それに――」
育は眉をひそめ、さらに険しい表情になった。
「一番困ったことは、それを悪用する人が多いってこと。それに関するいろいろな、特に宗教絡みの事件がたくさん起こってる」
守の頭の中に、過去に起こった軽犯罪から非人道的な重犯罪まで、様々な事件が思い起こされた。
「う~ん。確かにな。そういうのと一緒にされたら迷惑だよな」
育は、真面目な顔で大きく頷いた。
「実際には滅多なことでは人には教えない。教えても、ちゃんと指導者が指導しないとダメ。けど、相手の人柄や素養をきちんと見極めて教えても、途中で間違った道へ行ってしまうこともある。それにもっと怖いのは、妄想と区別がつかなくなって本当に頭がおかしくなる人がいるってこと」
「……けっこう、大変なんだな」
「そう。だから普通に生きていくなら、開いていないほうが幸せだと思う。でも、開いてしまったら、いろいろ見えても『幻覚』と思って気にしないほうがいい。『気にしない』ってことが大切」
だから育は最初に『幻覚』と言ったのだろう。
(なるほどな、そういうことか)
黙り込んだ守に、「何?」と不審そうに育が訊いた。
「何でも。それよりさ、ここにはいろいろ書いてあるけど、細かい説明は抜きにして、五臓神のとこだけ、サクサクって解説してくれよ」
ポテトチップを二、三枚まとめて摘んだ守がゲンキンな要求を出すと、育は思いきり嫌そうに顔をしかめた。
(そんなに露骨に嫌がるなよ)
抗議するようにパリパリ音を立てながら、守は心の中で文句を言った。
(そんな顔しなけりゃ、かなりイケてるのに……)
不意に――
育の青ざめた頬が、何故かほんのりと桜色に染まった。




