坎離交媾 小周天 3
坎離交媾2~5まで説明回です。
*似非科学要素あり。
*個人研究が多分に含まれていますので、通説とは違う場合があります。
どうぞ、ご注意ください。
「じゃあ、何故境界がないかの説明に移るわね」
夏芽に「いい?」と訊かれ、守はすぐに「はい」と答えた。
「『陰』と『陽』に境界がないのは、二つの間にエネルギーの移動があるからよ。『陰』から『陽』、『陽』から『陰』へと常に動き続けているの。そうだ、守くんは太極図って知ってる?」
訊かれた途端、守の脳裏に丸い円の中に尾を引いた白と黒の人魂が追いかけっこをしている図が閃いた。よくサーファーが着ているTシャツについているヤツだ。
「正確には人魂じゃなくて『陰陽魚』とか『双魚』とかいうんだけど――まあ、いいわ。その白と黒の中には『目』があったでしょ。白には黒の、黒には白の『目』があるのよ」
その『目』は、『陽』が極まった時に生じる『陰』と、『陰』が極まった時に生じる『陽』を表していて、『陰』と『陽』は互いの親にも、子にもなることができるものだという。
「『陰』と『陽』は止まることなく常に変化し続けているの。太極図はその陰陽の消長変化、つまりエネルギーの移り変わりを現している図、ってことね」
相反するものが相対しながらも、相和していくのが陰陽だ、と夏芽は言った。
ゆえに目がないものは陰から陽、陽から陰に変わることができず、相和することなくただ永遠にぐるぐる回るだけなのだ、と。
「なるほど、目があることで陰陽の間にエネルギーの移動があるのは解りました。でも、それって太極拳とどう関係があるんですか?」
卑近な例で唐突に問いかける守に、「そうね」と夏芽はバッグから、クリーム色のラバーグリップのボールペンを取り出し、箸袋の余白に何かを書きつけた。
「そこにも書いたけど、『太極』っていうのは、『太一』または『太乙』とも書いて、陰と陽の両極が揃って一つになっている状態をいうのね。ちなみに、極がないものを『無極』というわ。一番初めの状態が『無極』で、そこに陽が、次に陰が発生して『太極』になるの。でも――」
これに関しては中国国内でも論争があり、『無極』と『太極』のどちらが先なのかは、いまだ決着がついていないという。
「これは『無極』の定義が、不規則に散らばって極がない『渾沌』なのか、整然と並んで極がない狭義の『無極』なのか、それとも、『渾沌』と『無極』の両方を含む、広義の「無極」なのかで変わってくると思うのよ」
そして夏芽は、「『無極』も『渾沌』も両方とも極がないのは確かだから、悩むのよねぇ」と言葉とは裏腹に楽しそうに続けた。
だが――
夏芽にとって大きな問題でも、守にはどうでもいいことだった。もし専門課程に進んでこんなことで悩むくらいなら、絶対に転科する、と改めて心に誓う。
「でね、『陰』と『陽』、二つの極があるのが太極よ。太極拳はその陰陽が虚実になるわけ。虚実は、ちょっと乱暴かもしれないけど、簡単に言うとバランスのことね。いろいろな考え方はあるんでしょうけど、太極拳って、いかに相手のバランスを崩すかってことなのよね」
「バランスですか?」
守は、言葉の中に不服そうな気色を滲ませた。
「本当に使っているところを見たことがある? わたしの知ってる名人は、凄かったわよ。戦いながら壁とか石とか、とにかく硬い物の方に相手を誘導していくの。そして近づいたらバランスを崩し、一気にそこに叩きつける。硬い物がなくても、地面に頭から落とすとかね」
「そ、そんなの卑怯じゃないですか!」
あまりにも物騒な発言に、守は思わず文句を言った。守の性格上、そういうのはどうも性に合わない。
「あら、戦い始めたら卑怯も何もないでしょ。戦いはスポーツじゃないんだもの。『ちょっと待って』なんて言ってるうちに死んじゃうわよ」
「そんなこと、言ったって……」
「守くんの好きな中国武術なんか、そんな禁じ手ばっかりよ。少林寺の映画で有名になった、手を打ち鳴らしながら足でドンと地面を突く『震脚』はね、実は足の爪のつけ根を踏むらしいわ。甲を踏まれるよりも、ずっと痛いんですって。それから南拳の両手で地面を叩く動作はね、砂を掴んで目潰しにするのよ」
けれど、今の靴は爪先が固いからあまり効かないし、道路も舗装され、土や砂が剥き出しになっているところがほとんどなく、攻撃としては、まったく実用的ではないという。
「さらに言えば、武術の技に『撩陰掌』っていうのがあるんだけど……」
「どういう技ですか?」
「『掌』は『手のひら』。でもここでは拳を握っていない手のことよ。そして、『撩』には中国語で『手で掬って水を撒く』っていう意味があるのよ。夏に打ち水するじゃない。ピチャピチャと水を撥ね上げる、あのイメージよ。そして『陰』は陰部。男性の急所のことね。つまり『撩陰掌』を直訳すれば――」
(急所を撥ね上げる手――)
守は無意識に『痛い』というように顔を歪めた。それを見て、夏芽は不思議そうに首を傾ける。
「この話をすると、男の人は必ずそういう顔をするのよ。チップした方が痛いって聞いたけど、本当なの?」
(何言ってんだ。この女は……)
守は、何も言わずさらに嫌そうに顔をしかめて抗議する。「あ~あ、やっぱり、そうなのね」と夏芽は小さく何度も頷いた。
「とにかく、ただ殴ったり蹴ったりするより、完璧かつ確実に致命傷を与えられるでしょ。あるいは殺さないまでも、動きを封じるために不具にする技なんかもたくさんあるわ。そういう方法を選んだ方が、自分へのダメージも少なくて済むし効率的じゃない。大勢と戦う時なんかは特にそう。もちろん戦いは絶対に避けるべきだわ。でも『殺るか、殺られるか』なら、徹底的にやらなきゃダメでしょう」
「そりゃあ、そうかもしれませんけど……」
夏芽に対するこれまでのイメージが一蹴され、守はひどく悲しい気持ちになった。夏芽はそんな守の顔を見て、「ま、確かに今そんなことしたら、警察に捕まっちゃうけどね」と冗談めかし、「でも」と真剣な顔を守に向けた。
「武術っていうのは、戦争のために開発された『兵器』の一つ、とも言われているわ。初めは心身の鍛練のためのものだった、という説もあるけど、いかにして安全かつ効率的に、大量に『人を殺す』か、ってことのために研究され、発展してきたものなのよ。だから生半可な気持ちで習ったり、使ったりしたらいけないわ」
「あ……」
そう指摘され、守は初めて自分の武術や武道全般に対する認識の甘さに気がついた。よく言われる『使えなければ意味がない』の『使う』が、『殺す』とイコールになる、ということを守は今の今まで考えたことがなかったのだ。
殺すぐらいの気持ちがない限りは、闘うな。
夏芽は、そう言いたいのだろうか――
(この女は、いったい何者なんだ?)
湧き出た疑問を心の奥に捩じ込んで、守が「はい」と神妙な顔で頷くと、夏芽は笑顔になって、「ついでだから」と先を続ける。
「守くんは、『勝てる喧嘩をしても意味がない』とか、『狙われたら勝ち目はない』とか、聞いたこと、ある? これは言葉どおりの意味もあるけど、安易に争いにならないように諌めていると、わたしは思うのね。ある人が、こんなことを言ってたのよ――」
相手がどれほど悪くても、ケガをさせれば必ず後悔することになる。そして何よりも真っ当で善良な人間ほど、倫理観からくる罪悪感に苛まれやすいのだ、と。
「人にケガをさせるのは悪いこと。わたしたちは小さい頃からそう教わってきたでしょう。それは、無意識レベルでわたしたちの行動を抑制しているの。たとえ防衛反応だったとしても。たとえ表層意識で自分は悪くないと解っていても。やっぱりケガをさせた事実は事実として、記憶に残るのよ」
罪悪感とは、人を人たらしめているものの一つで、人にとって一番必要なものであり、一番やっかいなものだ、という。
「そしてこうも言っていたわ。『人は、己の罪悪感から逃れたいがために争うし、逃れたいがために嘘もつく。それも無意識に』って。そして『本当の原因に気づかないうちにそれを積み重ね、最終的に二進も三進もいかない状態になってしまう』って。だからこそ、自分が『悪い』と認識していることは、できるだけしない方がいいのだそうよ。もちろん、誰のためでもなく――」
自分のために。
「でも、これが簡単にはできないのよねぇ」
最後にポツリと吐き出された言葉には、妙な実感が籠もっていた。
何でも知っていて何でもできる、大人な女性。
これまでの夏芽に対する守の認識はそんな感じのものだった。けれどそれは夏芽のほんの一面、ほんの一部なのだろう。
「自分でもできないのに、偉そうに言ってごめんなさい」
すまなさそうにする夏芽に、守は今までよりもずっと親しみを感じていた。
「じゃあ、次は五行の説明ね」
夏芽は、明るい感じに戻って先に進める。
「五行っていうのは、木火土金水という人間の身近にある、五つの物の特性を使って、宇宙の原理原則を説明しようとしたものなのね。これも循環するものの性質のことよ。だから世の中のものは、みんな五行というか、五材に分けることができるのよ」
「『ござい』?」
「五材は、木火土金水という五つの素材のこと。で、その特性というのは、性質と運動法則よ。例えば、『火』の性質には『熱い』とか、『赤い』とかあるでしょう。運動法則は、火は燃え上がるから――」
「『上昇』ですか」
「そう、そう」
そして夏芽は、今は五材と五行は混同され、五材の意味も五行に含まれてしまっているが、本当は別だった、と付け足した。
「正確には、五材は木火土金水の五つの『エレメント』のこと。五行は木火土金水の循環の『システム』って憶えておけばいいかしら」
「素材に体系ですか。なら、五材は単独で存在できるけど、五行は単独では用はなさない、ってことですよね」
大きな目をさらに瞠り「さすが、大学生ね」と夏芽は大袈裟なくらいに褒めてくれた。普段あまり褒められたことがないからか、守はいたたまれないほどの恥ずかしさに襲われて、「ひ、人もですか?」と逸れた話題を急いで戻す。
「もちろんよ。守くんは、そうね……熱血漢だから火性かな。育って娘はクールだから水性かしら」
「夏芽さんは?」
守の問いに、夏芽は「ひ、み、つ」とその目を三日月型に細めてみせた。
「でね、五行にも陰陽と同じようにエネルギーの移動があるのよ」
五行の『行』は、『めぐる』という意味で、木→火→土→金→水と行って最初の木に戻るのだという。
「でもね、最初は『水』という説もあるわ。尚書――あ、四書五経の書経って言った方がいいかしら。それには、『一曰く水』ってあるの。それに、内功を重視する内家拳では、肺経から開くことになっているから、最初に動かす気は、『木』ではなく『金』になるの」
守は後半の部分の意味がほとんど解らず、「はい?」と聞き返した。
「あ、ごめんなさい。結論から言えば、最初が何になるかは、いろいろな説があるってこと。でも、とりあえずここでは――」
「木→火→土→金→水→木の順ですね」
「そう。でね、五行には 相生、相剋という相性の善し悪しもあるのよ。相生は助長、促進の関係で、相剋は制約、抑制の関係ね」
この理論は、薬の調合や医療、占い等、多岐に亘って利用されているという。
「『剋』は『勝つ』って意味だけど、完全に打ち負かすことではなく、やり過ぎを諌めてくれるって感じかしら。相生が応援してくれるお母さんなら、相剋は叱ってくれるお父さんね。人によっては逆の場合もあるし、時には入れ替わることもあるけど、どちらにしろ、愛情がなければできないことよ」
「無責任に甘やかすばかりが親じゃない」
「叱ってばかりでもダメだけどね」
「バランス良くってことですよね。そしてどちらが欠けてもダメ。あ、なるほど。五材のバランスを取るシステムが、五行ってことか――」
少しだが全体像を垣間見た感じがした。守は、今まではただ単語の意味を知っているというだけで、十分に理解してはいなかったのだ。と同時に、『腑に落ちる』というのは本当に落ちる感じがするのだと、妙に感心した。
「ちなみに、『水』は『火』を剋するから相剋の関係よ。つまり守くんと育ちゃんの場合は、育ちゃんが守くんを抑制する関係、ってことになるわ」
「どうりで、突っかかってくるわけだ」
「あら、そうなの」
意味ありげにウフフと笑う夏芽に、「笑いごとじゃないっすよ」と守。夏芽は「ごめん、ごめん」と謝った。
「とにかく陰陽五行っていうのは、この世界にあるものすべてを、陰陽、あるいは五行に分別して、その相互間に必ずエネルギーの移動がある、ってことなの。ここまでは、解った?」
厳めしく「はい」と守は頷いた。
「これは、中華並びに東洋思想の根幹をなしていて、中国では道家に儒家に医家、日本では陰陽道なんかの理論にも応用されているのよ」
「ま、待ってください。その『どうか』とか『じゅか』とかは何となく解るんですけど、『イカ』っていうのは何ですか?」
「『道家』は道教、『儒家』は儒教の元になった理論や思想、及びそれらを実践する人たちのことだと思ってくれればいいかしら。そして『医家』は、中国の伝統医学とそれを行う医師のことよ。日本でいう東洋医学のことね。ほら、漢方や鍼灸を使うやつ」
守の脳裏に、近所の薬局のショーウインドウに飾られた、しなびた小さな大根のような薬用人参や、名も知らぬ木の皮や木の実、埃を被って茶色く煤けたスッポンなどが浮かんでいた。
「でね、道家の元になっている思想が『老荘思想』なの。守くんは『老子』とか『荘子』とか読んだこと、ある?」
「はい。でも、イマイチよく解らなくて」
夏芽は軽く頷くと、「ここで問題です」とクイズ番組の司会者のように仰々しく宣言した。
「守くんは、道家の最終目的って何だと思う?」
「最終目的、ですか?」
守は腕を組んだまま首を捻り、「さあ、さっぱり見当もつかないです」と瞬く間に白旗を上げた。夏芽が「あのね」と内緒話でもするように身を乗り出すと、守も釣られて前にのめる。
「――『不老不死』よ」
「えっ?」
体を引いた夏芽は、ニッコリと微笑んだ。
「つまり『仙人になること』ね。その仙人になる方法の一つが、『煉丹』なの」
文中に物騒な発言が多々ありますが、本意ではありません。
争いは、ダメ絶対。
技は、現代では実用的でないので、使わないでください。




