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そらつかい『虚』  作者: カルヰアオ
第六章 坎離交媾―小周天―(水と火が交じり合う)
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坎離交媾 小周天 1

「本当にごめんなさい」

 道徳夏芽(つねありなつめ)は開口一番、そう言った。

(こう)()からおおよその事情を聞いて、ずっと謝りたかったの」

 夏芽はすまなさそうに微笑んで、(まもる)のカップに温かいロイヤルミルクティーを注いでくれた。


 夏芽に声をかけられたのは、JRの京都駅だった。

 明日香の石窟から生還した守は、最寄り駅から奈良へ、近鉄からJRへと乗り継いで京都まで戻って来ていた。

「どうしたんですか? こんなところで……」

 新幹線の自動販売機の前で、このまま家へ帰るか、観光をするかを思案していた守は、ニッコリ微笑んだ夏芽を見つけ大きく目を見開いた。確か、名刺に記されていたオフィスの住所は東京だったはずだ。

「仕事よ、仕事。神戸に船便が届いたの。それより、守くんは?」

「オレは……」

「そうだ、朝食はまだ? よかったらつきあってくれない?」

 夏芽はそう言って、守を駅近くのホテルのラウンジへと誘ったのだ。


「心細かったでしょう。あんなつまらないトラブルさえなければ、あなたの傍にいてあげられたのに。中国とのビジネスには、トラブルはつきものだから……」

 そこまで言われ、守はかえって恐縮してしまった。

 いろいろあったのは確かだが、皓華の心遣いで旅は(つつが)なく終了していた。それは皓華を紹介してくれた夏芽のお蔭と言っていい。だからこそ、守が礼を言うことはあっても、夏芽が謝罪する必要はないはずだった。

 だが夏芽にその理屈は通用しなかった。守がどんなに気にしないよう頼んでも、前と同じで全然聞き入れるつもりはないらしい。

「お詫びに何かしたいの。そうだわ。京都を案内してあげる!」

 その突然の申し出は、守をさらに困惑させるものだった。

 夏に感じていた夏芽に対する仄かな好意。それがすでに鎮火したはずの、守の中の朱い炎を呼び起こすのではないかと危惧したからだ。

(何で、今なんだよ……)

 心の中で泣き言を言いながら、守は夏芽の気持ちを無にしないように断るには、どうしたらいいかを必死で考えた。

「し、仕事は、いいんですか?」

 頭を絞って考えたわりには、口から出たのは普通の質問だった。

「もう用事は済んだのよ。時間が空いたから京都に寄っただけなの。独りで観光するのも寂しいでしょ。だから、ね、お願いつきあって」

「はぁ……」

 さすがにここまで言われたら、断るわけにはいかなかった。夏芽はレンタカーの助手席に守を乗せると、最初に三十三間堂、次に清水寺へと車を向けた。


 移動の間中、守はずっと不安だった。狭い車の中で、あのヤバイ状態がぶり返したら、と思うと気が気でなかった。だがそんな心配をよそに、守の心身はいつになく安定していた。それは、神話に出てくる世界を支えるカメのように、ちょっとやそっとのことぐらいでは身動ぎもしないようだった。

 心配していた事態は避けられそうだと思った途端、守の腹がグウと鳴る。それを聞き逃さなかった夏芽は、早めの昼食を取ろうと市街の方へとハンドルを切った。


 堀に面した格子戸の向こうには、石畳の小径(こみち)が続いている。

 奥にはあまり大きくない引き戸の玄関が見え、恐ろしいほどのタイミングでその扉が横に滑った。中から品のいい和服の女性が現れ、夏芽と他愛ない話をしてから守に柔らかな京都弁で挨拶する。どうやらこの店の女将(おかみ)らしい。

 靴を脱いで板の間に上がり、守と夏芽は細く長い廊下を進んでいった。京都の家屋は、間口が狭くて奥行きがある。昔、間口で税が決められていたから税金対策でこうしたのだ、と守はどこかで聞いたことがあった。

 通された部屋は、離れのように孤立している六畳の和室だった。もちろん京間だから、同じ六畳でも東京の守のアパートとは比べものにならないほど広い。部屋の中央には掘りゴタツが設けられ、右手には障子(しょうじ)が並ぶ。夏芽はコタツに座ることなく奥に進み、淡い光を通す障子を静かに開けた。

 よく磨かれたガラス戸の先に、これまたよく手入れされた小さな坪庭が現れた。半畳ほどの空間に敷かれた、ガラス質の白い砂には風紋(ふうもん)がつけられ、その上には水を張った、青絵(あおえ)丸火鉢(まるひばち)が置いてある。その後ろには細い青竹と(つや)やかな黒塀(くろべい)が規則正しく並び、赤い実をつけた南天(なんてん)を取り囲む、瑞々しい苔の合間には黄色い蕾の福寿草が垣間見える。

 和風な物だけで構成されているのに、どこか洋風なスタイリッシュさを感じさせる空間だった。それは自然な曲線だけでなく、人工的な直線が意図的に使われているからかもしれない。

「いい部屋ですね」

 と、守。

「そうね。昔はよく逢い引きに使われていたらしいわ」

「へっ?」

「あら、冗談よ」

 おかしいそうに笑いながらコタツまで戻ると、夏芽は下座に座って、コップや箸を手際よく並べる女将に注文を始めた。守は、早くなった心拍数を整えようと窓に近寄り、腰を屈めて火鉢の中を覗き込む。

 透き通った水面(みなも)には小さなスイレンの葉が浮かんでいた。水中からは名も知らぬ水草が突き出し、緑の葉や茎の合間には微かな波紋が広がっている。

(何だ?)

 黒っぽい小さな魚が泳いでいる。

(……カダヤシ?)

 不意に身震いした守は、寒さの中で目覚めた後のことを思い出していた。



 底冷えのする寒さの中、守は北風に耐えるスズメのように丸く縮こまっていた。

 夢と(うつつ)が入り混じる頭で片目を薄く開けて辺りを窺う。と、すぐに冷たそうな石の壁が目に入った。

「ん?」

 途端にすべての記憶が一斉に襲いかかり、守は跳ね起きて辺りを見回した。

 探しているのは、記憶の最後に一緒にいた女だ。

 けれどあの冷ややかで熱く沸騰する女は、どこにもいない。

 あれは――

 守は急いで自分の衣服を調べてみた。

 乱れはない。

 しかもあの時脱いだはずのダウンジャケットすら身に着けている。

 寝転がったせいで土がついている他は、おかしなところは一つもない。

 そう、確かにおかしなところは何処にもなかった。

 薄暗い石窟の壁や天井には、何の光の痕跡も見られなかった。

 南側の壁は完全に開いていて、薄明かりの、凍てつく冬の景色に繋がっている。

 色のない世界――

 今までいた場所に比べると、まるで現実味がない。


(夢? いや。現実だと思っている方が夢なのか――)


 また、奇妙な感覚に襲われた。

 守は頭を振って妄想を振り払う。

 そして名残を惜しむように見返った。

 だが、そこにも何も残っていなかった。

 ただ曖昧な暗がりがあるだけだ。

 仕方なく外へと一歩足を踏み出す。

 冷たいものが頬に当たった。

 鼠色の雲が低く垂れ込んだ空から、ちらちらと白いものが舞い始めていた。


 駅を探して、守は何とか奈良へ向かう電車に乗り込んだ。まだ早いからなのか、車内の乗客は疎らだった。守は車両の一番端の席に陣取ると、消えてしまった女のことを考えた。

 (いく)は存在するのか、しないのか。

 寒さの中で目覚めたあの時、守の体にまざまざと残っていた感覚。

 柔らかな肌の、(なめ)らかな感触。

 様々に形を変えて纏わりつく粘膜と強い圧迫感。

 何よりも、頭の芯が痺れるほどの激しい快感。

 育と経験したすべてが、初めての感覚だった。

 だのに――

 衣服の乱れは一つもない。

 下着も汚れていなかった。

(どうして?)

 自分の感覚のすべてが、育の存在を認めている。

 にもかかわらず、現実がそれにそぐわない。

 何が現実で何が現実でないのか、守にはまったく判断がつかなくなっていた。

 思考がぐるぐる回って、いつも最初に戻ってしまう。

 密閉された石窟から出たにもかかわらず、封印された迷宮に迷い込んでしまったような、奇妙な感覚に襲われる。

(去年の夏から、ずっとそうだ)

 守は結論の出ない問題をひとまず横に置いて、別のことを考えてみた。


 守の体調は、今までとは違い劇的な変化が現れている。

 いつもならエネルギーが暴走し、自分で自分を持て余していた。

 それがいつものことだったから、何も不思議に思わなかった。

 だが、今回は無理に追い立てられる感覚はなく、今はすべてが充実し、安定している。暴走していたエネルギーが制御され、収まるべきところに収まった。

 そんな感じだった。

 香子の時はこんな風にはならなかった。

 いつまでも熱が続き、いつまでも乾いていた。

 それが――


 玄明育(げんみょういく)


(どうして、あいつなんだ?)

「あ……」

 守は振り出しに戻ったのを感じて、再び考えを停止した。



坪庭は、あくまでも作者のイメージです。

比率がイマイチ把握できていないので、実際に作ると成立しない可能性があります。

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