坎離交媾 小周天 1
「本当にごめんなさい」
道徳夏芽は開口一番、そう言った。
「皓華からおおよその事情を聞いて、ずっと謝りたかったの」
夏芽はすまなさそうに微笑んで、守のカップに温かいロイヤルミルクティーを注いでくれた。
夏芽に声をかけられたのは、JRの京都駅だった。
明日香の石窟から生還した守は、最寄り駅から奈良へ、近鉄からJRへと乗り継いで京都まで戻って来ていた。
「どうしたんですか? こんなところで……」
新幹線の自動販売機の前で、このまま家へ帰るか、観光をするかを思案していた守は、ニッコリ微笑んだ夏芽を見つけ大きく目を見開いた。確か、名刺に記されていたオフィスの住所は東京だったはずだ。
「仕事よ、仕事。神戸に船便が届いたの。それより、守くんは?」
「オレは……」
「そうだ、朝食はまだ? よかったらつきあってくれない?」
夏芽はそう言って、守を駅近くのホテルのラウンジへと誘ったのだ。
「心細かったでしょう。あんなつまらないトラブルさえなければ、あなたの傍にいてあげられたのに。中国とのビジネスには、トラブルはつきものだから……」
そこまで言われ、守はかえって恐縮してしまった。
いろいろあったのは確かだが、皓華の心遣いで旅は恙なく終了していた。それは皓華を紹介してくれた夏芽のお蔭と言っていい。だからこそ、守が礼を言うことはあっても、夏芽が謝罪する必要はないはずだった。
だが夏芽にその理屈は通用しなかった。守がどんなに気にしないよう頼んでも、前と同じで全然聞き入れるつもりはないらしい。
「お詫びに何かしたいの。そうだわ。京都を案内してあげる!」
その突然の申し出は、守をさらに困惑させるものだった。
夏に感じていた夏芽に対する仄かな好意。それがすでに鎮火したはずの、守の中の朱い炎を呼び起こすのではないかと危惧したからだ。
(何で、今なんだよ……)
心の中で泣き言を言いながら、守は夏芽の気持ちを無にしないように断るには、どうしたらいいかを必死で考えた。
「し、仕事は、いいんですか?」
頭を絞って考えたわりには、口から出たのは普通の質問だった。
「もう用事は済んだのよ。時間が空いたから京都に寄っただけなの。独りで観光するのも寂しいでしょ。だから、ね、お願いつきあって」
「はぁ……」
さすがにここまで言われたら、断るわけにはいかなかった。夏芽はレンタカーの助手席に守を乗せると、最初に三十三間堂、次に清水寺へと車を向けた。
移動の間中、守はずっと不安だった。狭い車の中で、あのヤバイ状態がぶり返したら、と思うと気が気でなかった。だがそんな心配をよそに、守の心身はいつになく安定していた。それは、神話に出てくる世界を支えるカメのように、ちょっとやそっとのことぐらいでは身動ぎもしないようだった。
心配していた事態は避けられそうだと思った途端、守の腹がグウと鳴る。それを聞き逃さなかった夏芽は、早めの昼食を取ろうと市街の方へとハンドルを切った。
堀に面した格子戸の向こうには、石畳の小径が続いている。
奥にはあまり大きくない引き戸の玄関が見え、恐ろしいほどのタイミングでその扉が横に滑った。中から品のいい和服の女性が現れ、夏芽と他愛ない話をしてから守に柔らかな京都弁で挨拶する。どうやらこの店の女将らしい。
靴を脱いで板の間に上がり、守と夏芽は細く長い廊下を進んでいった。京都の家屋は、間口が狭くて奥行きがある。昔、間口で税が決められていたから税金対策でこうしたのだ、と守はどこかで聞いたことがあった。
通された部屋は、離れのように孤立している六畳の和室だった。もちろん京間だから、同じ六畳でも東京の守のアパートとは比べものにならないほど広い。部屋の中央には掘りゴタツが設けられ、右手には障子が並ぶ。夏芽はコタツに座ることなく奥に進み、淡い光を通す障子を静かに開けた。
よく磨かれたガラス戸の先に、これまたよく手入れされた小さな坪庭が現れた。半畳ほどの空間に敷かれた、ガラス質の白い砂には風紋がつけられ、その上には水を張った、青絵の丸火鉢が置いてある。その後ろには細い青竹と艶やかな黒塀が規則正しく並び、赤い実をつけた南天を取り囲む、瑞々しい苔の合間には黄色い蕾の福寿草が垣間見える。
和風な物だけで構成されているのに、どこか洋風なスタイリッシュさを感じさせる空間だった。それは自然な曲線だけでなく、人工的な直線が意図的に使われているからかもしれない。
「いい部屋ですね」
と、守。
「そうね。昔はよく逢い引きに使われていたらしいわ」
「へっ?」
「あら、冗談よ」
おかしいそうに笑いながらコタツまで戻ると、夏芽は下座に座って、コップや箸を手際よく並べる女将に注文を始めた。守は、早くなった心拍数を整えようと窓に近寄り、腰を屈めて火鉢の中を覗き込む。
透き通った水面には小さなスイレンの葉が浮かんでいた。水中からは名も知らぬ水草が突き出し、緑の葉や茎の合間には微かな波紋が広がっている。
(何だ?)
黒っぽい小さな魚が泳いでいる。
(……カダヤシ?)
不意に身震いした守は、寒さの中で目覚めた後のことを思い出していた。
底冷えのする寒さの中、守は北風に耐えるスズメのように丸く縮こまっていた。
夢と現が入り混じる頭で片目を薄く開けて辺りを窺う。と、すぐに冷たそうな石の壁が目に入った。
「ん?」
途端にすべての記憶が一斉に襲いかかり、守は跳ね起きて辺りを見回した。
探しているのは、記憶の最後に一緒にいた女だ。
けれどあの冷ややかで熱く沸騰する女は、どこにもいない。
あれは――
守は急いで自分の衣服を調べてみた。
乱れはない。
しかもあの時脱いだはずのダウンジャケットすら身に着けている。
寝転がったせいで土がついている他は、おかしなところは一つもない。
そう、確かにおかしなところは何処にもなかった。
薄暗い石窟の壁や天井には、何の光の痕跡も見られなかった。
南側の壁は完全に開いていて、薄明かりの、凍てつく冬の景色に繋がっている。
色のない世界――
今までいた場所に比べると、まるで現実味がない。
(夢? いや。現実だと思っている方が夢なのか――)
また、奇妙な感覚に襲われた。
守は頭を振って妄想を振り払う。
そして名残を惜しむように見返った。
だが、そこにも何も残っていなかった。
ただ曖昧な暗がりがあるだけだ。
仕方なく外へと一歩足を踏み出す。
冷たいものが頬に当たった。
鼠色の雲が低く垂れ込んだ空から、ちらちらと白いものが舞い始めていた。
駅を探して、守は何とか奈良へ向かう電車に乗り込んだ。まだ早いからなのか、車内の乗客は疎らだった。守は車両の一番端の席に陣取ると、消えてしまった女のことを考えた。
育は存在するのか、しないのか。
寒さの中で目覚めたあの時、守の体にまざまざと残っていた感覚。
柔らかな肌の、滑らかな感触。
様々に形を変えて纏わりつく粘膜と強い圧迫感。
何よりも、頭の芯が痺れるほどの激しい快感。
育と経験したすべてが、初めての感覚だった。
だのに――
衣服の乱れは一つもない。
下着も汚れていなかった。
(どうして?)
自分の感覚のすべてが、育の存在を認めている。
にもかかわらず、現実がそれにそぐわない。
何が現実で何が現実でないのか、守にはまったく判断がつかなくなっていた。
思考がぐるぐる回って、いつも最初に戻ってしまう。
密閉された石窟から出たにもかかわらず、封印された迷宮に迷い込んでしまったような、奇妙な感覚に襲われる。
(去年の夏から、ずっとそうだ)
守は結論の出ない問題をひとまず横に置いて、別のことを考えてみた。
守の体調は、今までとは違い劇的な変化が現れている。
いつもならエネルギーが暴走し、自分で自分を持て余していた。
それがいつものことだったから、何も不思議に思わなかった。
だが、今回は無理に追い立てられる感覚はなく、今はすべてが充実し、安定している。暴走していたエネルギーが制御され、収まるべきところに収まった。
そんな感じだった。
香子の時はこんな風にはならなかった。
いつまでも熱が続き、いつまでも乾いていた。
それが――
玄明育。
(どうして、あいつなんだ?)
「あ……」
守は振り出しに戻ったのを感じて、再び考えを停止した。
坪庭は、あくまでも作者のイメージです。
比率がイマイチ把握できていないので、実際に作ると成立しない可能性があります。




