追及
翌朝、午前10時。 黒川が山田を呼んだ。
「昨日の件で、追加の資料をお願いしたいのですが」
山田は会議室に入った。
黒川の隣には、昨日とは別の監査担当者が座っていた。机の上には、山田が提出した帳票の写しが並べられている。
「昨日の説明では、一時的な決済上の都合ということでしたね」
「はい」
「ただ、こちらで別の記録と照合したところ、処理後の残高に説明のつかない差異が見つかりました」
山田は瞬きをした。
「差異、ですか」
「はい。金額そのものより、処理の時系列が問題です。通常の入金処理では説明できない動きがあります」
黒川は一枚の紙を差し出した。
山田は目を落とした。 見慣れた数字が並んでいた。
彼自身が操作した記録だった。
「これは……」
「念のため確認します。この処理を行ったのは、山田さんご本人ですか」
沈黙が落ちた。 山田は、否定しようと思った。
システム上の誤作動だと言えばいい。担当者の入力ミスだと説明すればいい。自分は長年、銀行のために働いてきた。多少の不備があったからといって、いきなり犯罪者扱いされるはずがない。
しかし、彼の目の前にあるのは、自分の手で作った記録だった。
「……確認します」
「もちろんです。ただ、確認には少し時間がかかるでしょう。関連する処理を含めて、過去一年分の記録を調べることになります」
黒川は声を荒らげなかった。
それがかえって、山田には恐ろしかった。
「それから、山田さん」
「はい」
「本件については、今後、監査部とコンプライアンス部門で共同して調査します。調査が終わるまで、関連業務から外れていただく可能性があります」
山田は頷いた。
会議室を出ると、廊下の向こうで若い行員たちが笑っていた。 その笑い声が、ひどく遠い世界の音に聞こえた。
追及は、そこから急速に厳しくなった。
過去の処理記録が一つずつ洗い出された。最初は一時的な資金移動と見られていたものが、次第に不自然な連続性を持ち始めた。
山田が説明するたび、監査部は別の記録を示した。
この処理は何のためか。
なぜ承認記録がないのか。
なぜ翌日に戻されるはずの金額が一致しないのか。
誰の指示で行ったのか。
質問は、逃げ道を一つずつ塞いでいった。
山田は説明を変え、記憶違いを装い、資料の不備を主張した。だが、23年間にわたって銀行の記録を信頼してきた男は、自分が残した記録の正確さから逃げることができなかった。
調査開始から6日目。 横領の疑いが、正式に告げられた。
確認された金額は、8400万円。
山田は自宅待機を命じられた。
翌朝、銀行から連絡があった。
調査への協力を求めること。弁護士を通じて連絡すること。今後の処分については追って通知すること。
電話を切ると、部屋の中が急に静かになった。
妻はパートに出ていた。娘は学校だった。
山田はリビングのテーブルに座り、手のひらを見つめた。
この手で、何千件もの融資書類を確認した。顧客の資金繰りを助けた。部下の間違いを訂正し、上司の無理な指示を穏当に断り、銀行員として正しいと思うことを一つずつ積み重ねてきた。 その手で、金を盗んだ。
スマートフォンが震えた。
銀行からの通知ではなかった。
証券会社のメールだった。過去の取引に関する案内が、機械的な文面で届いていた。
山田はメールを削除した。
それでも、画面を閉じたあとに残った数字は消えなかった。
8400万円。
妻に話せば、どうなるだろう。 娘は、父親をどう思うだろう。
新聞に名前が載るかもしれない。職を失う。退職金はなくなるだろう。家を手放し、家族に借金を背負わせることになるかもしれない。
彼の頭の中では、まだ起きていない未来が、すでに確定した事実のように並んでいた。
そして、そのすべての未来の中に、自分が生きている姿を見つけることができなかった。




