清算
その日の午後、山田は家を出た。 妻には、銀行へ行く用事があると伝えた。娘には、何も言わなかった。
電車を乗り継ぎ、いつもの銀行が入るビルの近くまで来た。長年通い慣れた街だった。駅前の喫茶店も、昼食を買うコンビニも、雨の日に傘を買った売店も、何ひとつ変わっていない。
変わったのは、自分だけだった。
山田はビルの中に入り、エレベーターに乗った。
上昇する数字を見つめていた。
17階。
22階。
28階。
到着を告げる音が鳴った。 そこから先の記憶は、途切れ途切れだった。
彼は、もう自分では何も決められないところまで追い込まれていた。監査部の質問も、妻の顔も、娘の声も、頭の中でひとつの塊になっていた。
逃げたい。
その言葉だけが、繰り返されていた。
そして飛び降りた。
翌朝、銀行の会議室には、昨日と同じ資料が並んでいた。 黒川は、山田の机から回収された書類に目を通していた。横領の全容はまだ明らかになっていなかったが、証拠は揃いつつあった。
部下の一人が、沈痛な表情で会議室に入ってきた。
「山田課長代理が……亡くなりました」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。 黒川は資料から目を上げた。
しばらくして、静かに尋ねた。
「ご家族は?」
「奥様と、お嬢さんがいらっしゃいます」
黒川は、手にしていた紙を机の上に置いた。
その紙には、山田が最後に提出した説明書があった。
几帳面な文字で、こう記されていた。
――当該処理は、一時的な決済上の都合によるものです。資金の不足は発生しておらず、関係者への影響もありません。
黒川は、その文章をもう一度読んだ。
山田は、最後まで自分を守ろうとしていたのだろうか。
それとも、誰かに迷惑をかけたくなかったのだろうか。
あるいは、自分自身にさえ、本当のことを認められなかったのかもしれない。
窓の外では、朝の通勤客が歩道を流れていた。
銀行は9時に開く。
窓口には客が並び、電話が鳴り、端末には新しい数字が表示される。金は預けられ、引き出され、貸し出され、返済される。昨日と同じ一日が、何事もなかったかのように始まろうとしていた。
黒川は資料を閉じた。
8400万円。
その数字は、帳簿の上では必ず整理されるだろう。損失として計上され、責任の所在が明らかにされ、再発防止策が作られる。
だが、山田という人間が、どこで間違えたのか。
最初の120万円を稼いだときか。
最初の損失を取り返そうとしたときか。
銀行の金を初めて動かしたときか。
それとも、誰にも相談できないまま、真面目な銀行員を演じ続けた23年間のどこかに、すでに小さな綻びがあったのか。
その答えを記録する帳票は、どこにもなかった。 黒川は時計を見た。
午前8時50分。
あと十分で、銀行が開く。 彼は立ち上がり、会議室のドアに手をかけた。
そのとき、机の隅に置かれた山田の社員証が目に入った。
写真の中の山田は、少し緊張した顔で、まっすぐ前を見ていた。 誠実そうな、どこにでもいる男だった。
黒川は社員証を裏返し、資料の下にそっと置いた。 そして、ドアを開けた。
廊下には、いつもどおりの銀行の朝があった。
誰もが、自分の仕事に向かって歩いていた。
ただ一人分の席だけが、もう二度と埋まることはなかった。




