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THE 横領  作者: 印具米


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3/5

監査

 監査が入るという話を聞いたのは、6月の初めだった。

「本部監査部から三名。来週の月曜日から三日間だそうだ」

 朝のミーティングで、部長が言った。

「今回は預り金管理と、例外処理の運用状況を重点的に見るらしい。各自、書類を整理しておくように」

 山田は手帳を開いたまま、動けなくなった。

 預り金管理。 例外処理。

 部長の声が、遠くから聞こえてくるようだった。

「山田課長代理、聞いているか」

「……はい。承知しました」

 声は、自分でも驚くほど普通だった。

 その日、山田はトイレに5回行った。昼食は半分も食べられず、午後には胃が痛み始めた。帰宅しても眠れなかった。

 監査を乗り切る方法はあるのか。 考えられる手段を、頭の中で何度も並べた。

 だが、足りない金を埋めることはできなかった。株はすでに手放していた。消費者金融も、親族への借金も、現実的な解決にはならない。

 残された方法は、監査の目をすり抜けることだけだった。

 日曜日、山田は家族と回転寿司に行った。 娘が大学のオープンキャンパスの話をした。妻が、そろそろ受験用のパソコンを買ったほうがいいと言った。

「うん。そうだな」

 山田は笑って答えた。

 娘が席を立ったあと、妻が彼の顔を覗き込んだ。

「最近、ちゃんと眠れてる?」

「仕事が忙しいだけだよ」

「無理しないでね」

 山田は頷いた。

  その夜、妻の寝息を聞きながら、彼は何度も口を開こうとした。

 実は金を盗んだ。 取り返しのつかないことをした。 助けてほしい。

  だが、そのどの言葉も、声になる前に喉の奥で潰れた。

     

  月曜日、午前9時。

 本部監査部の3人が、会議室に入ってきた。 責任者は50代半ばの男で、名前を黒川といった。表情に乏しく、挨拶の声にも温度がなかった。

「山田さんには、預り金関連の実務について詳しくお聞きしたいと思います」

「承知しました」

 山田は会議室の椅子に腰を下ろした。

 机の上には、帳票の束とノートパソコン。窓の外には、隣接するビルの壁が見えていた。

 監査は淡々と進んだ。

 入金記録。決裁履歴。例外処理の件数。担当者ごとの操作記録。

 黒川は時折、数字を指でなぞりながら質問した。

「この処理についてですが、通常の手順と違いますね」

「はい。決済日が重なっていたため、一時的に例外処理を行いました」

「承認者は?」

「当時、担当者間で確認したうえで処理しています」

「記録は残っていますか」

「確認いたします」

 山田は資料を差し出した。

 喉が乾いていた。背中のシャツが汗で張りついている。

 黒川は資料を読み、数秒だけ目を上げた。

「なるほど。分かりました」

 その一言で、山田の心臓が跳ねた。

 黒川は次の帳票へ移った。 午前11時半、監査は一時中断となった。

 山田は廊下に出て、給湯室の水を飲んだ。紙コップを持つ手が震えていた。

 そのとき、会議室から黒川の声が聞こえた。

「ここは、もう少し確認が必要だな」

 山田は息を止めた。

 だが、そのあとに続いたのは別の案件についての話だった。

 午後も、監査は続いた。

 細かな指摘はあったが、横領の核心には触れられなかった。山田が提出した資料には一見したところ大きな矛盾がなく、黒川たちは別の部署の確認に時間を割いていた。

 午後五時過ぎ。

「本日は以上です。明日もよろしくお願いします」

 黒川が立ち上がった。 山田は深く頭を下げた。

「ありがとうございました」

 3人が会議室を出ていく。

 その背中が廊下の角に消えた瞬間、山田は椅子に座り込んだ。

 助かった。 今日は助かったのだ。

 まだ終わりではない。だが、今日を乗り切った。明日も、明後日も、なんとかなるかもしれない。

 彼は震える指でネクタイを緩めた。

 窓の外では、夕日がビルの隙間に沈みかけていた。

 山田はその赤い光を見ながら、初めて自分が生き延びたような気がした。


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