監査
監査が入るという話を聞いたのは、6月の初めだった。
「本部監査部から三名。来週の月曜日から三日間だそうだ」
朝のミーティングで、部長が言った。
「今回は預り金管理と、例外処理の運用状況を重点的に見るらしい。各自、書類を整理しておくように」
山田は手帳を開いたまま、動けなくなった。
預り金管理。 例外処理。
部長の声が、遠くから聞こえてくるようだった。
「山田課長代理、聞いているか」
「……はい。承知しました」
声は、自分でも驚くほど普通だった。
その日、山田はトイレに5回行った。昼食は半分も食べられず、午後には胃が痛み始めた。帰宅しても眠れなかった。
監査を乗り切る方法はあるのか。 考えられる手段を、頭の中で何度も並べた。
だが、足りない金を埋めることはできなかった。株はすでに手放していた。消費者金融も、親族への借金も、現実的な解決にはならない。
残された方法は、監査の目をすり抜けることだけだった。
日曜日、山田は家族と回転寿司に行った。 娘が大学のオープンキャンパスの話をした。妻が、そろそろ受験用のパソコンを買ったほうがいいと言った。
「うん。そうだな」
山田は笑って答えた。
娘が席を立ったあと、妻が彼の顔を覗き込んだ。
「最近、ちゃんと眠れてる?」
「仕事が忙しいだけだよ」
「無理しないでね」
山田は頷いた。
その夜、妻の寝息を聞きながら、彼は何度も口を開こうとした。
実は金を盗んだ。 取り返しのつかないことをした。 助けてほしい。
だが、そのどの言葉も、声になる前に喉の奥で潰れた。
月曜日、午前9時。
本部監査部の3人が、会議室に入ってきた。 責任者は50代半ばの男で、名前を黒川といった。表情に乏しく、挨拶の声にも温度がなかった。
「山田さんには、預り金関連の実務について詳しくお聞きしたいと思います」
「承知しました」
山田は会議室の椅子に腰を下ろした。
机の上には、帳票の束とノートパソコン。窓の外には、隣接するビルの壁が見えていた。
監査は淡々と進んだ。
入金記録。決裁履歴。例外処理の件数。担当者ごとの操作記録。
黒川は時折、数字を指でなぞりながら質問した。
「この処理についてですが、通常の手順と違いますね」
「はい。決済日が重なっていたため、一時的に例外処理を行いました」
「承認者は?」
「当時、担当者間で確認したうえで処理しています」
「記録は残っていますか」
「確認いたします」
山田は資料を差し出した。
喉が乾いていた。背中のシャツが汗で張りついている。
黒川は資料を読み、数秒だけ目を上げた。
「なるほど。分かりました」
その一言で、山田の心臓が跳ねた。
黒川は次の帳票へ移った。 午前11時半、監査は一時中断となった。
山田は廊下に出て、給湯室の水を飲んだ。紙コップを持つ手が震えていた。
そのとき、会議室から黒川の声が聞こえた。
「ここは、もう少し確認が必要だな」
山田は息を止めた。
だが、そのあとに続いたのは別の案件についての話だった。
午後も、監査は続いた。
細かな指摘はあったが、横領の核心には触れられなかった。山田が提出した資料には一見したところ大きな矛盾がなく、黒川たちは別の部署の確認に時間を割いていた。
午後五時過ぎ。
「本日は以上です。明日もよろしくお願いします」
黒川が立ち上がった。 山田は深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
3人が会議室を出ていく。
その背中が廊下の角に消えた瞬間、山田は椅子に座り込んだ。
助かった。 今日は助かったのだ。
まだ終わりではない。だが、今日を乗り切った。明日も、明後日も、なんとかなるかもしれない。
彼は震える指でネクタイを緩めた。
窓の外では、夕日がビルの隙間に沈みかけていた。
山田はその赤い光を見ながら、初めて自分が生き延びたような気がした。




