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白狐の恋~聞こえない足音~  作者: 空白朔名


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第2話 触れられない距離

 第2話 触れられない距離



「何言ってるんだ! 俺は来た道を戻るだけで……」


 言い終える前に、彼女の表情が変わった。

 彼女は俺から視線を外し川と反対側の山の斜面を見上げた。

 斜面の上から、枝を折る鈍い音を立てながら、黒い影がこちらに向かい滑り落ちてくる。

 その落ちてきた場所は、ちょうど彼女が立っていた位置だった。

 

「危ない! 逃げろ!!」


 彼女は、マウンテンパーカーのポケットに手を突っ込んだ状態で数歩後ろに下がった。

 一車線の道路を塞ぐように横たわったのは、黒く焦げた炭のようでいて、湿り気を帯びた不気味な大木だった。


「大丈夫か!?」


「わたし?」


「そうだよ、危なかっただろ」

 

 道路を塞ぐ腰ほどの高さの木に近づき、幹をまたぎ乗り越えて彼女の元へ行こうとした。

 だが、木に手を触れかけた瞬間、泥の底で何かが腐ったような嫌な匂いが鼻を突き、思わず手を止める。


「近寄らないで!」


「えっ!? また、それかよ……」


 一歩下がり、ため息をついた。

 ……その瞬間。


 目の前の黒い大木が、ボロボロと皮を落としながら、不気味に動き出した。


「うわっ、なんだこれ!」


 太い幹が裂け、手足のような形状の節が現れた。

 そのあり得ない状況に体が思うように動かず、俺はその場に立ち尽くした。

 バキバキと不気味な音を響かせながら、その塊はゆっくりと俺の方へ向きを変えてくる。


 なんとか、もつれる足を動かし、数歩ずつ下がりながら距離を保とうとした。

 だが、塊は俺の目の前で太い前足を突き、その勢いのまま獣のように後ろ足で立ち上がろうと身を捻った。


「来るな! 来るな!!」

 

 恐怖で目を伏せようとした、その瞬間。

 視界の端で、彼女がその塊の脇を跳ねるようにすり抜けてくるのが見えた。

 

「わたしのこと?」


 俺に向かって一直線に走ってくる彼女が、走りながら首を傾げる。


「え、えっ!?」


 彼女は俺の肩に手をつくと、そのまま跳躍した。

 立ち上がりかけた塊の頭頂部を、空中に伸ばした足裏で蹴り落とした。

 バランスを崩した黒い塊はガードレールへ倒れ込み、その衝撃で二つに裂け、音を立てて下の河原へと落ちていった。


 俺はその場に膝から崩れ落ちた。


「来ない方が良かった?」


 俺の視界に白い手が伸びてきた。


「いいや、君に言ったんじゃないよ……助けてくれたのか?」


 顔を上げて彼女の手を掴もうと差し伸ばした。

 だが、俺が手を伸ばした分だけ、彼女の手も遠ざかる。

 さらに伸ばすと、彼女の手も同じ分だけ遠のいた。


「何がしたいんだよ!」


「あなたが捕まえようとしたから……」


「起こしてくれるんじゃないのか?」


「怪我したの?」


「してないよ! もういいよ、自分で起きるから」


 自力で立ち上がろうとして伸ばしていた手を引こうとすると、今度は彼女がその手を掴み、力強く引っ張り上げた。

 

「良かったね」


 その意味が理解できなくて戸惑う俺に、彼女は少し笑みを浮かべた。

 彼女の手は、柔らかく少しだけ温かく思えた。

 川の風に乗り、彼女から杉の葉のような清涼な森の香りが、かすかに鼻をかすめた。


「あれは、何だったんだ?」


「木ね」


「木は立ち上がったり、人を襲ったりしないだろ」


「人は木を切るわね」


「いや……俺が言ってるのは……」


「自動販売機に行かないの?」


「行くよ! 今ので喉がカラカラだよ」


 どこか噛み合わない彼女との会話に、胸の奥が妙にざわついた。

 歩き出した俺の後ろを、彼女は数歩離れてついてくる。

 

「君は誰なんだ? それに、さっきのあの動きは……」


「あのくらい普通よ? あなたは、あれが普通?」

 

「悪かったな!」


 ようやく酒屋の前の自動販売機に着いた。

 その前で、彼女は初めて俺のすぐ隣に並んで立った。


 財布を出し、小銭を探す俺の横で彼女は並んだボタンを眺めている。


「どれにしようかな……」


「もしかして、俺が奢るのか? どこの誰ともわからない君に……」


「名前?」


「いや、そういうことじゃなくて……」

 

「……『みしろ』よ。じゃあ、これにしよう」


「まあ、いいか……助けてもらったんだし。俺は『光司』だ」


 みしろの独特な距離感に、俺は戸惑いながら苦笑いを浮かべた。

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